第九話 雷電虎 夜に千里を走り 挿翼狼 闇に大火を放つの事
チャバの一言が、盛り上がる酒宴の場に緊張の空気を加えた。全員の視線が自然と彼に集まる。
「とうとう俺達も、帝都から直々に討伐される身分になっちまったって事だ。これから連中は、何度でも軍を出して来るだろうよ。お上の面子に賭けて、俺達を根こそぎぶっ潰すまで、な」
台詞はいつもの如く、しかし口調は容易ならない何かを感じさせた。
「二、三度なら跳ね返せるだろう。だが、この山寨はこれ以上拡げられん。五千や一万なんて数の敵に来られた日にゃあ、一千そこそこの俺達に打つ手はねえ。第一、近隣の村々が大迷惑だろうよ」
チャバは人情や感傷で動く男ではないが、民衆の犠牲と反感を招くような事態を引き起こす愚かさも持ってはいない。まして、捨てたとは言え故郷の人々である。
「俺は、ここらが引け時だと思う」
一座が騒ついた。誰もが頭領の言わんとするところを料りかね、半ば以上の不安と少々の興味が入り混じった奇妙な空気の中で、知らず、彼の次に発せられるべき一語に意が注がれる。
「つまり、引っ越ししようって訳だ」
軽い口調で戯けるチャバ。
再度の騒めきは、不安の大半が興味に化けた時に起こる類のものだった。
中でもシセイ、タッカー、ベルノの三人は、驚きと期待の眼差しでもってチャバを見詰めた。
「引っ越し、と言っても、アテがあるのか?」
残る僅かな不安を代弁して、ユーディがチャバに問う。
「以前から目を付けていた山があってな」
なけりゃ言わんさ、と言いた気な皮肉な笑みを顔に浮かべながら、彼は地図を広げ、その上の一点を指差した。
「帝都から西にほぼ二百五十里、関中山地の南端にヴォルケネーメンと言う山がある。四方を山に囲まれた、地勢険阻な自然の要害だ。今はヘプター=ヨーダと言う男を頭に、七、八百人のあぶれ者がここを本拠に暴れ回っているそうだ」
関中山地は、関中平野の西方を南北方向に走り、関中と中山の境界を成す山塊である。
それを聞いて、シセイ達は明らかにがっかりした表情を見せたが、チャバはちらりと横目で見遣っただけで何も言わなかった。
「その傘下に入るつもりなのか?」
「それだけの器量のある漢なら、考えてやらんでもないがな」
「……要するに、乗っ取るつもりなんだろ?」
チャバの真意を具体的に言葉にしたのは、問い掛けたユーディではなく、右列にいたショウだった。
チャバは唇の端を吊り上げて、例の人の悪い笑顔をショウに向けた。正解を言い当てた事を褒めているのかも知れないが、ショウは嬉しかろう筈もなく、憮然として鋭い眼光をチャバに叩き付ける。
チャバは全く意に介する様子もなく、
「しかしながら、理由はもう一つあるのさ」
と言って、シセイの持ち込んで来た話、すなわち魔王の現出と、それを防ぐべき勇者の結集の必要性、などを一同に披露した。
既にその内容を知っている六人--シセイ、タッカー、ベルノとミック、ゼン、それにショウ以外の面々は、驚きを隠せなかった。アルカイックやユーディですら聞かされていなかったのである。
「俺はこの話に乗る事にした。で、もし本当に魔王が地上に現われるとしたら、中山のラングフェルト辺りに出て来る可能性が高い、と俺は睨んでいる」
ラングフェルト県は名山霊峰、或いは修験場などを数多く有し、“最も神域に近い地”とされている。百数十年前、魔煞の星々が一筋の光の柱と共に飛び出したポルトカッシュールも、ラングフェルトの北部にある霊峰である。
「となれば、少しでも根城を近付けておく方が、今後何かと便利だろうよ」
ここまで説明されると、一同の興味はあらかた熱狂へと進化し、同道を願う者が我も我もと手を挙げた。だが、チャバは敢えて、残留を望む者には自由にするよう付け加えた。
