群龍交舞(後編)
メニラブの町を出てほどなく。
二人の前に、数人の破落戸風の男達が姿を現わした。
「ここはおれたちの縄張りだ。通るなら通行料を払え」
と言う連中はファルケンネストの山賊の張り番達だ。
トーラは事情を説明し、槍に長けた片目の若い戦士の情報を得ようとした。
山賊の一人が言う。
「そう言や、最近エストヴィルモントに流れ着いた旅の男がいるらしいな。片目で、なかなか腕も立つらしいって話だ」
シロンの顔が色めき立つ。
「エストヴィルモントって、どこですか!?」
「ブラオプラウムから五十里ばかり東の街だ」
シロンはもう元来た道を駆け出そうとしている。トーラは山賊に幾ばくかの金貨を投げ渡すと、後を追おうとした。しかし、
「待ちな、姉ちゃん方!」
山賊の野太い声が押し止める。
「何? まだ用があるの?」
「金をちゃんと払ってもらおうか」
「金なら、今渡したじゃない」
「あれは情報料だ。通行料も払ってもらわなきゃな」
下卑た笑いを浮かべる。
シロンの様子から、これは佳い所のお嬢さんであると見抜き、もっと金を巻き上げられると踏んだものか。
「そうそう、何なら体で払ってもらってもいいがな」
卑猥な冗談に、どっと笑声が起こる。
トーラには、この程度は緑林の連中にとって日常の軽口の範疇で、金を渡せばまず無体はすまい、と判っていた。
だが、シロンはそう取らなかった。良家の子女は一般に性愛には初で潔癖なものであるだが、彼女も例外ではなかった。辱められる危機と怒りと、双つの心が反射的に彼女を武装させた。
彼女の刃槍は、胸元の紅い宝珠――生別した母より受け継いだもの――に常は封じられており、彼女の意志で本来の姿に戻る。それを解き放ったのだ。
突如として槍を構えた彼女に、山賊達は何の手妻かとぎょっとしたが、相手が武器を向けてくれば対抗するより他ない。
「おぅ、ここでおれたちに逆らおうってのかい。度胸あるねぇ、お嬢ちゃん」
あくまで口先には余裕を示しつつ、銘々、得物を抜き放つ。
彼女を制止出来なかった事を後悔しつつ、トーラも剣を構えた。その目は山賊共の挙動一つも逃さず睨み付ける。
「逃げるよっ!!」
隙を見計らい、シロンの手を掴んで一瞬で身を翻す。
「逃がすな、せっかくの金づるだ! ドーゼイ、仲間をもっと集めてこい!」
山賊共がわっと追い掛ける。
二人は下りの道を転がるように駆け下りた。
しかし地の利は山賊達にあった。
どう先回りしたか、彼女達の前に二人の山賊が立ち塞がった。
後ろには追手、立ち止まりも出来ず、彼女達は目前の賊に向かう。
見た目は少女ながら、シロンは騎士である兄ガイザと互角に渡り合える程の腕を持つ。トーラとて傭兵上がり、山賊風情がそうそう相手になろう筈もない。
瞬時に肉薄し、叩きのめした。
だがその間に、後ろの賊が追い付いてしまう。
「しょうがない、ここは戦って切り抜けるよ!」
取り囲みに来る賊共に、機先を制せんと斬り掛かった。
シロンが刃槍を一旋、二旋させるところ、早くも二人を打ち倒した。賊共に明らかに怯みが走る。
さらに三人目に掛かろうとした時
「動くな!」
シロンは動きを止め、声の方を見た。
「トーラ!」
彼女の眼前にあったのは、賊に捕らえられたトーラの姿だった。手に剣はなく、この場の頭目らしい男に後ろから片羽交い締めにされ、首筋に剣を突き付けられている。
その表情は、不覚を取った悔しさと、シロンに対する済まなさで入り乱れていた。
頭目は半ば勝ち誇ったように喚く。
「武器を捨てろ!」
「だめよシロン、手放しちゃダメ!」
刃を首筋に感じる不自由な姿勢から、トーラは必死で叫んだ。自分はどうなっても生き延びる自信はある。だがシロンは……
シロンは頭目から視線を一瞬たりとも外さず睨み付けたまま、しかし構えを解き、刃槍を足元へ落とした。
「野郎ども、やっちまえ!」
嗾ける頭目の言葉には殺気が混じっていた。欲心はあるが、この少女は危険だ。今の内に始末する方がいい。
立っている賊は既に四、五人になっていた。彼等はシロンの武装解除を見届け、前後左右から包むように躙り寄っていく。
「シロン!」
トーラの悲痛な叫び。
迫り来る凶を感じながら、シロンの心の中には、いつしか兄の言葉が繰り返し浮かんでいた。
……事を成すには、まず明確な目的を持つこと。目的の達成に必要な準備を怠らぬこと。そして目的を達成したら欲張らず退くこと……
まず明確な目的を持つこと……
明確な目的……目的……目的……
私の目的は……兄上を見付ける事……
その為には……こんな所で……死ねない……!
