第六話 小占師 道に吉祥女と会い 破嵐龍 威を奮いて騒乱を鎮むるの事
まず北と東へ向かったシャオローン達の方から話を進めよう。彼等は敢えて街道を外し、都門に入らず南の外れを大きく迂回した。都を騒がしたのは昨日の事であるから、近寄るのは危険過ぎた。危地を救ってくれたアザミには、いずれ礼を返す時があるだろう。
都域を抜け、ウェストキャピタルとオグマントジュアの県境に達した所で、街道は二つに分かれていた。左へ行けば、ヤパーナ最大の湖リュート湖の西岸を北上してやがて嶺北へ至り、右は同じく東岸を北上しつつ途中で東に向きを変え、海道を通り帝都へ至る道である。
「じゃあ、ここでひとまずお別れだな」
「気を付けてね」
「元気でね」
六人は口々に別れを述べると、シャオローン達四人は左へ、シセイとタッカーは右へ、袂を別ってそれぞれの道を歩き出した。
ここでシャオローン達の行く先はひとまず後へ譲るとして。
シセイ達はリズテール、フォークロードと言った街を抜けて、一週間ほどで海道一の大都市ミッテタークに到着した。ここまでの道程ではタッカーが随分シセイの助けになった。旅の経験もなく、日常の生活感覚も庶民とは幾分掛け離れている彼女一人では、ここまで来る事すら難しかったろう。
しかしミッテタークに入ってすぐに、タッカーが腹痛を起こして寝込んでしまった。シセイは慌てて医者を呼ぼうとしたが、彼は医者は金が掛かる、と言って承知しない。じゃあ何かして欲しい事はない? と尋ねれば、
「たいくつだろ? おいらはたいしたことないから、シセイは街の中でもさんぽしてくるといいよ」
と言う返事。彼は腹痛の原因--食当たりだった--が判っていたから落ち着いたものだったが、彼女はそんな気分になれる訳がない。
が、差し当たって何が出来る訳でもないので、彼の言に従って散策に出てみる事にした。
ミッテタークは東西両京とグランコートに次ぐヤパーナ第四の都市であり、且つ海道の政治、経済、軍事を統括する中枢都市である。通りの雰囲気もウェストキャピタルに近いものがあり、シセイもそれほど不安もなく街を歩けた。
この街は両京を結ぶ街道の上にある事から、多くの旅人が立ち寄って必要な物を、或いは情報を求め、或いは旅の疲れを癒すべく休息する、交通の要所としての側面も持っている。なるほど言われてみれば、現に道行く人の中にも明らかに旅装と判る身形の者が数多いる。
そこまで考えたシセイは“あたしの格好はどう見えるかしら”とまで考えを巡らして一人で可笑しがったり、何かタッカーに持って行ってあげようかと気を回したりして時を過ごしていた。
ふと、彼女は誰かがマントの裾を引っ張ったように感じて、振り返ってみた。
確かに、彼女のマントを掴んでいる手があった。
小さな手と、それに見合った小さな女の子。
女の子はシセイと目が合うと、にっこり笑った。
「ねえお姉さん、何か占ってほしいことない? ベルノの占い、よく当たるのよ」
少し舌っ足らずな喋り方の愛らしさに、シセイも思わず微笑み返す。--が、何か引っ掛かった。
まず、その衣装--幅広の布を首の後ろから胸の前で交差させて背中へ回し、下は脇に切れ目のある丈の短いスカートを帯で止めている--はヤパーナ民族のものではない。遥か南方の未開の島々の住人の着衣に近い。
それに、少女は身の丈こそ四尺余りだが、胸と腰に対して胴が括れた女性らしい体形をしており、どう見ても外見通りの年齢とは思えない。
思索を繰り返す内に、シセイは一つの単語に思い当たった。
“ハーフリング”
亜人族の一種で、外見は人間と大差ないが背丈がその半分ほどしかない。自然の中に存する事を好み、都市では余り見掛けない種族である。
シセイも書物などで名は知っていたが、実際に出会ったのは初めてであった。
ハーフリングの少女--ベルノは円らな瞳でシセイを真っ直ぐに見ている。その瞳に邪気の無い事をシセイは見て取った。
「じゃあ、お願いしようかしら?」