しかし手下達は、この陽気で自信家の頭領を信奉していたし、ここを離れて独力で生き延びていける自信もなく、食わせてくれる甲斐性のありそうな近隣の勢力にも思い当たらなかった。これが彼等の去就を決定させた。
アルカイック、ユーディ、カディにも当然異論はない。ミック、ゼンも同様である。ただ、ショウだけは押し黙ったまま即答を避けた。
「しかし、ヴォルケネーメン山は確かに境目ですが、登り口は関中側にしかありません。どうやって関中に入るつもりです?」
アルカイックの真っ当な質問は、熱狂を一瞬押し鎮めた。
「そいつは考えてある。取り敢えず今のところは、各自身辺を綺麗にしておけ。立つ鳥何とやら、ってな」
抜け目のない頭領は、片目を瞑ってそう応じた。
おう、と唱和する一同。
未知への抑え難い衝動も加わって、宴の声は一層、山寨を揺るがすものとなった。
「チャバ」
宴の最中、一旦席を外したチャバをショウが呼び止めた。
「何だ?」
「先刻の話だが、貴様本気で信じているのか?」
「あんなスケールのでかい話なら、騙されてみるのも悪くないだろ?」
「茶化すな!」
斜に構えていたチャバ、はぐらかすのは無理と悟ったか、やおら正面に向き直った。
「……本気で信じてる、いや、知ってると言ったら?」
「!!」
いきなりショウがチャバの胸倉を掴んだ。
そのまま手前に引き寄せると、開いた襟元から小さな銀板の付いた銀の鎖が覗く。
ショウはその銀板に目を止めた。銀板には“乾”と彫り込まれてある。彼はこの鎖が封呪器の一種である事を知っていた。遠い古の記憶で……。
「ドゥ・イン……」
確信が口から言葉となって漏れ出た。
「その名で呼ばれたくないんだがな……」
チャバが顔を顰めてみせる。珍しく心底からの表情のようにショウには思えた。
「どうして判った?」
「こんな大仰な封印が必要なほど物騒な奴は、他にいねえ」
はっきりとそう言われては、チャバも苦笑して首を竦めるしかなかった。
ドゥ・イン。それは、かつて魔界における最初の魔獣として誕生しながら、その尚早さ故に葬られた者の念が実体化した魔物であり、“最も古き魂の骸”とも呼ばれている。相手の生命力を喰らい尽くす魔力を備え、肉体を腐らせる毒気を吐く。魔王ハイヴォリアをすら内心恐れさせていた非情なる不死参謀、魔界最強の魔物である。
そのドゥ・インが自分の身近に現われた。ショウは、己が決断せねばならない時機を迎えた事を悟った。
「で、用件はそれか?」
「……」
ショウは無言でチャバから手を離した。
「一日だけ暇をくれ。明日中には必ず戻って来る」
声を低くして頼むショウに、チャバはわざとらしく襟元を整えながら、
「行って来な」
と返答した。
「お前さんの脚なら間違いなかろうよ、ブリッツ・ティーガー」
その固有名詞を耳にした時、ショウの端正な眉がピク、と跳ねた。
「正体を暴かれた仕返しのつもりか? だが、貴様こそよく判ったな」
「“雷電虎”なんて、らしいアダ名を吹聴しているからだ」
舌打ちしながら、ショウは微かに薄笑いを浮かべたようだった。それと判る前に、彼はくるりと背を向け、顔だけをチャバの方に向けて小さく手礼する。
早く行け、と言うが如くチャバは片手で追い払うような仕草を見せた。
ショウの姿が闇の中に跳躍し、一瞬後に溶け込むように消える。
見送るチャバの表情には、何とも言えぬ複雑な笑顔が残っていた。
山門を一気に駆け抜け、麓へ通ずる山道の中途まで来たところで、ショウは一旦足を止めた。大きく息を吐いて天を仰ぐ。見渡す限り満点の星空に、思わず吸い込まれそうな感覚に包まれる。
中天を流星が斜めに横切った。
