意地っ張り
もう関わらないでと、彼女は言った。
彼女は現れるとすぐに僕を確認した。すっと僕に視線を投げ掛ける。いつもと違かったことは、目が合った後に微笑まなかったことだ。
「……!」
いつになく張り詰めた声に、僕は見上げる。何を言っていたのかは、聞き逃してしまった。
不良たちに囲まれていた僕は、路地裏の壁に追い詰められていた。座り込んでしまった僕の前でかばうように彼女は僕に背を向け立ちふさがっていた。
「どうして、このようになるまで……」
口の中を切り、身体中が痛い。僕は肩で息をしながら、彼女の声に返事をしようとした。だけど、声にはならず、かすれた呼吸の音が響くだけだった。
彼女は小さく震えた。僕のように、恐怖から震えているのではないと、一目でわかった。
「妖は私がどうにかします。後は任せてください」
ぼんやりとしはじめていた意識の中に届いた彼女の声の後、淡い発光。すぐに僕の意識は光の底へと落ちていった。
……暖かい手だった。僕の頭に手を置き撫でてくるその手が誰の手だったのか、僕は思い出せなかった。その手を優しく包むように握り、そして言葉をこぼす。もう、どこにもいかないで、僕を置いていかないで、と。そして僕は彼女の背中で目を覚ました。
「……」
「彼女は、僕の目が覚めていることに気がついていないようだ。
街灯が灯る寂れた景色で日が沈んだことを知った。人通りのない帰り道の空気で家が近づいてきていることに気がついた。暖かな温もりをほとんど知らず過ごした毎日は、そこかしこに寂しさとして染み込んでいた。それに反応するかのように体中のかすり傷が、痛む。
耐えきれず、僕は声を出していた。
「……ごめんなさい」
その言葉を聞いた彼女は、僕が起きていることに気づいていたのか、驚いたそぶりもなく、ため息を吐き、言葉をつぶやいた。
「どうして、私を早く呼ばなかったのですか?」
「誰かに助けを求めたら、かっこ悪いから……」
それに続く言葉が、僕は言い訳だと知っていた。
「……それに、もう関わらないで、って」言った。それで、僕の過ちが少しでも軽くなるように僕は感じていたのだ。そこで、彼女は足を止めた。「違う! 違う、 それは……!」
重く、叫ぶように言い返した彼女は、そこではっと我にかえったのか、一拍置いてから、何かを拭うように頭を横に振ると、「私としたことが、取り乱してしまい、大変失礼いたしました」と、無言になった。僕は背中から彼女の様子を伺おうと、そっと顔を覗き込む。だけど、当然後ろからでは見えるはずもなく、しばらくそのまま横髪を眺めていた。僕が諦め、顔を戻そうとした瞬間、彼女が僕の方へと、顔を向けた。すぐ目の前、鼻が当たりそうなほど近い距離。息づかいが伝わりそうなほどのところに、お互いの顔があった。僕の鼓動が激しくなる。一気に顔が熱くなった。
「……もしもの時の話です。……もし、変な意地やどうでもいい見栄を突き通して、あなたが死んでしまったとしたら、……」
その言葉のとき、僕は彼女が流す、ひとしずくの涙に意識を奪われた。「……あなたの家族や親しい友人、それに私がどう思うか考えたことはありますか?」
彼女は、涙を伝せ、静かに僕の心へと言葉を綴った。
「私は、関わらないでと確かに言いました。それは言葉の綾で、本当はもっと違う言葉で伝えればよかったと、私は深く反省しています。次にあなたに呼ばれた時、すぐに謝ろうと思っていました。そんな私を置いて、あなたが亡くなったと知ったら、……私はいったいどうすればいいのですか?」
彼女は、僕と目を合わせそらさなかった。
「もう、2度と姿を見ること、言葉をかわすこと、何気ないことで笑い合うことすら、叶わなくなるのですよ?」
言葉を綴る彼女の目からは、つぎからつぎへと涙が溢れていく。強く、静かに言葉の波は続いた。僕は辛くなり目を背けるようにうつむいた。けれど、その言葉の波も最後の方には、小さく弱いものへと変わっていった。
「……また、私を置いていくのですか?」僕は顔を上げる。彼女はもう僕を見てはいなかった。目をつぶり、次から次へと溢れる涙を拒んでいた。
「また」と言った言葉が、彼女にとって大切な誰かに向けた言葉なのか、僕にはわからない。ただ、一番最後の言葉が、ずっとひた隠してきた彼女の心からの言葉なのだと、僕は幼いながらに思った。
「……もう、私を一人にしないで……」
彼女は呟き、流れた涙が頬を伝い、落ちていく。僕は目で追った。
その水滴は、地面に吸い込まれる前に、ぼんやりとした輝きを放ちながら、夏の夜の生暖かい空気の中へと淡くとけていく。僕は彼女の背中から、寂しさが少しでも和らぐようにと、微力ながら彼女をぎゅっと抱きしめていた。