家にあって魔法の勉強をする傍ら、占いなども少しはかじっていたシセイである。興味を持っていた事もあって、すぐに占って貰う気になった。
ベルノは大きく頷くと、シセイの手を引いて大通りにある公園の方へ向かった。
ミッテタークの大通りの公園には街の名物である大樹があった。この大樹は、地上では二本の幹を持っているのだが、高さ一丈五尺ほどの所で合わさって一つの木になっていると言う、世にも珍しいものであった。少女はその一方の根元にシセイを座らせた。
「あなた名前は?」
「ベルノ。ベルノ=オートゥキーよ」
「あたしはシセイ=デュウ。シセイでいいわよ」
「じゃ、始めるね。楽にして」
ベルノはシセイがもたれ掛かっている方の幹に手を当て、もう一方の手で五色の石を地上にばら撒いた。石には両面にそれぞれ表裏を表わすらしい印が描かれている。
シセイはそれが“五行占”と呼ばれる占いである事を知っていた。青・黄・赤・黒・白の五色の石を万物を生じせしめる五行--木・土・火・水・金--に擬し、その裏表--陰陽の組合せより占うものである。
散らばった石を見てベルノは何事か小声で呟いている。流石にシセイには石の表裏までは判らない。
「ねぇ、シセイは旅をしてるの?」
ベルノがいきなり問い掛けた。
「えぇ、そうだけど?」
「だれかといっしょに?」
「えぇ」
「じゃ、その人が病気なんでしょ?」
あっさりと正解を言い当てられて、シセイは驚嘆しつつも当惑せずにはいられなかった。
「!! どうして判るの!?」
「ほら、当たった」
ベルノは無邪気に占った卦の解説を始めた。尤も、火と水が盛んで土が衰えているのが云々、と言われてもシセイには解る筈がないのだが。
しかし、ここでシセイは“そこまで当てたのだから”と、旅立ちの経緯からタッカーの病状まで全てをベルノに話してしまった。
一通り話を聞き終えたベルノは、
「それはね、食べ物が悪かったんだよ」
とすぐに見抜いた。のみならず、
「ベルノ、お腹によく効く薬草、持ってるよ」
と言った。シセイにとっては願ったり叶ったりだった。
「お願い! その薬草を少し分けてくれないかしら?」
「いいよ。でも、そのかわりねぇ……」
にっこり微笑んでベルノは条件を出した。
「ベルノも一緒に旅に連れてってくれる?」
「何でこんな奴連れてきたんだよぉ」
これがベルノに対するタッカーの第一声だった。
無理もない話である。物心ついた時から身寄りもなく、文字通り一人で世間の最底辺を生き抜いてきたタッカーにしてみれば、占い一つであっさりと他人を信用してしまうシセイのお人好しとも言える行動が、危なっかしく見えてしょうがないのだ。
しかしシセイの方にも主張する理はあった。一緒に旅をする事を条件に薬草を貰ってきたのだから、今更約束を反故には出来ない、と言うのだ。
確かに、ベルノの薬草のお蔭で腹痛がすぐに治まったのは事実であるし、タッカーもその辺は十分解っていたから、後は何も言わず、如何にも渋々と言う様子でベルノの同行を黙認した。
ベルノ=オートゥキー。アダ名を“小占師”と言うその名の通り、優れた占い師である事はシセイの目の前で示した通りだが、ハーフリング族だけあって短弓も得意としている。しかし、そんな事よりももっとシセイ達の助けになれる特性を彼女は生まれながらに有していた。そして、それを披露する機会は意外に早く訪れた。
帝国政府はその施策の必要上から、関中及び西畿に通じる街道の要地に関を設け、出入りする者を厳しく吟味していた。中でも、帝都イーストキャピタルよりミッテターク、ウェストキャピタル、グランコート、コーベと言った主要都市を結ぶ大動脈--通称“大南路”の関中への入り口となるカステンタール関は、その形容し難い威容もさる事ながら、規模、堅牢さにおいても帝国一を誇り、難攻不落の代名詞とされていた。