その刹那、ショウの瞳がカッ、と見開かれた。背にした凱命を抜き放ち、天空に掲げて叫ぶ。
「雷鳴、招来!!」
叫びと共にどうした事か、一天俄に掻き曇り、辺りは闇に閉ざされる。
そこへ中天より雷光一閃、紛うなく凱命の切っ先を捉えた。激しい光と轟音がショウの身体を包み隠す。
光と音が消え、再び静寂が戻った時、その場にショウの姿はなかった。
代わってそこには、一頭の巨大な虎--金葉色の地に暗青色の縞模様の毛並を鮮やかに光輝かせ、地上のものとは思われぬ程の猛々しさと雄々しさを兼ね備えた--の姿があった。
ブリッツ・ティーガー。
かつての魔軍の第二陸戦師団長であり、「陸にブリッツあり」と謳われた、魔軍でも名うての猛者である。巨大な体躯は常に電光を身に纏い、雷撃を自在に操る能力を持つ。鋭く研ぎ澄まされた爪牙と、一夜にして千里を駆ける脚力を誇り、その咆哮は如何なる猛獣も萎縮させずにおかない。
転生以来初めて地上にその姿を現わしたブリッツ・ティーガーは、その巨体を大きく身震いさせ、天に向かって一声吠えると、光の尾を引いて闇の中を走り去った。
彼の宿主たるショウが望む、あの街を目指して--。
ペイルリヴァーのエリィ=レム=アイドゥールは、いつもショウの安否を気遣っていた。
ショウは出立以来、何の連絡も寄越して来ない。もとより、彼がそう言う点に気の回る男でない事は十分承知している彼女だが、それでも一抹の不安と不満を拭い去れないでいた。自然と、領主である父にそれとなく情報の有無を確かめたり、街に出て巷間の風聞に耳を傾けたりする毎日を送るようになっていた。
この日もそのような一日を過ごし、公邸の二階の自室で眠りに就いた夜半の事である。
小石が窓を叩く小さな音で、彼女は目を覚ました。ぱっと寝台から飛び起きると、被っていた薄い毛布を羽織り、枕元の護身用の短刀を掴んで、窓際に身を寄せる。この令嬢は見掛けに拠らず、護身用と称して格闘術を一通り習い覚えており--切っ掛けはショウの側にいたいが為だったのだが--、人並みの腕は持っていた。
カーテンの隙間から外を窺うが、露台に人の気配はない。視線を庭に移す。月明かりの下に立つ人影があった。紺の装束、背に負う大刀、見慣れた輪郭--。
“ショウ!?”
思わず叫びそうになるところをぐっと堪える。
エリィは鍵を外し、音を立てないように窓を開けた。深更の冷たい空気が頬に触れる。
ショウは露台の端を足掛かりに、二跳躍で手摺を踊り越えた。部屋には入らず、露台に立ってエリィと向かい合う。
「エリィ……」
間違いなくショウだ。だが、その声も、表情も、これまでエリィが見た事もないほど苦渋に満ちた、且つ真剣なものだった。彼女はショウが容易ならぬ事態に陥っている事を悟らざるを得なかった。
「ショウ……、何があったの?」
「……エリィだけには真実を知っていて欲しい。だから、ここに来たんだ」
ショウはこれまでの顛末を全てエリィに語って聞かせた。
事情を聞くに連れ、エリィはまず悲しみの、次に憤りの色を露に(あらわ)した。
「ショウ、真実を軍法会議で訴えましょう! そうすれば……」
「証拠がない。あったとしても、通るかどうか疑問だがな……」
ショウは悲痛な面持ちで言った。帝国は伝統的に文官優位の思想が受け継がれている。軍法会議に訴えても、殺されたブホフが文官でショウが武官である以上、公平な措置が下される可能性は低い。現に、彼は無実でありながら罪人にされかかったのだ。
敗戦の責任はともかく、無実の罪を着せられるなど御免蒙る。だが自分が逃亡した後、一族にどのような罪科が課せられるか判ったものではない。自分の戸籍を抹消してでも、一族に累が及ばぬように計らって欲しい。彼はそうエリィに頼んだ。
