第八話 捷鞭将 虎を陥穽に落とし 雷電虎 道を断たれて山に拠るの事
刀と棍が相打つ。
鋭いショウの一太刀を、チャバが辛くも受け止めた。
“こいつは……!”
心の内で驚きと賞賛の入り交じった口笛を吹きながら、しかし表情はあくまで余裕の笑みを崩さないチャバ。
「やるじゃない」
不敵に口の端を吊り上げて、今度はチャバの棍がショウの眉間を狙う。
素早い突きを、ショウは顔を傾けて危ういところで躱した。
“クッ、流石は……!”
噂は伊達ではない、とショウもさらに気を入れる。
--凄まじい打ち合いが続く。
五合……十合……二十合……三十合……。
双方とも一向に衰える気配はない。
互いの兵も、加勢したくともその隙を見出す事すら出来ず、ただ固唾を飲んで見守るばかりであった。
ショウの名刀が唸りを上げる。
チャバの棍が風を巻く。
斬る。流す。払う。受ける。
両者の持てる武技の粋を尽くした渡り合いは、百合以上にも及んだ。流石に二人とも流汗淋漓、肩で大息を吐く有様であった。
「これじゃ埒があかん。決着は後日付けてやるから、それまで覚えときな」
言い捨てて、チャバは馬を返した。
「口ほどにもなく逃げるか。待て!」
追い掛けるショウ。
赤毛の優駿は快足を飛ばし、先を行くチャバの青毛の六脚馬との差がみるみる詰まる。
あと数歩で奴の背中を捉えられる! ショウが確信したその時。
チャバが馬上で振り返った。
左手から影が飛ぶ。
来る!?
咄嗟の判断でショウは刀を立てた。
その刀に重い衝撃が走る。
ショウは手綱を引いて、馬を止めた。その彼の視界に、チャバの手元に引き戻されて行く蛇のような影が映った。
「チッ、迂闊だったぜ……」
チャバが長けているのは棍だけではない。捷鞭将と言うアダ名が示す通り、寧ろ鞭こそ彼の本領であった。その事をショウは思い知らされた気分だった。
いつの間にか、チャバの六脚馬は遥か前方を駆けている。これから追っても間に合うまい。
どうやらこれは奴の詐術だったらしい。逃げ足を緩めてわざわざ敵を誘い、射程距離に入ったところで強かな逆撃を加え、怯んだ隙に今度は本当に逃げ出す。ショウは見事に引っ掛けられたのだ。
業腹なのだが、しかし賞賛の念もショウの心の内には存在した。
「賊輩とは言え、流石は音に聞こえた関北の傑物。油断は出来んな……」
胸中に複雑な感情を抱きつつ、ショウは手勢を収めて帰陣した。
一方のチャバも、手下共を纏めて陣へ引き返していた。
「参ったね。ありゃあ、本物の虎だよ」
出迎えに出たアルカイックとユーディに、チャバは馬を下りるなり言った。
二人とも返事をしなかった。チャバとあそこまで渡り合える男--しかもあの若さで--に、こんなところで遭遇しようとは、つくづく「世間は広い」と言う常套句が思い起こされた。
「正面からぶつかるのは、ちぃとばかし骨が折れるな。アル、どう思う?」
指名されたアルカイックは、暫し考え込む仕草を見せていたが、
「確かに彼は勇敢で有能です。しかし、武才と将才には厳然たる差違があります。果たして彼が両者を兼備しているでしょうか」と、己の見解を開陳した。
「仮に備えていたとしても、それは彼だけの事。一人では戦は出来ますまい」
「蛇を捕らえるには頭を潰す、か……」
チャバは頭を掻いて苦笑する。
「そいつが一番厄介じゃねえか」
「本当にそうお思いですか?」
アルカイックは涼し気な笑みを浮かべている。その表情から、チャバは自分の意図を見透かされている事を看取した。しかし、それは決して不快な経験ではなかった。