彼女の内部で、光が弾けた。
シロンの背後から近付いてきた賊が、その刀で彼女を背中から突き倒そうとする。
不意に、彼女が振り返った。
次の瞬間、賊の男は首の横を何かが通り過ぎるのを感じた。
それが彼女の手だと気付いた時。
男の身体はぐらり、と傾いだ。
自分でも訳が分からぬまま、男は大地に横たわった。首筋から鮮血を迸らせて。
周囲の賊が、ぎょっとして足を止める。
シロンが振り向き様に右手を振り抜いた。
彼女の指先は彼女の正面と、左手にいた男の喉を横に薙いだ。ひゅう、と空気の漏れる甲高い音が響く。二人の男は喉を掻き毟るように、苦悶の表情で倒れた。
残る一人は恐怖からか、強張ったまま動けない。
その首に彼女の手が食い込んだ。そのまま躊躇なく握り潰す。断末魔の声もなく、男は文字通り絶息した。
四人を斃すと、彼女はトーラと頭目の方へゆるりと歩み出した。
頭目の驚倒振りも尋常ではなかったが、トーラはそれ以上に衝撃を受けていた。
想像を絶する残虐さを発露しながら、シロンの両の瞳には、光がなかった。正気も狂気も映さず、焦点すらも定かではない。一方、その口元は紅く笑っているのだ。
“シロン……あなた……”
頭目は、自分がまだ切り札を握っている事を思い出した。改めてトーラに剣を突き付ける。
「よ、寄るな! この女がどうなってもいいのか!?」
この脅しもシロンの耳には届いてないかの如く、彼女は歩を止めない。
いや、今、彼女の身体を動かしているのは、彼女ならざる精神だ。彼女の瞳を見たトーラはそう悟らざるを得なかった。
遂に彼女は眼前に来た。
堪え切れなくなった頭目は、獣のような叫声を発しつつ、剣を突き出す。
その時、シロンの姿が掻き消すように消えた。
次の瞬間、トーラは鈍い衝撃が身体を貫くのを感じた。
視線の先に、見慣れた少女の顔があった。しかし表情は窺えない。その右腕が、真っ直ぐ彼女の腹に刺さっている。
シロンの手はトーラの身体を貫き、後背の頭目の脾腹をも突き破っていた。
シロンは掌を広げ、無造作に右手を引き抜く。頭目は悶絶して倒れ、そのまま動かなくなった。
熱い激痛がトーラの身体を駆け上る。痛みは血となって彼女の口の端から滴れ出た。腹部も鮮血で真っ赤に染まっている。
目の前の少女の瞳に、光は戻っていない。魔なるものに取り込まれた彼女の心は、最早取り戻す術はないのだろうか。可哀想なシロン……
トーラの目から涙が溢れ流れ出す。
「シロン……」
彼女が発しようとした呼び掛けは、もう言葉にならなかった。
力を失ったトーラがシロンに倒れ掛かる。涙が飛沫となって彼女の頬を打った。
そのまま彼女に凭れるように、トーラは息絶えた。
頬に熱いものを感じた。
シロンはハッ、と我に返った。兄の言葉を反芻する内に、一瞬、忘我の境地に踏み込んだらしい、と思った。
だが、周囲の風景は一瞬前と一変していた。山賊共は地に倒れ、骸と化している。
ここで彼女は、自分に寄り掛かっているものの正体に初めて気付いた。
「……トーラ?」
この一月余り、姉のように接してくれた気さくな同行者。彼女を救う為に、自分は槍を手放した筈だった。微かに温みの残る身体は、しかし重く、もう動かない。
彼女の身体を起こそうとして、シロンは愕然となった。
鮮やかな赤に彩られた己の右手。
死と臓物の臭いも生々しい。
トーラの亡骸を静かに地に横たえた。その腹部に無残な口を開けている傷、或いは山賊共の屍体を見るに、シロンは何が起こったのか否応なく思い知らされた。
“私……なの……?”