エリィは、ショウが正道を行く事を望んでいた。しかし、その正道こそが当てにならぬ以上、他に選択はなかった。彼女は頷き、自分の父親に話す事を約束した。
「有難う。親父に会う事があったら、親不孝を良く詫びておいてくれ。それと……」
ショウは背の凱命を外すと、エリィの手に渡した。
「これも、家に返しておいてくれ」
しかし、彼女は刀をそのままショウに差し出した。
「ショウ、凱命は貴方にこそ必要な筈よ。お父様には私からお話ししますから、これは持って行って」
「エリィ……」
こうまで自分を信じ、気遣ってくれる女性の存在に、ショウは心の底から感謝していた。
「じゃあ、有難く借り受けるよ」
再び凱命を背にする。
「ショウ……」
ぽつり、とエリィが呟いた。
「ン?」
「本当は、私も付いて行きたい……」
「エリィ!?」
「だって、ここで別れてしまったら、もう二度と逢えないような気がして……!」
「……」
込み上げる想いが涙となって頬を伝う。そんなエリィを見て、ショウは言うべき言葉を見付けられずにいた。
「でも、私がいたら足手纏いよね……行って、ショウ。貴方が帰って来るのを、私、ずっと待ってるから……」
「……エリィ!」
ショウはエリィの細い身体を抱き寄せ、強く抱き締めた。エリィもショウの背中に腕を回して力を込める。
月に照らされた影が一つになった。
「エリィ、ここにいてくれ。そうすれば、必ずここへ、君のいる所へ帰って来る」
「ショウ……」
「約束だ」
二人の唇が触れ合った。
辺りを包む時間が静かに止まる。
ややあって、ショウはゆっくりと離れた。
「また逢える日まで、元気でな」
別れを告げると、彼は踵を返し、そのまま階下へ身を踊らせた。
「ショウ!!」
小さいが悲痛な叫び。エリィは手摺から身を乗り出さんばかりにしてショウの行方を追ったが、やがてその背姿も闇に溶けて見えなくなった。
「ショウ……!」
彼女の啜り泣く声だけが、夜の帳の中に密かな細波を立てていた……。
翌日、エリィは父に、ショウの身に降り懸かった苦難を打ち明け、処置を頼んだ。アイドゥール伯は酷く落胆したが、巳むなくショウの父と相談して、書類上での血縁関係を断ち、エノ家が連座させられぬように取り計らった。
しかし、領主家もエノ家も事の真相を殊更に隠そうとはしなかった。為にこの経緯は噂話として人々の口の端に上り、ペイルリヴァーの近隣ではエノ家の評判もショウ=エノの名声も落ちる事はなかった。これは後の話である。
ショウがミナツバーラの山寨に帰り着いたのは夕闇迫る頃、昨夜に山を出てからほぼ丸一日が経っていた。一昼夜、しかも人目を避ける為に山道を選んで駆け詰めだった筈だが、ショウ自身はさほども疲れている風には見えなかった。
「よぉ、お帰り」
山門を潜ったショウを呼び止める声があった。
自身出迎えに来ていたチャバである。
「済んだのか?」
チャバの問い掛けにショウは無言で頷き、そのまま彼の前を辞した。
「……やれやれ、素直じゃないねぇ」
ま、仕方ないか、とチャバは心の内で付け加えた。
この時既に、山寨は引っ越しの準備で大童だった。これまでに貯め込んで来た銭糧や武器などは莫大な量であった。これを千里の彼方まで運んで行くのである。しかも官軍の目に触れぬように。頭領に思案ありといえども、内に不安を抱える者は少なくなかった。
「街道はまだいいとしても、あの関をどうやって越えるんだ? あのブランフルーヴ関を!」
ブランフルーヴ関は、陸奥路の関中への出入り口である。関北への主要街道に設けられているだけあって、その守りは堅く、カステンタール、ポルトテールに次ぐ難関とされていた。とても千人そこらの人数で、正面から突破できるようなものではない。
