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短編・掌編

五つのボタン

作者: たびー

失くしたものは、ボタン? それとも。

失くしたものは再び麻美の手の中にもどるのだろうか。

 ぱたぱたと雨粒が窓を叩いた。

 麻美はノートパソコンから顔をあげ、ベランダからあわてて洗濯物を取り込む。

「今夜のお花見は、なしね」

 取り込んだ洗濯物をリビングに干しなおしながら、麻美はミホに聞こえるよう声を張り上げた。はーい、という返事が隣の和室からして、すぐ子ども部屋へ駆け込む足音がした。

 また押入から何か引っ張りだしたんだ。

 麻美がため息をついて和室をのぞくと、開け放した押入から段ボール箱が一つ、畳のうえに引っ張り出してあった。母が遺した手芸用品が詰まった箱から、何か持ち出したらしい。

「おばあちゃん、そっくり」

 いったい何を作るのやら。きっとミホの部屋はまた散らかり放題だ。後で片づけさせよう。麻美は眉間に皺をよせ、花柄の布やモヘアの毛糸が詰まった段ボールのふたを閉めた。

 だから、いらないっていったのに。

 急逝した母親の葬儀の後に、父親からなかば押し付けられた手芸用品だが、ハンドメイドには全く興味のない麻美には、ただ邪魔なだけだ。

 段ボールを押し入れに戻し、麻美は連休中にやるべきことを確かめた。持ち帰った仕事をすませること、父親の病院へ顔を出すこと、ミホの宿題を見ること。

 つい先日の家庭訪問で新しい三年生の担任からミホのテスト結果を聞かされた。百点満点で二十点にも手が届いていなかった。若い女性の担任は、しっかり勉強を見て欲しいと麻美に伝えて帰っていった。

 娘が勉強できないと、母親までダメな人だと思われているような気がする。ちゃんとしないと。片親だからと言われたくない。麻美は唇をかみしめた。

「きっと母さんに似たんだ」

 ミホの丸い輪郭や、黒目がちな二重は麻美の母親譲りだ。勉強は苦手だったと聞いた。じっさい宿題を見てもらった記憶がない。手先は器用だったけれど、整理整頓ができなくて実家の和室は、ミシンを中心にして足の踏み場もないほど布や型紙が広げられていた。もし、母親が元気だったなら、孫娘のために張りきって何でも作ってやっただろう。ワンピースでも、セーターでもバッグでも。麻美にしたように、いくらでも作ったはずだ。

 もっとも、麻美は母の作るものは、デザインがどれも野暮ったく感じられて好きではなかった。幼い頃ならばいざ知らず、小学校高学年くらいから母の作るものは着なくなった。

 母親には似ず、麻美は手芸がまるでできなかった。ボタン一つまともにつけられなかった。

 だから、大切なボタンを失くした。

 高校指定のブラウスの第一ボタンが取れて、母親に付けてくれるようお願いした。ボタンくらい自分でつければよかったのだ。針を持つのが億劫で母に頼んだのが間違いだった。確かに母に手渡したボタンは、見事に消えた。

 ブラウスのボタンには桜の形が銀線で描かれていた。第一ボタンは、目立つような金線だった。

 麻美は、ひどく母をなじった。普段は無口な父が仲裁に入るほどに。

「この制服を着るのに、わたしがどれだけ努力したと思うの」

 とうの母ときたら、一番下の銀線のボタンを外して上に付け直すと、後は古着から取ったボタンで間に合わせて麻美に渡した。

 そんなこともあったっけ、と麻美はひとりごちした。自分が母にいら立ちを感じていたように、母も自分に似ず不器用な娘を腹ただしく思っていたのかも知れない。病床の母の手を握ることもないまま、お別れしてしまったことを、やり残した宿題のように感じてしまう。亡くなった人への小さな恨みをいまだに許せない自分の幼さに口の中が苦く感じられた。