一体、自分はどうしてしまったのだろうか。あの忘我の一瞬に、自分はどんな血腥い振る舞いを行ったのだろう。それは余りに厭わしく、彼女の未だ完きならぬ精神はその先を拒絶した。
思えば、兄の時もそうだった。あの我を失った一瞬に、自分は愛する兄を傷付け、そして兄は姿を消し、自分は捜し出そうとしてまたも悲惨な事態を招いてしまった。これが私の忌まわしい性なのか……
「トーラ……」
亡骸の側に跪き、彼女は友の死を、そして己の運命を嘆いた。後悔と惑いが涙の形をして彼女の頬を濡らす。
“私はこれからどうすればいいの……? こんな残虐なことをして、生きていることが許されるの……?”
不意に草叢がガサ、と音を立てた。
反射的にキッと睨むシロン。
視線の先、十丈余り向こうに、一人の男がいた。壮士と呼べる年格好の男が、茫然としたようにシロンを眺めている。
彼女が、動いた。
まっしぐらに壮士に向かう。速い。
その動きは、獲物を狙う獣のそれに近かった。甚大な衝撃を受けた彼女の精神は、脆くも再び魔に堕ちていた。
紅く彩られた右手が、電光石火の速さで壮士目掛けて伸びる。
しかし、壮士の動作は僅かに彼女に勝った。
間一髪、彼女の突きを躱す。
直後、いつの間に握られたのか、彼の手にあった短槍が逆撃で彼女の腹にめり込んだ。
如何に狂気に支配された彼女と言えども、己の勢いをそのまま叩き返されてはなす術もない。
さらに首筋に追い打ちを喰らい、彼女は糸が切れたように崩れ落ちた。
壮士は大きく息を吐き、改めて敵たる少女を見下ろした。少女の額に浮かぶ星形のアザが、壮士の目を引いた。近い記憶が引き戻される。
「そう言えば、あの少年の肩にも、同じ様なアザがあったか……」
一人呟くと、壮士はシロンの身体を担ぎ上げ、どこかへ去っていった。
再び気付いた時、目の前に一面の星空が広がっていた。いつしか夜になっていた事を、シロンは知った。
恐る恐る首を動かすと、視界に炎が映った。火が焚かれていると言う事は、近くに人間がいるのか?
「おう、気が付いたか」
男の声がした。ハッと身を堅くする。
火の側に一人の壮士が座っていた。火勢を調整しながら、首だけこちらに向けている。
年は五十近くと見える。短髪に形の良い口髭を蓄え、秀でた眉に目元涼しく、紳士然とした風貌である。飾り気のない皮の上下を身に付け、これは旅行者だろうか。それにしては、ここは唯の旅人の通る道とは思えないのだが。
そんな風に思いを巡らしていると、壮士は彼女を手招きし、火の側に来るよう言った。
シロンはゆっくりと、それに従った。
「そなた、名は何と言う?」
「シロン=チオユン……」
「そうか、シロンか。私はワン=シェインだ」
壮士――ワンは名乗ると、改めてシロンをじっと見た。
「――そなた、何を内に秘めておる?」
シロンは身が強張るのを感じた。しかし、勇気を奮って尋ねる。
「……見て、いたのですか?」
「一部は、な」
ワンは偶然に近くを通り掛かったのだが、何やら男の悲鳴らしい声を聞き、その方へ寄ったのだと言う。
彼が見たのは、重なり合った女性と男性を手刀で貫き通した少女だった。だが少女は女性の亡骸を地に横たえ、その側で涙していた。
その少女に急に襲い掛かられ、辛くも躱したものの、辺りに転がる屍体の多さにこれは徒事ではないと、事情を知るべく少女を連れて来たのだった。
「――でも私は……何も覚えてないんです」
彼女の声は痛い程に悲しげだった。
兄上を見付けるまでは死ねない。迫る生命の危機を前にそう思い定めた刹那、強烈な光によって精神が漂白された。再び気を取り戻した時には敵のみならず、守りたかった友の生命まで奪っていたのだ。血塗られた己の右手が……
「何があったのか……私は何者なのか……知りたい。でも……怖い」
怯える少女にワンは優しく、しかしきっぱりと言う。
「だが知らねば、立ち向かう事も出来ぬ」