にも関わらず、チャバは手下達が不安を訴えても「手は打ってある」としか答えず、具体的な事は決して話そうとしなかった。
「全く毎度の事ながら、うちの大将は何を考えているのやら……」
それでも、逆らったり逃げ出したりする者が一人もいないところが、チャバと言う頭領に対する不思議な信頼感の表われであると言えよう。
こうして時は過ぎ行き、遂に山寨を放棄する日がやって来た。
チャバは用意の整ったところから一隊ずつ出発させ、最後尾の集団には砦や建物に火を掛けるよう命じた。山寨はすぐに火の海となった。燃え盛る炎をじっと眺めているチャバを見遣って、アルカイックが小声で囁いた。
「貴方でも寂しがる事があるんですね」
「……いや、そうじゃねぇ。この火がこれ以上燃え拡がらないか心配でな……」
「……え?」
アルカイック、思わずチャバをまじまじと見て、
「……対策は打ってないんですか?」
「思ったより派手に燃えるんで、こいつはまずいと思ったんだが……ま、今更言っても始まらんさ。なるようになるだろうよ」
「……はぁ」
あっけらかんと笑うチャバの横で、アルカイックは盛大な溜息を吐いた。結局、彼が後始末の指揮を執る羽目になった事は言うまでもない。
ミナツバーラからブランフルーヴ関までは四百里以上ある。チャバ達一行は二十日間掛けてこの道程を踏破し、シュガリヴィエールに到着した。ここから関までは二、三日の距離である。
ここでチャバはカディを呼んだ。
「お前さんはこれから、三匹を連れてシュタートヴェステンへ行け。後は手筈通りやってくれ」
シュタートヴェステンは、ブランフルーヴの北西に隣接する小さな村である。
「あいよ。任しといてくんな」
「抜かるなよ」
「大丈夫だって。シュタートヴェステンはオイラの故郷だからね。抜け道一つ、山の木一本までバッチリさ!」
カディは親指を立てた。チャバもそれに応える。
カディが立ち去ると、入れ替わるようにアルカイックとシセイがやって来た。チャバは二人に顔を近付けて、何事か囁いた。二人は頷いて、了解を示す。
「予定は三日後。火の手が上がったら作戦開始だ!」
ブランフルーヴ関は、ブランフルーヴの街から大きく南に外れた、グリュックインゼル県とホースチェスナット県の県境の隘路に設けられている。関北三関の中でも最大の関であり、その守りは堅固で、常駐兵力も多い。
その夜、前触れもなく事は起こった。
関の北方の山から突然、火の手が上がった。と見る間に、炎は山肌を駆け巡り、周囲を赤く染め上げていく。
関の守備兵は皆叩き起こされ、たちまちにして関門の内外も櫓の上も、黒山のような人集りとなった。
「何事だっ!?」
「山火事だ! こりゃでかいぞ!!」
「違う、賊だ! 山賊共の襲来だ!!」
「燃えている! こっちに来るぞっ!?」
経験の浅い新兵には、大火が迫って来ると言う恐怖観念から、恐慌に陥りそうになる者も出掛かった。なにしろ暗夜の事とて、状況の見極めもままならず、さりとて関門を遠く出る訳にも行かず、八方塞がりの有様なのだ。
「狼狽えるな! この程度では関は小揺るぎもせん!!」
中小の隊長連中は、部下達が徒に惑乱せぬように躍起になって努めた。
確かに、炎の照り返しは近く見えるが、実際に轟々と燃え盛っているのは丘一つ向こう側であり、風向きから見ても関が炎に嬲られる事はまずなさそうだった。
その光の中に、こちらに向かって来る人影が映った。人影は疎らだが徐々に数を増していく。そのどれもが蹌踉めきながらやって来る。
「止まれ!」
官兵は役目上、群衆を門の前に留めた。彼らは焼け出された村民のようで、顔は煤汚れ、衣服は解れ、焼け焦げて、皆一様に疲れ切った表情をしていた。