西畿の出入口であるポルトテール関は無事に通れたのだが、その時も良家のお嬢様然としたシセイと小汚い身形のタッカーと言う取り合わせに、不審の目が向けられたものだった。しかしカステンタール関では、より厳しい監視の目と、その目に引っ掛かった者に対する一層厳しい詮議が待ち受けている事は疑いなかった。二人は何としてでも、怪しまれる隙を作らないようにする必要があったのだ。
ここに、ベルノが同行する事になった。
ハーフリング族は定住生活する習慣を持たず、大抵各地を放浪している。それも都市部を避け、草原や山道を選んで旅をする傾向が強い。こう言う所には関はないが、言うまでもなく関を迂回して抜けていく事は重罪である。しかし、彼らの数は決して少なくはないのでいちいち取り締まっていられない、と言うのが関の役人の本音であった。かと言って、如何に帝国の威信を持ってしても彼らの習性までは統御できず、また見過ごしたところで実害もない--好奇心は強いが飽き易い彼らは、実に謀略に不向きな人種であり、何か良からぬ企みを持って関中や西畿に入って来るなどまず考えられなかった--事から、彼らは関を避けてもお咎めを受けないばかりか、事実上取り調べ無しで関を通行できる権限を有していた。
ベルノはこれを利用した。
身の丈五尺に足らぬタッカーは、ハーフリングと言い抜ければ通用する筈である。ベルノと二人なら関をあっさり通過できるだろう。シセイは後から一人で行けば、これも怪しまれる事はまずないだろう。
その通りだった。タッカーとベルノは悠々と、シセイも形式的に尋問されただけで関を通過できたのだった。
「ありがとうベルノ。お蔭で助かったわ」
シセイが大袈裟に喜んでみせると、ベルノは得意気に笑った。
「ね? ベルノがいると心強いでしょ?」
ここまでは確かにその通りだった。ところがこの後、今度はベルノが原因で三人は大騒動に巻き込まれる羽目になったのである。それが吉か凶かは、まだこの時には誰にも解らないのだが……。
事の発端は関を越えた二日後、トレヤケープの街で昼食を取る為に食堂に立ち寄った事だった。
時刻も昼時であり、それまでに覗いた店はどこも満席状態だった。たまたま或る店で運良く手近の席が空いたので、三人は滑り込むように席に着いた。
注文を告げて一息吐いてから辺りを見回してみて、シセイは何か違和感を覚えた。旅人の姿が少ないのだ。店内の大半を占めているのは大工、土方と思しき人夫である。皆屈強そうな体格をしている。
「何か大きな工事でもあるのかしら」
シセイが自問していると、
「ベルノ、聞いてくる」
同じ様に興味を引かれていたらしいベルノが席を立って、中央の大きな卓を囲んでいる大工の一団に近付いて行く。シセイやタッカーの止める間もあればこそだった。
「ねえねえ、おじさん。何の仕事してるの?」
呼び掛けられた大工はベルノを旅行中の人懐っこい少女とでも思ったのだろう、からかい半分に「飲むか?」と小さな杯を彼女に渡して、気さくな調子で話し始めた。
曰く、トレヤケープの騎士団長の邸の建て替えに携わっている人夫の一団と言う事だった。なかなかの豪邸らしく、これほどの邸を自分達の手で建てられるのが誇りだとか、一生に一度で良いからあんな邸に住んでみたいなどと言う意見も出る。
シセイもタッカーも、大工の話に聞き耳を立てていた。が、その様子が段々と変わってきた。大工の口調が明らかにうんざりしてきている。
ベルノだ。最初はふとした好奇心から話を聞いていた彼女が、今は好奇心を満たそうとする欲求だけで動いているように見える。まともに話を聞いていないのだ。
原因は一目瞭然だった。酒である。ベルノは酔っ払っているのだ。
ハーフリング族はその小さな身体の所為か、酒の回りの早い者が多い。そして酔っ払うと、普段でもあるとは言い難い自制の箍が完全に外れ、好奇心の固まりとなってしまう。ましてベルノには、やや酒乱の気があった。
これはヤバイ……、とタッカーが彼女を連れ戻しに動いた時は既に遅かった。
「ねえ、ねえってばー!」
ベルノのしつこさにいい加減辟易していた大工は彼女を無視して、中断されていた食事を再開しようと、卓の中央に置かれていたシチューの皿に手を伸ばすべく椅子から腰を浮かした。