ハッ、と顔を上げるシロン。
「――あなたは、知っているのですか? ……これは、私が立ち向かわねばならない運命なのですか?」
「そうだ。知ってしまえば、な。或いは、何も知らずに生を終える事も出来るが」
壮士の眼光の鋭さを、シロンは正面から受け止める。
彼女は意を決した。
「いいえ……私はまだ、死ねません」
ワンも応えて深く頷く。
「狂戦士だ」
「狂戦士?」
「そう。およそ生きとし生ける物は皆、他者の命を喰らわねば己が命を繋ぐ事は出来ぬ。本質的には罪深い存在だ。その罪深さを知る故、獣は己の死も従容と受け入れ、人は無下な殺生を戒め避けようとする。中には魔心多く、欲得で他者から奪うこと妄りな悪人もおるがな」
「……だが、稀にその理を識らぬ者が生まれ出る事がある。彼等には理性も、欲望も、魔心すらない。彼等を動かすのは破壊と殺戮の衝動、唯それだけだ。そこに物があるから壊す。そこに命があるから消す。その存在自体が死と破壊を撒き散らす、それが狂戦士だ」
慮外の話を聞き、シロンは恐怖に身を震わせる。
「……それが狂戦士……どうして、私が……」
「それは判らぬ。だが、己の性を知ったそなたに、選べる道は二つだけだ。人間として生を全うするか、それとも狂戦士として終わるか」
「人の心を失わずにいる方法が、あるのですか!?」
「ある……とも言えるし、ないとも言える」
意味を量りかねたようなシロンに、ワンが続ける。
「狂戦士化を避けるには、殺戮の衝動に心を委ねる事なく、常に自らを強く持つしかない。その為には、如何なる状況にあっても恐慌せぬよう、心を強靭に鍛え上げねばならぬ……どのように、か? 唯一絶対の正法は恐らくないだろうな。要は己の意志の強さ次第だ」
「私に、出来るでしょうか……私は自分が、怖い……」
「ならば、狂戦士として生き、死ぬか?」
「いいえ……! もう、あんな事は二度としたくない……」
彼女が目を遣る先には、やはりワンが運んで来たトーラの亡骸が静かに眠っていた。
「そなたの行く道は決まったな。生きている限り努めねばならぬ、苦行だぞ」
「――覚悟は、出来ました」
頷くワン。
「……では、これも何かの縁だ。そなたは槍を良くするようだな? 私も一流派を持つ身だが、私の修行を受けてみる気はないかな?」
唐突な申し出には違いないが、シロンは躊躇わなかった。
「お願いします」
彼女の新たな決意だった。人として、生きる為に
翌朝、シロン達は一旦トレヤケープに戻る事にした。
発つ前に、二人はトーラの亡骸をメニラブの町の外れにひっそりと葬った。
シロンは、トーラの首から愛用の白い首布をそっと外した。彼女の流した血で所々赤く染まったそれを、強く握り締める。
“トーラ……私を見守っていて……お願い”
彼女は友の魂に祈った。
シロンはトレヤケープの我が家に帰り、兄の行跡が掴めず捜索を一時断念する事を父に告げた。
また、この旅の同行者としてワン=シェインを紹介する。彼が覇皇流槍術宗家の“潜淵龍”であると知った父マロルは驚き且つ喜び、賓客として彼を遇した。
これより彼女はワンを師と仰ぎ、槍と心の鍛錬に日々を過ごす事となる。二度と悲劇を繰り返さない為に。
その悲劇が余りに大きな衝撃を伴うものだった為に忘れてしまっていたのだが、もしこの時、彼女が「エストヴィルモント」と言う地名を思い出していたら、彼女の物語は劇的に展開を変えていたかも知れなかったが……全ては後にこそ知られる話である。
それから、数年の時が流れていた。
ワンはチオユン家に留まり、シロンに覇皇流の槍を伝授した。その素質は、彼が舌を巻く程だった。
“ほう……どこで身に付けたかは知らぬが、見事なものよ。天性ではあの少年より勝るかも知れんな……”
かつての愛弟子を思い浮かべながら、ワンは彼女の長足の成長振りに目を細めている。