チャバはこの物分かりの良い参謀に、人の悪い笑顔を向けた。
「カディを呼んでくれ」
翌日、チャバは再び手勢を率いて、大胆にも官軍の陣前に現われた。
これはショウにとって意外な展開だった。人を食ったような所のあるあの男の事、定めし今度は奇策を仕掛けて来るに違いない、と踏んでいたからだ。とは言え、現実に敵を目の前にして、拱手傍観している訳にも行かない。迎撃に出んと馬を引かせたところへ、
「今回は自分が」
とミックが出陣を願い出た。
ショウは、ミックの腕ではまだチャバに敵し得ないと思ったが、若武者の希望を無下にも出来ず、出陣を許可した。
ミックは勇躍して、単騎陣頭に立った。ショウは一手の軍勢と共に柵の外に控え、いつでも助けに出られる態勢を取っている。
ミックの出で立ちは、駱駝色の襯衣の上に前あきの革鎧、革を当てた六分丈の洋袴を履き、頭を黄色の布で覆い、右手には狼牙棍を構えると言うもので、恰幅の良い体躯と相俟って、勇士の風を辺りに払っていた。
鹿毛馬の馬上より、ミックが大音声で名乗りを上げる。
「霹将軍のマイケル=ホワイトロックここにあり。チャバ=ザ=ダーハ、出て来ておれと勝負しろ!」
応じて敵陣より出たるは青毛の六脚馬、その鞍上なる黒の騎将。
「若僧、貴様じゃ話にならん。ショウを呼んで来い!」
「何をっ!!」
元来気の短いミック、露骨に侮られて何で堪ろう、たちまち怒気を発し、面を朱に染めてチャバに襲い掛かった。
剛腕に物を言わせて、遮二無二攻め掛かるミック。対するチャバはせせら笑いながら、唸り来る猛撃を流し、躱し、一つとして掠らせない。
三十合も打ち合ったろうか、ミックの動きが目に見えて鈍くなってきた。ただでさえ重い狼牙棍を、怒りに委せて目一杯振り回していたのだから、疲れ衰えるのも当然である。
「もう終わりか? なら、今度はこっちから行くぜ」
チャバが猛然と攻撃に転じた。その繰り出される変化の棍、ミックは受けるもままならない。
これはいかん、とショウが助太刀に出ようとする。その前に、一騎の武者が飛び出した。
「ミック、代われ! ここはオレに任せろ!」
白の襯衣に銀色の鎖鎧を着、青い洋袴に牛革の騎馬袴を重ね履きし、得物の大劈風刀を煌めかせて、ゼノワルド=ブリッジブック、一名を破先鋒が親友に代わって、チャバに挑み掛かる。
「まだ解らんか。俺と闘るには百年早ぇぜ!」
いつの間に持ち替えたのか、チャバの右手には愛用の革鞭が収っていた。ゼンが自分の間合いに入るより早く、鞭が風を切って襲い来る。
ゼンは慌てて刀で受け止めた。
ガン、と鈍い音がする。
その重い衝撃に、ゼンの戦意が僅かに挫けたところへ、矢継ぎ早に二の鞭、三の鞭が打ち込まれる。或いは輪を成し、或いは波を描き、その動きたるや変幻自在。ゼンは得意の刀術を披露する間もなく、いとも容易く窮地に陥れられてしまった。
そこへ、
「いつまでも手前勝手にのさばらせておくものか。お望み通りショウ=エノ自ら相手をしてやる。性根を据えて掛かって来な!!」
愛馬を飛ばして、ショウが割って入る。
やっと来たか。チャバは唇を歪めて、
「雑魚相手じゃ準備運動にもならん。お前さんなら、少しは楽しめそうだな」
「何だとぉっ!!」
侮辱され、激昂するミックとゼン。今にも飛び掛からんばかりの勢いの二人を、ショウは無言で制止した。
チャバもそれ以上の軽口は叩かず、黙って構えを正す。