放って置かれたベルノが収まる訳がない。不満気に口を尖らせて、先刻まで大工の座っていた椅子を蹴飛ばした。
そこへ大工が腰を下ろそうとした。
当然の帰結として、大工はものの見事にひっくり返り、手にしたシチューを自分の顔へぶち撒けた。よほど熱かったのだろう、大の男が情けない悲鳴を上げている。
少しの間のたうち回って、大工はゆっくり顔を上げた。鬚にシチューが付いていて何とも間抜けに見えるが、目が据わっている分却って恐怖を感じる。
「……この、小娘がぁっ!!」
両腕を広げてベルノを捕まえようとした。
酔っ払っていても危険かどうかは判るらしい。ベルノは大工の腕を摺り抜けると、脱兎の如く逃げ出した。その後を大工が追い掛ける。
小柄なベルノは混雑している店内を鮮やかなほどするりと逃げて行く。逆に大工は巨体を持て余すように、人波を掻き分けている。と言えば聞こえは良いが、要するにこちらも些か酔っているので、そこかしこで食事中の背中にぶつかっているのだ。
また一人、緑がかった黒髪の背中に大工の肘が当たった。その時である。
「何しやがる!!」
甲高い声と共に、素早く伸びて来た手が大工の腕を掴んで、そのまま捩じ上げた。
またしても情けない悲鳴が上がる。
店内を、驚きを多量に含んだ騒めきが支配した。シセイも、タッカーも、ベルノも、誰もが一点を注視している。
大工の太い腕を捩じ上げているのは、妙齢の女性だった。背丈にして首一つは低い。
緑がかった黒髪を長めの布で纏めて包み、赤い宝石を嵌め込んだ額飾りに金の耳輪、女性らしく豊かで且つしなやかな肢体は右腕、胸、腰などを衣服で被っているのみで、その他は惜しげもなく露にしている。なかなか魅力的な女性だ。ただ、左胸と左肩を守る皮製の防具と、左腰に提げられている長剣とが、彼女がか弱い乙女ではない事を雄弁に物語っている。そして、何より人を魅きつけて已まないのは彼女の色違いの両目--青い右目と黒い左目--金銀妖瞳である。
中央の卓を囲んでいた男達が一斉に立ち上がった。子供相手の戯れ事ならば笑い飛ばしておけば済むが、仲間が余所者に喧嘩を売られて知らぬ振りを決め込んだとあっては、彼等の面子が立たない。例え相手が女性一人であっても、いや、だからこそ舐められる訳にはいかなかった。
屈強な男共がじりじりと詰め寄って来るのを、金銀妖瞳の女性は悠然と構えている。怖気付いている様子は全くない。
不意に一人が飛び掛かった。
彼女は捕まえていた男の腕を放すと、その腰を蹴り飛ばす。
蹴られた男は前のめりにすっ飛び、助けに飛び掛かった仲間と正面から鉢合わせた。そのまま倒れる。
「野郎っ!!」
逆上した男共が一時に掛かろうとした。しかし店内が狭くて、自然一対一の決闘となる。
先頭を切った男が彼女を捕まえに掛かる。
彼女は身を沈めた。
男の両腕が空しく空を切る。
その鳩尾へ彼女の肘がぶち込まれた。のめったところへさらに首筋に肘打ちの一撃。男はそのまま床に落ちた。
その後ろにはもう次の相手が突進して来ている。
素早く身を退いた彼女は、半身の構えから右足を斜め上に突き上げた。
蹴りが狙い違わず男の顎に突き刺さる。
続いて三人目。勢い込んで殴り掛かって来たところを僅かに首を傾けて躱し、がら空きの左頬へお返しの拳を見舞う。これも吹っ飛ばされた。
四人目は武器を持っていた。手にした木の棒を、これでも喰らえと振り下ろす。
しかし、その場所には既に彼女の姿はない。
横に滑るような見事な体捌きで攻撃を避けていた。
間髪を入れず、そのしなやかな身体が宙を舞う。
身を捻って、無防備な男の後頭部に強烈な蹴りを叩き込んだ。
俗に言う延髄斬り。男は呆気なく気を失って倒れた。
一方の彼女は素早く立ち上がると、次の相手に備えて身構える。
だが、もう彼女の相手をしようと言う者はいなかった。
それどころか、いつの間にか店内のそこかしこで乱闘が始まっていた。どうやら、彼女の吹っ飛ばした相手が他の客の食事まで滅茶苦茶にしてしまい、それが元で喧嘩の輪が広がってしまったらしい。