「一体何があったのか。正直に答えよ!」
役人の問い掛けに、一番前にいた若者が進み出て答えた。
「私達はシュタートヴェステンの者です。今夜突然、多数の怪物が村を襲って来ましたので、命辛々逃げて参ったのです」
若者は顔こそ青ざめたままだが、気丈な声で説明した。
「怪物だと!? では、この火事も奴等の仕業か!!」
「はい。怪物は家々に火を放ち、我が物顔で暴れ回っております」
「村にはまだ逃げ遅れた老人達が残っています。早く助けて下さい!」
若者の後ろから、村娘が手を合わせて哀訴する。
こうなっては捨て置けない。逃げて来た村人達から知る限りの情報を聞き出すと、官軍は隊伍を整え、シュタートヴェステンに向けて大挙進軍を開始した。関の守りに残された数十名は、村人を門内に収容すると、堅く門を閉じ、万が一の怪物の来襲に備えた。
……それから半刻もした頃、村人達は安心感と疲労からか、大半が眠ってしまっていた。
守備を任されたカドマス将軍は、至極当然な事として村人達の眠りを妨げないように気を配っていたが、気が付くと部下の兵達にもこっくり居眠りしている者、うつらうつらしている者が目立つ。彼らは今日は昼番で、昼の激務の疲れもあるのだろうが、今は非常時である。村人の手前もあり、一つ叱責を加えようかと動き掛けたところ。
カドマスは急に強烈な眠気を覚えた。
“む……いかん……ここで眠ってしまっては……”
意思はしっかりしていた。が、身体が付いて来ない。両膝をがっくりと落とし、両手で上体を支える。ふと顔を上げた。
薄ぼんやりとした視界の中に、村娘の姿があった。村娘は小声で歌っていた。聞き覚えのない歌だった。明らかにヤパーナのものではない異国の言葉と、妙に耳に心地良い柔らかい旋律。声は時に高く、時に低くなり、聞く者を安らかな眠りに誘うかのようであった。
“あ、あれは……まさか……ま……”
全身の力が抜け、カドマスの意識は眠りの淵に沈んでいった。
門の上の物見台には三人の見張りがいたが、カドマスが倒れたのを見て、慌てて台を下りようとした。そこへ下から矢が飛んで来て、たちまち三人とも射落としてしまった。
「門を開けなさい!」
若者が立ち上がって命じると、それまで眠っていた筈の村人達がやにわに起き上がり、すぐさま門を開けた。続いて門外の闇夜に向けて松明を振り回し、何やら合図を送る。
暫くすると、街道の向こうから行軍の音が聞こえて来た。徐々にその音は大きくなる。
やがて姿を現わしたのは、青毛の六脚馬に跨った黒の騎将だった。その後ろには赤毛の駿馬と紺装束の戦士も見える。
言うまでもなく、チャバ率いるミナツバーラの一党である。
チャバはブランフルーヴ関の守りを突破するのに、大胆な奇策を用いた。まずカディに山火事を起こさせ、守備兵の目をそちらに向けさせる。ついで選り択りの数十人を被災した村人に化けさせて、関内へ入り込ませる。守備兵の大半が騒ぎの鎮定に出払ったところで、内側より関門を開き、外の大所帯を招じ入れる。この大仕掛けでもって、チャバ達はまんまと難関ブランフルーヴを通過してしまったのである。
「ご苦労さん」
労を労うチャバに、
「何とか上手く行きましたね」
とアルカイック--偽装部隊を指揮していた「若者」が彼である--が控え目に自らを評した。
「範囲を限定して魔法を掛けるのは難しいのよ。しかも相手に聞こえないように、なんて。こんなに緊張したのは久し振りだわ」
「村娘」の役は勿論シセイである。彼女が小声で睡眠の呪文を唱え、守備兵を眠らせたのだ。
「さて、後はカディが無事に逃げて来る事だけだな」
チャバは、未だ治まらぬ山火事を見遣って、そう呟いた。
一方のカディは--。