呼吸を整える為の一瞬の静止の後、両雄はどちらからともなく打ち掛かった。
昨日の芸術的なまでの死闘を再現しているかのような、見事な一騎討ちは五十合に渡って続けられた。
ここで突然、チャバはくるりと背を向けて逃げに入った。
無論、ショウは追う。だが、敵の誘いである事を警戒して、付かず離れずの距離を保っての追走である。
ショウはやおら懐中より手裏剣を取り出し、前を行くチャバ目掛けて投げ付けた。
銀の刃が光の尾を引いて、チャバの背中に突き立つかに見えた。
しかし、チャバは振り向き様に鞭を振るって、手裏剣を難なく叩き落とした。
これを見届けると、ショウも追うのを止めた。
「やはり、小細工の通用する相手じゃないな……」
そして、義賊団が引き揚げて行くのを確認してから、自分達も陣の内に戻った。
次の日も、その次の日も、チャバは手下共を連れて官軍の目の前に現われ、ショウとの一騎討ちを所望した。
官軍側では必ずショウが応じた。彼は、ミックやゼンが如何に再戦を望んでも、許可を与えなかった。
そして数十合も打ち合うと、チャバが逃げ出す。
ショウは追う素振りは見せるものの、裏のある事を察しているので、追い縋ろうとはしなかった。
--このような茶番劇が連日に渡って続けられれば、軍中に不穏と不審の気配が漂うのも当然の事である。さしものショウを心中穏やかではいられなかった。
「奴め、一体何の狙いがあって……?」
ショウは、敵の企図を読み取る事に苦心していた。その余りに、彼は想像できなかったのである。軍中の不審が彼の思いも寄らぬ方向に向けられつつある事に……。
「種は蒔いた。疑心暗鬼って名のな……」
義賊団の幹部が集合した席で、チャバはここ数日の行動をそう表現した。
「次は、こいつに立派な花を咲かせてやりゃあいい訳だが、その前にだ……カディよ」
彼は手下の一人を指名した。
「お前さんの調べたところを、ここで報告してくれ」
「あいよ」
チャバとショウが一騎討ちに明け暮れている間を縫って、カディは目端の利く手下達と共に、情報収集に奔走していた。彼等の集めた情報は、敵将の性格、能力から兵の練度や士気、さらには軍中に流れる風聞まで、非常に多岐に渡っていた。短期間にこれほどの情報を調べ上げるあたり、彼の諜報能力は並ではない。
カディの報告を一通り吟味すると、チャバは黙考の姿勢を解いた。
「……なるほどな。やはり難敵はショウ一人、後は与し易い連中だけが残る。アル、お前の言う通りだったな」
参謀の先見性を褒めるチャバ。
「では続いて、どんな手を打つ?」
「当然、ショウを味方の手で召還させる」
右手の人差指をユーディに向けて、チャバは端的に回答する。
「問題は、仕上げをどいつに掛けるかだが、意見はないか?」
「ホワイトロック、ブリッジブックとも単純な武人です。一旦はこちらの策に乗せたとしても、ショウ=エノが弁明に出れば、却って彼を信用してしまう事も考えられます。ここはショウに次ぐ権限を持ち、些か頑迷な人物を選んでは如何でしょう」
アルカイックが暗に示した人物は、チャバも眼中に捉えていた。
「ダン=デュドネイ=ブホフ……こいつか」
督戦官たるこの男は、ひたすら物欲に妄執する小人ではなかったが、自負心が人一倍強く、且つ融通性に乏しい、とカディの調査には記されていた。こう言う人物は、本人が信じたがっている情報を目の前にぶら下げてやれば、こちらの思う通りに行動してくれるものである。
「しかし貴方も人が悪い」