店内は怒号と悲鳴、肉弾相打つ音、卓や椅子が壊れる音などが入り乱れて、もう大騒動である。
そして、この大騒動のそもそもの犯人はと言えば……
「おい、何やってんだよ! ベルノ!!」
タッカーに自分の名を呼ばれている事にすら気付かず、ベルノは自分が引き起こした--とはこれっぽっちも思っていないだろう--目の前の大騒ぎに見入っていた。
業を煮やしたタッカーが、その手を掴んで引きずり連れ戻す。そしてシセイに耳打ちした。
「シセイ、逃げるよ」
「でも、まだお勘定が済んでないし……」
思わずつんのめりそうになるタッカー。
「だーっ! もうそんなことどうでもいいから!」
片手にベルノ、もう一方の手にシセイの手を引っ張って、タッカーは店の出入口に向かおうとする。その時である。
「アッ!」
シセイが小さく息を呑んだ。
振り返るタッカー。その顔が凍り付く。
ベルノの悪戯が元で散々な目に遭った、あの大工が後ろに立っていた。目の光が狂気じみたものになっている。小手先で逃げ切れそうな状況ではない。
問答無用と、大工が拳を固めて振りかぶる。
三人は目を瞑って、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
鈍い音がした。
しかし、いつまで経っても頭上に拳は降って来ない。
三人とも、恐る恐る目を開けてみる。
目の前に、確かに大工はいる。しかし、腕を押さえて床に蹲っていた。
何が起こったのか全く訳が分からず、取り敢えず三人は辺りを見回した。
彼らのすぐ背後に一人の壮士がいた。
年の頃は四、五十がらみか。秀でた眉に目元あくまで涼しく、形の良い口髭を蓄えた紳士然とした風貌ながら、身にする衣服は何の飾り気もない皮の上下である。さらにその右手には、朱塗りの直槍が違和感なく収まっている。その着衣の下には鍛え抜かれた身体が隠されているに違いない、そう思わせるに十分な気配を備えていた。
恐らくは、三人に落ち掛かろうとする大工の拳を、その槍の一閃で跳ね飛ばしたのだろう。
さらに壮士の後ろから、一人の人物が姿を現わした。
これまた、槍を携えた女性であった。年の頃は二十歳前後で、壮士の娘に見えなくもない。長い黒髪に銀の瞳、頭には紅い布を巻き、やや色褪せた橙の衣服の上に前掛けのような軟革を当て、象牙色のケープを纏っている。槍は朱塗りの柄に、穂先の左右に刃が大きく迫り出した刃槍と呼ばれる物で、彼女の容貌とも相俟って、騎士家の紋章の如き高貴な印象を抱かせた。
彼女は刃槍を高々と掲げると、石突を下にして目の前の床に打ち下ろした。
石突が激しく床を打つ音が店内に響き渡る。
乱闘に興じていた者達が一斉に入口の方に目を向けた。
彼女の姿を認めた途端、誰もが動きを止める。
須臾の沈黙。
微かな騒めきを残して、皆毒気を抜かれたかのように大人しく元の席に着いていく。
何と言う事か。あれほど殺気立っていた狂熱を、うら若き女性が一瞬にして圧してしまったのである。
シセイ達もただ呆然とするばかりであった。
「……何だ、てめえら……!」
漸く起き上がった先の大工、今度は壮士達に掴み掛かろうとした。
慌てて仲間らしい男が左右から抱き留める。
「お、おい、止せ! お前、あの方がどなたか知らんのか?」
「シロンお嬢様だ。“騎龍将”マロル=チオユン将軍の御息女だぞ!」
仲間が小声で囁くのを聴いて、
「あーん? ……あ、あの“破嵐龍”か!?」
相手が自分達の雇い主の娘であり、その異名が示す通りの凄腕の戦士である事をやっと悟った大工は、小さくなって仲間に連れられて行く。
代わって、頭領らしい男が彼女の前に詫びに出た。
「どうも、とんだ騒ぎを起こしちまって、誠に相済みやせん」
「お酒が入っているのは解るけど、他人様に迷惑を掛けてはいけません。今少しの自重を皆にお願いするわ」
頭領に注意を促し、次に店の主人には、損害は当家で弁償するので後刻請求書を邸へ持って来るように告げた。