彼はシュタートヴェステンに入ると、村落の南の丘に一旦身を隠し、頃合を見計らって丘に火を放った。風はお誂え向きの北風、村に飛び火する恐れはない。しかしブランフルーヴ関から見れば、村が燃えているように見える。火事に気付いた村人が出て来ても、抑える手立ては打ってある。
甲高い咆哮が闇を切り裂いた。
これを合図のように、遠近から無数の雄叫びが闇の中に響き渡った。村の方角からだ。よく聞くと、人間の悲鳴も混じっている。
「始めたな」
彼は小さく呟き、騒ぎのする方向を見た。
雄叫びはものの十分ほどで収まり、再び静寂が戻る。暫くすると、前方の草叢がガサガサと揺れ動き、次いで三体の黒い影が飛び出して来た。
カディは慌てる様子もなく、三つの影を笑って見ている。
影の正体は怪物だった。いずれも二本の足で立っているが、その背はカディよりも小さい。一体は赤褐色の肌にぎょろりとした目の小鬼。一体は犬のような顔と尻尾を持つ犬鬼。もう一体は豚に似た顔と体付きの豚鬼であった。
〈うまくいったか?〉
カディが吠えた。いや、小鬼の言語で話し掛けた。
〈へい、兄貴。村人どもは追っ払ってきやした〉
小鬼が胸を張って答えた。
〈あいつら、俺達の居場所も数もわかんねえもんだから、おっかながって村に逃げ帰ってやんの〉
犬鬼が自慢げに吹聴する。
〈久し振りに人間どもを脅かしてやったぜ、グヘヘ〉
豚鬼も調子に乗って、下卑た笑いを見せた。
〈それはいいが、誰も傷付けるなって言い付けは、ちゃんと守ってるだろうな、お前ら?〉
〈へ、へいっ! そりゃもうっ!〉
カディが語調を強くすると、三匹は慌てて平伏した。
この三匹は、かつてはモントフォルム一帯を荒し回っていた怪物共の群に属していたが、チャバ率いるミナツバーラの一党に退治され、以来彼等に服する事になったのである。
この時チャバは降伏した怪物共に、生命と引き換えに誓約を立てさせた。今後決して人間を傷付けない、と言うものである。そして、誓約を破った者には例外なく相応の報いが下されていた。故に三匹は、文字通り命懸けでその誓約を遵守しているのだ。
三匹はカディ専属の手下として、種族の特性を生かして--小鬼のグーグルは目が利き、犬鬼のギャーは耳が利き、豚鬼のゴンゴは鼻が利いた--よく働いた。今や三匹は、カディの諜報活動になくてはならない存在になっていた。その事を一番実感しているのは、他ならぬカディであろう。
〈よし。じゃあ次は、官軍兵を相手にする番だ〉
カディは後の手筈を三匹に説明した。
〈グーグルは東の丘に上って、オイラが合図したら火を掛けろ。ギャーは南の街道筋を見張って、軍隊が見えたら吠えて知らせろ。後はそのままやり過ごしてから、道に火を掛けて逃げ道を塞いじまえ。ゴンゴはオイラと一緒に来い。いいな?〉
〈合点承知!〉
三匹が声を合わせた。
持ち場へ向かおうとするグーグルとギャーに向かって、カディがもう一言付け加える。
〈オイラ達が飛ぶのが見えたら、山を越えて逃げろ。合流するのはそれからだぞ〉
〈へい!〉
二匹は闇に消えた。
カディとゴンゴは、本街道からシュタートヴェステンへと道が分かれる三叉路へ移動していた。ここは両脇に山林が迫り、道が細くなっている。待ち伏せに持って来いの地形である。
既に右手の山林にまで炎は達していた。しかしカディは、左手の林にも火を放ち、さらに自分の背後に柴草を積んだ。
〈た、大将! 逃げ道がなくなっちまうぜ!〉
ゴンゴは青くなったが、カディは平然としている。
〈逃げ道? あるじゃねえか〉
準備を終えたのと時を同じくして、闇の向こうから遠吠えの声が響いた。ギャーの合図だ。
〈ゴンゴ! さっきの要領で、火の後ろを動き回りながら吠え続けろ。連中に大群だと思わせるんだ!〉