脳裏に思索を巡らせながら唇を歪めてにやつくチャバを、アルカイックは皮肉ってみせる。チャバの精神的影響は、真面目な元神官にもしっかり波及している。
「何言いやがる。こんな純真無垢な善人を捕まえて」
恐らくは、自分に最も縁遠い形容をチャバは口にした。
「この策が成功すれば、ショウ=エノは帰る所を失くしますよ。さぞや恨まれる事でしょう」
「何、全然気にしないさ。俺は心の広い男だからな」
貴方の心の問題ではないでしょう、とアルカイックは口に出さなかった。チャバの悪癖とも言える「偽悪者」の仮面の下には、別の熱い感情が流れている事を、付き合いの長さで彼は知っていた。
二、三日を経ずして、官軍の内部に奇妙な噂が蔓延り出した。
曰く、
「ショウ=エノ将軍とチャバ=ザ=ダーハの間には密約が交わされている。チャバは降伏の条件として、恩赦による減刑を求めている。連日の一騎討ちにも関わらず勝負が付かないのは、条件面で折り合わないからだ。折り合いが付いたら、すぐにでも奴は降伏して来る」
これらの噂は、当然ショウの耳にも届いていた。しかし彼は、これを賊共の計略と看破し、「惑わされるな」と布告して人心の動揺を抑えに掛かった。
だが彼はここで、余りに簡単に敵の策を読んだが為に、大事な点に思い至らなかった。もし、この噂を信じたがっている者がいたとすれば、どうなるのか……。
日ならずして、義賊団は忽然と姿を消した。
官軍が怪しみながら斥候を放ったところ、義賊団は本拠たるザオウ山に立て篭もっていると言う。
直ちに対応が協議されたが、互角に組んでいた敵軍が山寨に逃げ帰ったのは、我々を誘う見え透いた罠だと考えたショウは、急追して山寨ごと掃滅せんと主張するミックやゼンの進言を退けた。
「我が軍には未知の秘境。奴等にとっては勝手知ったる、自分の庭も同然の地。こんな不利な戦を敢えてする必要はない。遠巻きにして出入りを封じ、奴等が飢えて降るのを待てば良いじゃないか」
ショウの判断は、純軍事的には正しいものであった。だが、見る者の目が偏見に曇っていればどう映るか。彼が「降るのを待つ」と発言した瞬間、微かに身を震わせた者が少なからず存在した。
その中でも恐らくは最も高い地位にあった--すなわち督戦官のブホフは、今やすっかり頭脳を頑迷色の濃霧に覆われてしまっていた。裏取引が行われている事は最早明白。或いは、ここでショウを追い落せば自らの功績となる、と言う損得勘定も働いていたかも知れない。
ブホフはミックとゼンに、ショウの捕縛と召還を諮った。両者はショウの背信の証拠--ブホフの都合の良い解釈によるものだが--を突き付けられて、あっさりとこれを信じてしまった。
一日、三名は十数人の兵を引き連れて、ショウの幕舎を訪れた。
「エノ将軍、本職の職権に於いて、貴官を拘禁します」
「何ィ!?」
「理由は、御自身が良くお解りの事でしょう」
眼前に突き付けられた令状には、罪状が並べ立てられていた。確かに覚えはある。犯したのではなく、嵌められようとしている事に……。
「馬鹿なッ!!」
彼は吐き捨てるように叫んだ。
「これは奴の策略だ!! 解らんのか!?」
しかし、彼の主張は受け入れられなかった。
その場で彼は指揮官職を解かれ、後ろ手で縛られたまま檻車に押し込められた。
--近日中に彼は帝都へ護送される事になろう。意気揚々と故郷を出て来てより、さほどの刻も経ておらぬと言うのにこの有様、この身の流転……。故郷の者はどう思うか、一族には如何なる難儀が降り懸かるか、そしてエリィ……。
