不完全な存在
僕が部屋に帰ってすぐに、彼女は確認してきた。
「半日だけ時間をください」
だからと言って、何か、話すわけでもなく、彼女は空を見上げながら何かを考えていた。
僕は疲れからなのか、すぐに眠りにつき、目が覚めても、彼女はおはようございます、とそっけなく挨拶をしただけで、無言で空を見続けていた。
夏の空に浮かぶ大きな入道雲がゆっくりと動き、白い太陽の光を受け止めている。外は、熱気と刺すように強い日差し、それを受け止める深緑の緑、その影で鳴く蝉の声で満ちていた。風鈴のかすかな音が、風につられ、二重三重に響く。テレビのニュースと、食事の音、食後のコーヒーを飲みながら新聞をめくる音も、また然りだった。
それは、朝ごはんを食べて戻ってきた時のことだった。
彼女は、僕が部屋に戻ると、口を開いた。
「その昔、私には多くの仲間が居ました。そしていつのまにか、私はその仲間たちから一人はぐれていました」
僕は、彼女の言葉に耳を澄ました。風が、彼女の髪を白い浴衣裾をゆっくりとなびかせていた。
「この世界にはたくさんの精霊が暮らしています。この精霊たちのほとんど姿を見せることはありませんが、あなたやあなたのおじいさまを始め、一部の人間には姿が見えることもあるようです。」
彼女は、どこか遠くを見つめながら言葉を続けた。窓から入る風がどこかと奥の記憶を僕まで届けてくれる。
「……そして、姿を見た人間たちは、私たちが当たり前のようにする、ありとあらゆること……いわゆる奇跡のようなこと……をすぐ目の前で起こせるこの精霊の力を欲しました。そして、たどり着いたのが、あなたが手にしている護符なのです。」
そして僕の方を振り向き、悲しそうに微笑んだ。
「多くを欲するものほど、早く身を滅ぼすのはこの世の摂理。……試行錯誤の末、編み出されたこの手段は、多くを望み、欲に溺れ、自らが生み出した力に、命を蝕ませるという邪なものだと私は聞き及んでいます。」
彼女は遠くを見ながら言葉を紡ぎ、僕はその後ろ姿を見ていた。少しでも目を離せば、見失ってしまう、そういう気がしてしまうほど、その後ろ姿は僕を不安にさせるものだった。
「そしてまた、私たち護符に宿りし精霊は、とても不完全な存在なのです。方や自然のものに宿り大地の力を得られる精霊と、方や薄い紙に宿り召喚者の寿命を削る精霊と比べれば、私たちにできることはごくわずかな力で、ほんの限られたことしかできません。この世界の理から外れ、非効率に寿命を削り力を得て存在していた私たちは、どこかで大地の力を得られる精霊に対して憧れや劣等感に似たものを抱いていたことは否めません。……それ故に、私たち護符の精霊もまた、多くを望み、ある約束を召喚者と結んだのです。
「……どんな、約束?」
彼女は振り返り、僕をじっと見つめた後、少し考える素振りをして、くすりと微笑み口を開いた。
「まだ子供のあなたには、知らなくてもいいことです。」
「なんだよ、それ」僕は不機嫌になった。彼女はいつものように微笑み、顔を僕から空へと向けた。
「そうですね。……もうすこし大人になった時に、私が教えて差し上げます。」
僕は、ちぇっと舌打ちをしていた。何度も言われ聞き飽きた言葉を前に子供であることが改めて嫌になった。
「僕が大人になったら、絶対教えるって、約束して!」
「……はい。大人になったらの約束です」
僕の伸ばした小指と彼女の小指が交わり、僕が指切りと、合い言葉を続けた。
そのあと、彼女は軽く息を吸い込み、吐くと、空の色を確認して「では、そろそろ」と、窓の外へと顔を向けた。
「うん、またね」
彼女が窓のサッシに手を乗せ、身を乗り出すようにしたとき、僕は言葉をこぼしていた。
「……約束、守ってね」
彼女が振り向き、僕の顔を見ると、優しく微笑んだ。
「えぇ、必ず」
僕は、様々な不安で一杯になっていた。それを察したのか、彼女は優しく僕の頭を撫で、安心してくださいと、小さく呟いた。
「私たちには寿命はありませんので、あなたが大人になるまで、私はいつまででも待ちます。だから、あまり焦らずに大人になってください。私はそのときまでずっと待っていますから」
言葉の終わりと同時に、僕の前で彼女は優しく光り、吹き込む風と淡く溶け混ざり合い、消えていった。ぼくの耳には彼女の、ずっと、という言葉がいつまでもいつまでも繰り返されているのだった。