主人が畏まって下がると、彼女はシセイ達三人の所へ歩み寄って来た。
未だ惚けたような表情の抜けない三人を前にして、彼女--シロンは丁寧に頭を下げた。
「旅の方、御迷惑をお掛けして本当に御免なさい。私からお詫びさせて戴きますわ」
冗談ではない、迷惑を被ったのはこっちだ、と件の大工が小さく呟いたが、彼女の耳には届いていない。
「どうぞ私の家にお出で下さい。食事もそこで用意致しますわ」
良家の子女らしく何とも鷹揚な申し出である。すぐに返事できずに互いの顔を見合わせている三人に向かって、彼女は優しく微笑み掛ける。
「これも何かの機縁。遠方の色々なお話を私に聞かせて戴けませんか? 貴女方と……」
視線をちらりと横に遣って、
「そちらの強くて勇敢なお嬢さんも御一緒に如何でしょうか?」
「アタシ?」
あの金銀妖瞳の女性が、思わぬ指名に目を丸くする。
「さあ、こちらへ」
シロンは手で道を示しつつ、店の戸を潜った。その後ろに壮士が付き従う。
事態の急激な推移に乗り遅れていた四人であったが、取り敢えずあたふたと彼女達の後に続いて店を出て行った。
残された店内の客の呆然たる有様は語るに及ばないだろう。この話はこれまでとする。
シロンの邸はトレヤケープの市街地の南、広大な海岸の近くに位置していた。門を抜けると、まず中央に噴水を配した簡素な庭園が目に入る。その向こうには件の、建て替え中の邸宅が七割方立ち上がった姿を晒している。なるほど、豪邸と呼ぶに障りのない構えである。
シロンが四人を案内したのは、敷地の西側にある建物だった。恐らくは離れとして使われているものだろうが、それでも庶民の家とは比較にならないほど広い。
「今日は気候が良いから」と彼女はテラスに卓と椅子を持って来させ、食事の用意を言い付けた。
用意された椅子に腰掛けると、漸くシセイ達三人は落ち着きを覚えた。ふと視線を転じると、眼下に白い砂浜と遥かな南太洋が一望できる。ここは小高い丘の上らしく、眺望の点からも申し分ない一等地であった。時折海からの風が運んで来る潮の香も、何とも言えず心地良い。
「お気に召しまして?」
「ええ、とっても!」
やがて召使達が入れ替わり立ち替わり食事を運んでくる中、ここで初めて、自己紹介を交えた挨拶が交わされた。
ここで改めてシロン=チオユンについて語る事とする。トレヤケープの騎士団長マロル=チオユンの娘である事は某かが語った通りであるが、彼女には巷間の「良家のお嬢様」とは決定的に違っているところがあった。持って生まれた類稀な武才と、その才を伸ばすに足る良き師--父マロルと兄ガイザ--が身近にいた事である。故に、漸く二十歳を過ぎたばかりでありながら、幾多の武勇伝から破嵐龍と言うアダ名を奉られるに至り、騎士団長たる父をして「男であったなら何の掣肘もなく才能を生かせたものを」と残念がらせるのである。
シロンの後にはシセイ、タッカー、ベルノが順に挨拶をし、続いてもう一人、金銀妖瞳の女性が立ち上がった。彼女の素性については触れておかねばなるまい。
彼女の名はケイ=シアナ。関西はリュート湖の南東にある町ヤスの出身で、“妖瞳将”の名で知られる手練の傭兵である。その武芸の冴えは先程披露した通りだが、本来は剣技の方が得意だと言う。過日ちょっとした諍いから同業者を半死半生の目に遭わせ、それが為に追われている身だとか。色の異なる両目も含めて目立つ容貌、勝ち気な性格、おまけに口も悪いとくれば「もめ事のない方が不思議だね」と本人はのほほんとしたものだが。
これで一通りの礼を交わしたと思いきや、今一人、シロンの傍に付き従う壮士がいた。彼についてはシロンが替わって紹介する。
「こちらは私の槍の師匠、覇皇流槍術宗家のワン=シェイン先生です」
これは彼を実父マロルではないかと推測していた一同を意外がらせたが、別けてもシセイとタッカーは一方ならず驚いた。覇皇流と言えば、自分達の知己にその達人がいるではないか!