ショウは頭を振った。そこまで思いを馳せると、次には今の境遇に対する怒りが沸き起こってくる。あざとい策略を用いたチャバ、それに乗せられたブホフ、ミック、ゼン、そしてまんまと陥れられた自分自身を、ショウは呪わずにはいられなかった。
「ショウ=エノ逮捕」の報は、義賊団にも即日届けられた。
チャバは口笛を一つ吹いて成功を祝うと、アルカイックに向かって笑い掛けた。
「これで楽勝だな」
アルカイックはぎこちない笑顔を見せたが、すぐに表情を引き締めると、チャバに問い正した。
「このままにしておいて宜しいのですか?」
「何が?」
「ショウ=エノは貴方にとって、必要な人物となり得ませんか?」
チャバの顔から笑いの成分が消えた。顔を背け、旧知の参謀から意識的に目を逸らそうとする。
その気まずい沈黙を破って、ユーディが別件を持って現われた。
「チャバ、お客人が話があるって言って、ここに来てるぜ」
渡りに船と、チャバは訪客を招き入れた。
客人とは言うまでもない、シセイ、タッカー、ベルノの三人である。
シセイはチャバを見るなり、開口一番に言った。
「お願いです。ショウを助け出して下さい!」
ここで彼女は、自分達とショウとの関わりを話した。出会ったきっかけ、その人となりなど……。これまで話さなかったのは、官軍の間諜と見られる恐れがあったからなのだが、状況がここに至っては、最早構っていられなかった。
「……このまま帝都に連れて行かれたら、ショウは殺されてしまうかも知れません。彼は、私達の目的の為に、いなくてはいけない人なんです! ですから、お願いですから、ショウを……」
チャバは右手を挙げてシセイの言を制した。
「シセイさんとやら、あんたに奴が必要なのは解った。だが、俺にとっちゃあ奴は敵であって、助けてやる義理はこれっぽっちもないんだぜ」
「解っています。でも……!」
「それに、俺は得にもならない事に汗水流すほど、お人好しじゃないんでね。只働きは御免蒙る」
「ただ働きにはなんないよ」
二人の間にタッカーが割り込んだ。
チャバは一瞬面食らったような顔を見せ、興味深げにタッカーを眺めた。
「俺にどう言う得があるんだ?」
「ショウ=エノだよ! ショウほどの強い奴を、チャバの味方につけられるんだよ。チャンスじゃないか!」
タッカーもシセイと同じく、形相は真剣であった。しかし、チャバが目を止めたのは、タッカーが現状を正確に言い当てたからであった。
ショウが大人しく帝都へ行ったとしても、猜疑を晴らせる可能性は薄く、彼には罪人としての将来が待つのみであろう。だが、ここでチャバが彼を救出に行けば、疑惑は完全に裏付けられ、彼は緑林の徒として生きる事を余儀なくされる。彼の人となりを鑑みれば、後者を選択する事はほぼ間違いなかろう。
チャバはこの計略を発案した時点で、既にここまでの計算を立てていたのだが、まさかアルカイック以外に結末を--それが理性ではなく、感覚から出たものであっても--言い当てる者がいようとは、思ってもいなかった。
チャバは唇を歪めた。それは見る間に崩れて、天を仰いでの大笑になった。
「気に入ったぜ、坊主」
傍らの副将に命令が飛ぶ。
「行くぞ、ユーディ。虎を檻から救い出す」
失意のショウを乗せた檻車は、馬に引かれて街道を差し立てられて行く。周囲を囲む数十の護送兵は旗を掲げ列を成し、整然と行進している。この列の中には、馬に跨ったブホフの姿もあった。