同時に、心の修行も疎かにしてはいない。この点、覇皇流が実戦に重きを置く流派だったのが彼女に利となった。「己に勝てずして、勝負に勝てず」常に心乱れず沈着である事を求められ、彼女はそれに応えた。
いつしか彼女の名声は「沈着にして勇猛な女騎士」として巷間に高まり、
「龍に騎る将の娘は、師弟揃って人中の龍なり」
と、“破嵐龍”の異名を奉られるまでになった。
この日も、彼女は師と鍛錬に励んでいた。
ワンを師としたあの日以来、シロンはいつも額に紅い布を巻いている。トーラの首布を紅く染め直したものだ。紅は彼女の流した血の色。シロンは彼女の事を、片時も忘れた事はない。
漸く陽が中天に掛かる頃、二人は一息入れた。
「先生、たまには外でお昼に致しませんか?」
「それは宜しいな」
シロンの提案に、ワンは賛成した。
この頃、チオユン邸は立て替え工事の最中で、職人が忙しなく出入りしている。トレヤケープの街も大南路の街道沿いにあり、賑やかしさは言うまでもない。
「……あら?」
前方の店から、喧騒が聞こえる。人が多いだけではない、何か騒動が起こっているような騒々しさだ。
師匠と二人駆け付けて入り口から中を覗くと、食堂の中はしっちゃかめっちゃかの有り様だった。遠近で罵り合い、殴り合い、全く収拾が付きそうな様子はない。
彼女は視界に一人の男の姿を捉えた。確か、邸の工事で何度か見掛けた事のある、体格の良い大工だ。大工は何故か髭を白くし、目を怒らせ、拳を固めて振り被る。その先には、小柄な女性と二人の子供が頭を抱えて小さくなっている。
「いけない!」
何があるか知らないけれど、か弱い婦女子に暴力を振るうなんて!
先にワンが動いた。
振り下ろされる拳を、槍の一閃で跳ね飛ばす。
大工は堪らず、腕を押さえて蹲った。
とにかく、ここは一早く騒ぎを収めないといけない。ワンが目で合図し、シロンが小さく頷く。
彼女は手にした刃槍を高く掲げ、石突で床を打った。
喧騒を圧する低音。
店内の者が一斉に入り口を向く。
「……シロンお嬢様だ」
「お嬢様……」
「こりゃ、えれぇもんを見られちまったなぁ……」
皆乱闘を止め、そそくさと食卓に戻っていく。
大工の棟梁がシロンの前に詫びに出た。一言諭す。
「お酒が入っているのは解るけど、他人様に迷惑を掛けてはいけません。今少しの自重を皆にお願いするわ」
さらに店の主人にはこう告げた。
「損害は当家で弁償しますので、損害額が算定出来たら請求書を邸に持って来なさい」
そして、大工の鉄拳を喰らう寸前だった三人の婦女子には、
「旅の方、御迷惑をお掛けして本当に御免なさい。私からお詫びさせて戴きますわ」
遠くで件の大工が不機嫌そうに口を曲げたが、シロンの目には入っていなかった。
「どうぞ私の家にお出で下さい。食事もそこで用意致しますわ」
これだけ店内が荒れていては、ここでの食事は無理だろう。他の店を探す手もあるが、落ち着いて話をするには邸に戻る方が良さそうだ。彼女はそう考えた。
「え? ……で、でも……」
三人は困惑したように顔を見合わせている。一人は青銀の長い髪に緑の瞳の小柄な女性、一人は襤褸い身形に団栗眼が印象的な少年、一人は南方系の衣装を纏った円らな瞳の少女。取り合わせは奇妙だが、シロンには詮索する気はなかった。優しく微笑みながら言を継ぐ。
「これも何かの機縁。遠方の色々なお話を私に聞かせて戴けませんか? 貴女方と、そちらの強くて勇敢なお嬢さんも御一緒に如何でしょうか?」
乱闘の中で彼女は、誰よりも俊敏で且つ屈強だった緑がかった黒髪の女性を見逃してはいなかった。
「アタシ?」
女性の金銀妖瞳――青い右目と黒い左目が丸くなる。
「さあ、こちらへ」
シロンは四人を差し招いて店を出る。ワンと、四人があたふたと後に続いた。
この四人との出会いが彼女にとって新しい物語の始まりとなる。その事に、彼女はまだ気付いていない。