 リビングに戻ると、雨はみぞれになっていた。もう四月だというのに、北国の春は気まぐれだ。足元に電気ストーブを点けてパソコンのスリープを解除した。リビングダイニングの二人用のテーブルは仕事の資料とパソコンを置くと一杯だ。以前は一回り大きなテーブルがあった。しかし夫が去ったことで買い替えたのだ。

 失敗の二文字が頭に浮かぶ。母は麻美の結婚に良い顔をしなかった。

「なにも、そんなに立派な人じゃなくても」

 と言った母の言葉が麻美の耳に甦った。

「わたしのどこが釣り合わないっていうの」

 専業主婦のくせに片付けひとつこなせない母親を、麻美は見下していた。

 母のようにはなるまい。いつしかそう心に決めていた。

 進学校へ入学すること、より偏差値の高い大学へ進むこと、名の通った会社へ入ること。それから、完璧な男性を伴侶にして賢い子どもの母親になって、それから……。

 ストーブの暖かさで瞼が重くなってきた。

 努力して、努力して。いつでも一番のものがほしかった。自分は欲張りなのだろうか。誰もが知っている会社に勤める夫は、麻美の自慢だった。

 けれどミホが小学生になる前年に突然退職して、起業するといってきた。麻美は夫の気が知れず、ついていけなかった。事前に何の相談もなかった。麻美は夫から、相談相手にもならないと思われていることに頭の中が真っ白になった。

 どうするの、これからミホが小学生になるっていうのに、中学からは私立へ入れたいし。お金がかかるのよ、それに父親の職業欄に自営なんて書けない。

 堰を切ったように言い放つ麻美に、夫は顔をゆがめた。

――やっぱり、君はぼくを仕事で選んだんだ。

 どきん、と胸が鳴って目が覚めた。

「ママ」

 テーブルに突っ伏した麻美と、視線を合わせるように首をかしげているミホと目が合った。いつの間にか寝ていたらしい。

「宿題はしたの」

 きゅっと眉をしかめてミホは目をそらした。麻美がお小言を口にしようとしたそのとき、ミホが小さな手を差し出した。

「おはなみ、できないから……」

 桃色のフェルトに、たぶん桜の花の形だろう。丸みがかった星型の線が赤い糸で不ぞろいに縫われ、五つの先端にボタンが光っていた。

「これ……」

「おかしのカンに、はいっていたよ」

 桜のボタン。制服のブラウスは長袖三着、半袖二着。麻美は思わず確かめた。フェルトの上には五つの金線の桜があった。

 母は古着からボタンを外してクッキーの空き箱に入れていた。ミホが持ち出したのは、それだったのだろう。

「見つけていたんだ」

 麻美はミホが縫った桜を指でなぞった。たどたどしい針の運び。なんて不格好な花。

 母は結婚をもろ手を挙げて喜びはしなかったが、孫のミホが生まれた時の喜びようは、嘘偽りのないものだった。

 手先が器用だったくせに、麻美との対話はいつも不器用だった。母が麻美を分からなかったように、麻美も母を理解せずに終わってしまった。

 たぶん、ミホはわたしのようには生きないだろう。わたしが理想とする娘には育たないだろう。

 そんな娘を、わたしは受け入れられるだろうか。

 ミホはミホの人生を歩くのだと、わたしはいつか思えるだろうか。

 おどおどとした瞳が麻美を見つめている。胸の前で握った指には、針でついた赤い点がいくつも見えた。

 麻美はぎくしゃくと手を伸ばして娘を抱きしめた。娘を抱いたのは、赤ん坊のとき以来かも知れなかった。

「ありがとう」

 ミホが麻美の首に手をまわし、頬を寄せた。

 汗の匂いと、ほのかに甘い匂い。

 冷えた体にミホの体温が、温かく感じられた。

 わたしたちは、少しずつ母に似ていると、麻美は思った。


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― 新着の感想 ―
[一言] 人生の最後に、「思ったものを手に入れることができなかったけれど、それもまたよし」と思えた時、すべてを手に入れた以上の充足を感じるのだと私は思っています。 麻美は、娘とともに成長しながらそう…
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