一行は、左右に山が迫る狭い道に差し掛かっていた。
不意に、山の上から銅鑼の音が響いた。
兵達は驚き怪しみながら、檻車を二重三重に取り巻くように固まって、周囲を警戒する。
その頭上へ、矢の雨が降り注いだ。
官兵はわっと四散する。
その混乱を衝いて、二騎の騎将が山肌を駆け降りて来た。一騎は黒の革服に青い六脚馬、右手に鞭を携え、もう一騎は銀の鱗鎧を纏い、大斧を構え、黒鹿毛馬を駆って向かって来る。
チャバとユーディだ。
二人は手薄になった檻車の側に降り立った。すぐさまユーディは檻を斧で叩き壊し、チャバは僅かに残った護衛の官兵を鞭で蹴散らす。
こうなっては刃向かう勇気もあろう筈がなく、動ける者は皆、元来た道を逃げ走って行った。
ブホフも慌てて馬首を巡らし、無性に鞭を振るって一目散に逃げ出した。
その馬の尻に一本の矢が突き立った。
馬は竿立ちになり、背のブホフを振り落とす。
地面に強かに腰を打ち付けたブホフだが、痛みに顔を顰めながらまだ逃げようとする。
だが、その行く手には、先回りしたユーディが薄笑いを浮かべながら立ち塞がっていた。
恐る恐る後ろを振り返って、ブホフの顔が凍り付いた。
檻車を脱したショウが、一歩一歩歩み寄って来る。双眸に怒りの炎を宿らせ、全身から立ち上る怒気に髪まで逆立てて。
ブホフは恐怖に見開かれた目を周囲に泳がせた。腰にショウから没収した凱命が差してある。気付いたブホフはやにわに凱命を引き抜き、上段に振り被ると無我夢中でショウに斬り掛かった。
しかしブホフは所詮文官、どうしてショウに敵しよう。
刀が振り下ろされるより早く、ショウの手刀がブホフの手首を捉えていた。
痛みの余り、刀を取り落として蹲るブホフ。
ショウは愛刀を拾い上げると、徐にブホフの胸に擬した。
「わ、悪かった! 貴官を陥れようとした事は謝る! 二将軍にもちゃんと釈明するし、訴状も取り下げる! だから、だから命だけは、助けてくれぇ!!」
ブホフは生命の危機に直面して、恥も外聞もかなぐり捨てて助命を乞うた。
だが、この態度はショウの意識を負の方向へ刺激した。一度は仲間を売り、直後に翻って売った筈の仲間に命乞いをする。再度状況が変われば、また仲間を売り渡さないと言う保証はない。それが理解された時、ショウの憎悪は一点に集中した。
「一度裏切った以上、二度目はないと思え!!」
ショウが凱命を一閃させる。
ブホフの体を、左肩から斜めに光が通過した。
数瞬の間をおいて、黒血が吹き上がる。
それを合図にブホフの体が仰向けに倒れた。地面の上で二度ほど跳ね、その後動かなくなった。
--ショウは全身で大きく呼吸している。その後ろ姿に、チャバは冷ややかな視線を送っていた。
「お見事」
明らかに皮肉の酸味を効かせたこの一言に、一旦は落ち着いたかに見えたショウの怒気が再び活性化した。彼は鋭い一睨みを発言者にくれる。
「貴様ァーッ!!」
怒りのままに、ショウはチャバに襲い掛かっていた。
チャバは地上でこの挑戦を受ける。
またも両雄の一騎討ちになった。これまでに何度となく繰り返されて来たように、やはり両者の技量は互角、無双の一撃も、今一歩で完全な防御を崩すには至らなかった。しかし、怒りに任せたショウの攻撃は苛烈を極め、チャバを驚嘆且つ辟易させていた。
……どの位の時間が流れたろうか、二人は既に闘争本能の赴くままに打ち合っている。
その死闘をじっと見守っていたユーディの耳に、遠くから馬蹄の響きが飛び込んで来た。
とうとう来やがったか……!