ゴンゴはあたふたと隠れた。
カディは柴草に火を点けると、官軍が現われるのを待った。
さほど待つ必要もなかった。遠くからちらちらと松明の明かりが数を増しながら近付いてくる。と見る間に、それらは闇夜に一手の軍勢を形作った。
軍勢は、カディの姿に気付いたところで進軍を止めた。
官軍の将兵は訝らずにはいられなかった。逆光でよく見えないが、目の前にいるのはどうも少年のようである。しかし、周囲を炎に遮られ、これだけの軍勢を前にしても平然としているからには、ただの少年である筈がない。どう対処すべきか、誰もが一瞬迷いを発した。
その時、カディが動いた。
「ルフト・ヴォルフ!!」
構えた右手を振り下ろすと同時に、彼の身体は白光に包まれた。眩しさに皆目を背ける。
出し抜けに光は消えた。
視力を取り戻した将兵の前に、少年の姿は既になく、代わって異形の魔物がその場に立っていた。
翼を持ち、二本足で立つ狼--空狼。
余りの禍々(まがまが)しさに、軍勢の間に怯えが走る。
その瞬間を彼--セカンド・ギグは見逃さなかった。
吠え声を上げて、一跳躍で距離を詰めると、先頭にいた兵士を高々と頭上に抱え上げ、そのまま軍勢の中へ投げ落とした。
巻き込まれて十数人が吹っ飛ばされる。
我に返った一人の兵士が、手にした剣でセカンドに斬り掛かった。
セカンドは無造作に左腕を挙げる。
キン、と金属的な音が響いた。
見ると、セカンドの左腕の毛が鎌のような形となり、剣の一撃を受け止めている。セカンドは自らの意志で、体毛を硬質化できるのである。
セカンドは、目を見開いたまま動けないその兵士の右手を掴み上げ、恐るべき膂力で振り回し投げ捨てた。
これでまた十数人が薙ぎ倒される。
軍勢の恐怖は最高潮に達した。火の壁の向こうから聞こえて来る無数の咆哮は、自分達が怪物の大群に取り囲まれていると言う不安を増大させる。そして目の前には、これまでに出会った事のない、恐ろしく強い怪物がいるのだ。
そんな彼等に対して、セカンドがもう一声雄叫びを叩き付ける。
これで軍勢は止めを刺された。
恐慌状態に陥った先頭集団は、悲鳴を上げて元来た道を逃げ帰り、後続部隊と衝突した。逃げ道を確保しようとして押し合い圧し合いの末、同胞に踏み潰されたり、炎の壁に突っ込んだりする者が後を絶たなかったが、それらはまだ良い方で、別の地点では恐怖に駆られた挙げ句、同士討ちと言う凄惨な場面を展開する者もいた。
ともあれ、官軍が逃げ散るのを見届けたセカンドは、忠実な手下に呼び掛けた。
〈ゴンゴ!〉
〈へ、へい!〉
声のする方へ、燃え盛る炎を難なく飛び越えると、そこにゴンゴの姿があった。
〈た、大将!〉
〈作戦成功だ。ずらかるぞ!〉
言うが早いか、ゴンゴを手近の木に登らせ、自らもその後を追う。
天辺まで登り切ると、息を切らせているゴンゴの身体を抱え、すかさず中空の闇へ身を踊らせた。
〈わひぃ!?〉
ゴンゴは思わず目を瞑ったが、
〈大丈夫、落ちやしねぇよ〉
セカンドは笑って言った。彼の翼は地上の炎が起こす上昇気流をしっかりと捉え、滑空している。
彼は空中で二、三度吠えた。グーグルとギャーに合図するためだ。彼等は暗視能力を持っているので、夜間でも何の問題もなく山を越えられるだろう--実はゴンゴにも暗視能力はあるのだが、如何せん彼は足が遅いので、セカンドが抱えて飛ぶ事にしたのである。
そしてセカンド達は上空を数度旋回すると、やがて南の空へと飛び去っていったのであった……。
こうしてチャバ達一党は関中の地に入り、騒乱の舞台いよいよ関中へ、と言う事になるのであるが、果たしてこの先、彼等は如何なる風雲を巻き起こすのか? それは次回で。