「……どうか致しましたか?」
「いえ、あたしの知り合いに、覇皇流の槍を使う、とても強い戦士がいる事を思い出しましたので……」
シセイがそう答えた。その言葉を受けて、シロンとワンの表情に緊張が走る。
タッカーは不吉な予感を抱かずにいられなかった。万が一、シャオローンがシュヴァルツの山賊団に名を連ねている事が関中まで聞こえていたら、自分達も山賊団に関わる者として捕らえられるかも知れない。シロンはそんな人物にはとても見えないが、官に繋がる者は信用できない。だから、卓の下でシセイに注意を促したのだが、シセイは気付かなかった。
「……で、その戦士は何と言う方ですの?」
「シャオローン=シェン、アダ名を天翔龍と……」
「シャオローン=シェン!!」
身を乗り出して叫んだのは、ワンの方だった。これには一同、シロンまでも驚いた。
タッカーは予感が的中したと思った。こうなれば、次の一言が発せられる前に逃げるに如かず、と腰を浮かし掛ける。
「そうか……シャオローンが、あの少年がなぁ……」
予想を大きく裏切る優しい響きに、思わずタッカーはワンの顔を見守った。彼は何とも言えず、昔日を懐かしむように目を細めている。
「先生、御存知なのですか? そのシャオローンと言う人を……」
「知っているも何も、彼に槍を教えたのはこの私だよ」
今度はシセイとタッカーが驚く番だった。
「じゃあ……シャオローンの先生って事は……ヤパーナ一の槍使いって言う……あのワン=シェイン!?」
「ははは、シャオローンめ、ちと誇張が過ぎるぞ」
ワンはそう言って笑ったが、確かに覇皇龍槍術のワン=シェイン、またの名を“潜淵龍”と言えば、歳こそ既に五十の坂を越したがその技量未だ衰えを知らず、と評されている。あながち誇張とは言い切れない。少なくともシャオローンと、それにシロンはそう信じて疑わないだろう。
「あれからもう十年になるか……さぞや、良い若者になっておる事だろう」
「先生、シャオローンと言う人はそれ程の人物なのですか?」
「そうだな……少年の頃より、剛直さと優しさを併せ持っておった、なかなかの人物だよ。槍の素質と言う点では、そなたの方が僅かに優っておると私も思う。が、この十年ほどの間に彼はどれ程成長しておる事やら……」
「彼は今、槍では関西一とも言われていますのよ」
「ほう! そうか、そんなにも腕を上げおったか!」
かつての弟子の成長振りに、ワンも喜色を隠せないようだった。
「これは是非とも、その腕前を直接確かめたいものだ」
「私も、兄弟子たる方にお会いしてみたいですわ。そして、是非槍を交えてみたいもの……」
同じ道を歩む者として、シロンにも気にならぬ筈がない。
「じゃあ……」
シセイが何か言い掛けた時、慌ててタッカーが彼女の袖を引っ張った。
振り向いたシセイは、タッカーの顔を見てはっと気付いた。そうだ、シロンは騎士団長の娘なのだ。幾ら何でも今のシャオローンに逢わせる訳にはいかない。
幸いシロンは何やら思索を巡らせている最中だったようで、今の顛末には気付かなかった。
「……強者って言うのは、至る所にいるものね……ねえ、ケイさん?」
「ケイでいいわよ。で、何?」
一つ歳下の、こちらも女性ながらの強者が、気さくな調子で応える。
「貴女は傭兵として各地を廻って来られたでしょう?」
「そうね……傭兵稼業を始めてまだ四年足らずだけど」
「貴女の知っている限りで、当代の勇将と聞く人物の名を挙げてみて下さいませんか?」
「戦上手? それとも腕の立つ方で?」
「腕の立つ方、ね」
「そうね……」
軽く眉根を寄せる。
「まず“御林の両虎”が第一に思い浮かぶわね」
「“御林の両虎”?」