「チャバ! 新手が来るぞ!!」
この言葉を聞き取って、二人の意識は現実に引き戻された。
声のした方に目を遣ると、土煙を蹴立てて騎馬の一隊がこちらに向かって来ているのが見て取れる。先頭の二将はともに大きな得物を引っ提げている。紛う事なくミックとゼンだ。
官軍の新手は、前方の情況が確認できる位置まで来ると行軍を止め、ミックとゼンのみが数歩前に出て来た。
「エノ将軍、いやショウ=エノ、これはどういう事だ!? 賊と結んで、お上に反逆するつもりか!!」
ミックの台詞は、この場の状況から判断すれば、至極真っ当な反応であった。
ショウは無言だった。彼はもう疲労の極にあり、誤解を解く努力すら億劫だったのだ。経緯を知るブホフは死し、チャバの言葉にミックらが耳を貸す筈はない以上、残る手段は、力で解らせるしかない。彼はそう結論づけていた。
彼は二将に向けて、凱命を構え直した。当然、二将は戦意を甚く刺激された。
「やむを得ん。こうなったら、我らの手でチャバもろとも討ち取ってくれる!!」
ゼンが叫ぶ。
二将はショウ達に向かって馬を駆った。
距離がみるみる縮まるのを見ながら、チャバは軽く笑みを浮かべてショウに申し出た。
「一対二じゃきついだろう。助太刀しようか?」
「無用!!」
憤然としてショウは駆け出して行く。
間合いに入った。
ミックの狼牙棍が馬上から打ち下ろされる。
これを躱すショウ。
背後から、ゼンの大劈風刀が迫る。
身を捻って、凱命で受ける。
そこへミックの一撃。間一髪で避ける。
ショウは防戦一方だった。武術の技量ではミック、ゼンの二人を遥かに凌駕する彼だが、やはりチャバとの激闘の疲労は色濃かった。さらに二人には馬上の有利があり、且つ二人の連携は誠に息の合ったものであった。これでは攻勢に転じる隙も見い出せない。
しかしこれだけ不利な位置に立たされても、彼は一人で闘い続けた。
「素直じゃないねぇ」
半ば呆れた口調で、チャバは独語した。チラ、と隣に立つ青毛の六脚馬を見て、
「ま、この程度のお節介はさせて貰おうか」
感触を確かめるように二、三度鞍を叩いて、一人頷く。
「タイレル、行け!!」
彼は愛馬の尻を平手で叩いた。
青毛の六脚馬--タイレルは、三将が武を競う戦場へ向かって猛然と疾駆する。
……ショウはまだ守勢にあった。徒歩対騎馬の不利はやはり大きく、若い二人はここを先途と攻め立てて来る。
その中を一陣の風が、青い光と共に摺り抜けた。
「何だ、今のは!?」
一瞬そちらに目を奪われたミックとゼンは、次の瞬間ショウがその場にいない事に気付いた。
二人で風の走り去った方向を見る。
その視界に映った。青毛の六脚馬と、馬上にある紺の装束の剣士--ショウ。
走って来るタイレルの鞍に飛び付く、と言う離れ業を彼はやってのけたのだ。
「あのバカ野郎、要らぬ世話を焼きやがって……」
罵倒しつつ、彼の顔には不敵な笑みが宿っていた。
顔を上げると、こちらの姿を認めたミックとゼンが近付いてくる。彼はタイレルを走らせて立ち向かった。
距離が詰まる。
ミックの狼牙棍が来る。
しかしショウは、この攻撃を余裕を持って見切っていた。
一対一で、しかも騎馬同士の闘いならば、決して余人に遅れは取らん!
刀の峰で狼牙棍を弾き飛ばすと、隙だらけのミックの左肩に凱命の一撃を打ち込む。
もんどり打って落馬するミック。
「ミック!! おのれーっ!!」
一歩遅れて駆け付けて来たゼン、親友の仇を討とうと大劈風刀を閃かす。
この斬撃をショウは鮮やかに躱し、大振りが仇になってがら空きのゼンの首筋へ、峰打ちを見舞った。
ゼンも馬上から転げ落ちた。
二将を討たれて、官兵の士気は急速に萎えたようだった。ユーディが手下を連れて攻め掛かる素振りを見せただけで、残りの騎兵は風を食らって逃げ失せた。
ショウはタイレルの鞍上にあって、半ば茫然と成り行きを見届けていた。ふと視線を転じると、チャバがこちらへやって来ている。相変わらず、人の悪い笑顔を浮かべて。
「御苦労さん」
憤怒は既に使い果たされていたが、労われて嬉しい筈もなく、ショウは音高く舌打ちする。
「よりによって、貴様に助けられようとはな……」
タイレルの背から降りたショウの台詞には、自嘲の響きが明らかだった。
しかし、チャバは全く意に介さない。
「礼は要らんぞ」
「誰がだ!!」
思わず怒鳴るショウ。
「……まぁいい、貴様の小細工にまんまと嵌められたのは俺の未熟だ。今更泣き言は言わんさ」
「とは言うものの、帰る所もないお前さんの苦境を思うと、俺も良心が痛むのでね」
堂々と言ってのけるチャバの神経も大したものである。ショウは怒りと呆れの余り一言もない。
「どうだ、俺の山寨へ来ないか? いっその事、義賊に転職するってのはどうだい?」
「見縊るな!」
ショウはキッ、と睨み付けた。
「見縊ってなどいないさ。ただ、お前さんに残された道は二つしかない。罪人か、緑林か。どちらを選ぶもお前さん次第って事だ」
「クッ……」
歯噛みするショウ。だが、チャバの正しさを認めざるを得ない。
彼は決断した。罪人として一生過ごすのは真っ平御免だし、腐敗した帝国の官の姿も垣間見えた。正道に些かの未練は残るが……。
「……解った。暫く厄介になろう」
ショウがそう言った時、心なしかチャバの目の光から邪気が失せたように感じられた。
「物分かりの良いこった」
「ただ、一言言っておく……貴様がもし、無辜の民に危害を加えるような真似をしたら……俺は迷わず貴様を討つ!」
ショウの真摯な眼光を、チャバは真っ向から受け止めた。
「……いいだろう、忘れずにおこう」
この時をもって、両雄は条件付きながらも同じ道を歩き出す事となったのである。
山寨に戻ったチャバ達は、手下の歓呼で迎えられた。
その出迎えの人の列にシセイ達三人の姿を見掛けた時、ショウは驚き、かつ彼女達を義賊団の間諜かと疑ったのだが、彼女達の説明とチャバの口添えもあって、誤解はすぐに氷解した。考えてみれば、彼女達はショウの身柄を救い出す一助を成しこそすれ、彼の不利になるような事は一切していなかった。
次にチャバは、捕虜にしたミックとゼンを説き伏せに掛かった。二人に対してチャバは、ショウの裏切りはブホフの偏見による先走りが誘発したものであると決め付け、「帝国の腐敗官僚などこんなもんだ」と嘯いた。その上で、自分の目的は私利私欲ではなく、近い将来地上に現出する強大な魔王と戦える有為の人材を集める事にある、御両所にも協力を願えないか、と辞を低くして訴え掛けた。
根が単純なミックとゼンは、より強い敵が相手と聞き、また自分達の武技を見込まれている事に快感を覚え、揃って官服を脱いで、仲間入りを承諾した。
後にこの顛末を耳にしたショウは、チャバに向かって「貴様って奴は……」と憮然とした表情で呟いたと言う。
未だこの地に残っていた官軍の残兵は、一旦山を下りたミックとゼンが掌握した。彼らは義賊団への加入を兵達に告げ、去りたい者は去らせ、望む者は引き連れて山寨に戻った。兵糧、軍馬などの軍需物資も残らず引き揚げた。
山は大きく沸いた。
一夜の宴は、戦勝と、莫大な戦利品と、三人の勇将の新たなる加盟を祝う大祝宴と化した。
チャバと、山寨の客人たるシセイ、タッカー、ベルノが上座を取り、左側の列に元々の義賊団の顔触れ--上手からアルカイック、ユーディ、カディ等々が並び、右の列に新しく加わった面々--上手からショウ、ミック、ゼンらが席を得た。
宴は杯を重ねるほどに盛り上がりを増し、誰もが正道ならざるが故の楽土の風を満喫していた。ミックやゼンは勿論、ショウでさえ、この一時は憂さを心の内に仕舞い込めるように思えた。
この最中に、チャバが徐に切り出した。
「これを契機に、一つ考えたい事がある」
こうしてチャバが一事を提言した事から、猛虎を一夜のうちに故郷へ走らしめ、帝都に名の轟く好漢いよいよ物語に登場す、と言う事になるのであるが、果たしてチャバの語るところや如何に? それは次回で。