「ええ。近衛たる御林軍の指揮官、“赫怒虎”のルーサー=コウと“没性虎”のジョン=ルーヒの二人よ。人柄ではあんまり良い話を聞かないけど、その腕前は確かのようね」
シロンは小さく頷いた。かつて父について帝都の閲兵式に参列した際、御林軍の先頭で騎乗していた魁偉な二将軍を見掛けたが、恐らくその二人であろう。共に身の丈九尺に垂んとする大男で、猛獣のような雰囲気を常に漂わせていた事が強く印象に残っている。
「他には?」
「帝都守備の御営軍四軍の中に、名の通った将が多いわ。オンダー、ザンギエフの両豪将に雄将ランボル、女将プライム、ラモーヌ家三藩屏の一つライアン家のナイトハルト、『灰色の傑将』こと“蒼毛驥”のオグリ、“鉄火驍”ことフックス、“驀進王”キルシュ……アタシが聞くところではこんなものかしら」
「一通り名前は聞いた事がありますわ。当代一級の将として噂に高い人達ですもの」
「でもね、地方にも強い奴はいるわよ」
シロンの口元に運び掛けた杯が止まった。
「最北の島ファーノース島のリトルバレルの練兵司令官“羅刹嬢”バーラ、シルキュール山の女山賊“女豹将”ことレインカーン、関西はグランコートの連隊長“黒面牛”のバンブック、西都の“白狼将”プラトニーナ、コーベにヤンマー、イーグ、ディーン、テンペラス……」
シリウス=プラトニーナの名前が出た瞬間、シセイとタッカーは身を固くした。しかし、シロンは一心にケイの話に耳を傾けており、彼らを注意していなかった。
「中でも関北の義賊でアダ名を“捷鞭将”と言うチャバ=ザ=ダーハ、あれは一人物だね」
「チャバ=ザ=ダーハ……あの、かつて隣の街フラットトゥームの戦士団に居た?」
「さあ? 昔の話は知らないけど、一度だけ会った事があるのよ。陽気な自信家で気前の良い漢だったわ。武芸は通じざる無し、特に鞭と棍ではヤパーナ一かも知れないわね」
「貴女と比べたら?」
「とてもとても。手合わせしたけど、てんで相手にされなかったわ」
と、ケイは両手を広げて首を横に振ってみせる。
「……ねえ、ケイ?」
「何?」
「槍に関して評判の人物に心当たりはありません?」
シロンの瞳の奥には、武人としての興味以外の、何か真摯な光があった。ケイはそれに気付かぬ風で、
「槍ねえ……」
暫しの黙考。
「ちょっと思い当たらないわね……槍使いと勝負した事はあるんだけど、アタシの剣に敵わないようじゃ、槍使いとしては二流だろうしね」
「そう……」
シロンの顔を微かに落胆の表情が掠めた。
「そうだ! もう一人、これはと思う人物がいたわ」
「誰!?」
自身でも驚くような大声でシロンは聞き返した。
座の誰もが一瞬面食らった。
「……あ、ごめん。槍じゃないんだけど……」
困ったような表情のケイ。シロンも急に顔を赤らめる。
「いえ、私の方こそ御免なさい……どうぞ、続けて下さい」
「えーと……、関中平野のほぼ真ん中にペイルリヴァーと言う街があるんだけど、ここで威名を振るっている漢でね。ショウ=エノ、またの名を“雷電虎”って奴さ」
「雷電虎のショウ=エノ……」
「ペイルリヴァーの領主家に繋がる家柄らしいけど、人望もあるし、何より武芸百般、特に破邪颯流の剣術は一流の域に達するわ」
「ショウ=エノ、ね……」
シセイが小さく呟いた。それは次の目的地への道標を見付けた事を確認するものだった。
だが、ここに名の挙がった内の幾人かと今後運命を共にする事になろうとは、シロンもケイもシセイ達もこの時は夢想だにしていなかったのである……。
こうして巷間の英傑の名が明かされた事から、二人の優将の激闘を経て東の宿星も一所に集い、さらなる英雄を呼び醒ます事となるのであるが、果たしてシセイ達は如何なる人物と出会うのか? それは次回で。