第三話 双剣娘 河岸に犬鬼を防ぎ 天翔龍 兄弟の約を交わすの事
デュクレインの説明は、すなわちこうであった。
リヴァーウェストは、その名の通りアルム川の西にある、比較的新しく開けた街である。だが、最近ではこの街にも怪物共が襲って来るようになった。川の東の山中に巣があるらしく、夥しい犬鬼の群が幾度も川を越えてやって来ては、街を襲い人々を殺して去って行く、と言う。だが、リヴァーウェストはイルージュと同じく、さほど大きな街ではないので官軍は駐留していない。そこで腕に覚えのある若者達が自衛団を結成して、日々訓練しながら怪物共の襲撃に備えているそうである。
それだけならば近頃どこでもある話なのだが、リヴァーウェストは少し事情が違った。自衛団で最も腕利きの戦士の風評である。
シャオローンの目の光が微かに変わった。
「それは?」
デュクレインも直接会った訳ではないらしく、旅人の話だが、と前置きして語る事には年はまだ十四、五の少女だと言う。だが両手に二本の長刀を持って振るえば一人で怪物の群を蹴散らす、と言う腕前だとか。勿論自衛団一の戦士で、近隣の町にも彼女と当たれる者はそうはいないだろう、と言う程の評判だった。
「その少女の名は?」
シャオローンが身を乗り出して尋ねる。
「ヨシオリ=タイラー!」
「“双剣娘”か?」
「知っていたか」
「名前だけはね」
彼はふと考えるような顔つきをして、
「なるほど、彼女ほどの戦士ならば我々の目的を語るに足る。デュクレイン、善は急げだ。早速行ってみよう」
逸るシャオローンに対して、デュクレインは気が早い、と言いた気に唇を歪めてみせる。どうやら、まだ他にも彼女の名を出した理由があるらしい。
気付いたシャオローン、照れ隠しの仕草に困りながらもう一度椅子に腰掛けた。
北からの旅人がよく彼女の噂を運んで来るらしい。その中には彼女の容姿について語ってくれるものもあり、その姿は花か蝶とも思える可憐さだとか。そしてその左頬に星のアザがある事まで、デュクレインは語った。
「決まりだ!」
再びシャオローンが立ち上がる。今度はデュクレインも止めない。
「リヴァーウェストへ、行こう」
頷くデュクレインとアリーナ。否やのあろう筈がない。
そして翌朝、緑に囲まれたヘ・オーグを旅立つ三人の姿があった事は言うまでもない。
リヴァーウェストはイルージュの隣の街である。一刻ほど歩いて三人は街に着いた。最近になって開けて来た街であると言う通り、なるほど新しさから来ているらしい活気がそこここから感じられる。
自衛団の若者達がよく屯している酒場は、街の中心部から北に行った山の中だと言う。早速三人は山に入って行った。
山道はそこそこ険しかったが、旅慣れしている彼らは特に苦にもしていない。一歩入る毎に深まって行く緑の景色を愛でる余裕さえあった。
暫く行くと、軒下に酒旗を掲げた店が見えた。
「あれだな」
山道の酒店にしては大きい造りをしている。間違いなかろうと彼らは思った。
「休憩ついでに、入ってみるか」
「えぇ」
三人は扉を開けた。
店の中では、十人余の若者達が卓を囲んで何事か語り合っている。幾人かは入って来たシャオローン達に一瞬視線を向けたが、珍しそうな顔をするだけですぐに仲間内の話に戻っていた。
シャオローン達は席に着き、飲み物を頼んだ。その間にも彼らは店内の人物に目を配っている。
先客--地元の若者らしい--は皆戦士の身形をしていた。年は若く、経験もまだ浅いようで、腰の長剣や身に纏う鎧もまだ馴染んでなく、ちぐはぐな印象すら与える。
中には女性の姿も見える。珍しいとは言わないが、女性戦士でそれも一流の腕を持つ者はざらにいるものではない。彼女達の姿も、戦い慣れたシャオローンやデュクレインの目から見れば素人とそう変わりがない。
「あの中にはいないようね」
「待っていれば、いずれお目に掛かれるさ」
喉の渇きを癒しながら、シャオローン達は戦士達の話にも耳を傾けていた。やはり彼らは地元の自衛団のメンバーで、川を越えて襲撃に来る怪物共に備えて待機しているところらしい。彼らの大半は実戦経験がなさそうだ。
シャオローンは小声でデュクレインに話し掛けた。
「大丈夫だと思うか?」
デュクレインは首を軽く捻ってみせた。彼も同じ意見らしい。
しかし、彼らの方は別に恐がる風でもない。一番年嵩--と言っても、デュクレインよりまだ若いだろう--の男が大袈裟な身振り手振りを交えて話す言葉にその理由があった。
「……心配はいらんさ。彼女の二刀に敵う奴はいないよ。俺達は彼女の邪魔をしないように、左右から掩護していればいい」
「そんなに凄いの?」
「あぁ。俺は一度彼女と組んで戦った事があるが、双剣娘のアダ名は伊達じゃない。一人で犬鬼共を蹴散らしてしまったよ。しかも自分は全くの無傷でさ……。と、そろそろ来る頃じゃないか?」
聞いていたシャオローン達は顔を見合わせた。
「聞いたか?」
無言の肯定が返って来る。
「これも、宿命ってものかな」
シャオローンは片目を瞑って軽く笑った。
「ねぇ、あの子がそうじゃない?」
アリーナが戸口の方を見て二人に言った。
慌てて、しかし目立たない様に二人とも視線を戸口に遣る。
そこにいた。
一人の少女。
いや、少女と呼ぶのは彼女に失礼かも知れない。そう思えるほど彼女の姿は凛々しく、それでいながら愛らしくもあった。
栗色がかった髪を朱の組紐で束ね、桃の花を思わせる顔立ちはまだあどけなささえ残しているが、黒檀の如き瞳と細く吊った眉に意志の強さが感じられる。その左目の下にはっきりと浮かぶ星形のアザ。
彼女の衣服--薄紅色を基調とし、身頃と袖を紐で結びつけ、赤い細帯を腰に巻いている--はヤパーナ古来の戦装束である。脛当も古式に則ったもので、膝頭に牙を剥いた獣面の飾りがあり、左右の腰には二本の長刀が差してある。どちらも一目見て判るかなりの業物である。
身の丈六尺五寸とやや小柄で細身、華奢な印象を与えるが、その立ち姿にさえ一分の隙もない。
彼女--ヨシオリ=タイラーはシャオローン達の卓の横を通り、先にいた仲間達の歓迎を受けていた。
デュクレインは一人で納得したように小さく首を動かすと、今度はシャオローンの方を向いた。
シャオローンはまだヨシオリの方を見ている。
「……シャオローン?」
デュクレインの視線に気付いたアリーナがシャオローンに呼び掛ける。
「……ン? ア、ああ」
状況を理解したシャオローン、些かバツの悪そうな表情を見せた。
「腕前の方はともかく……少なくともそこらの二流戦士とは比較にならないな。こんな場所でさえ動きに無駄がない」
デュクレインも同じ見解であるようだった。ゆっくり頷いて見せる。
「それと気付いているか、デュクレイン? 彼女、店に入ってから一瞬たりとも我々に対する注意を怠っていない。我々を知っているのか、それとも実戦の勘か……どちらにせよ、徒者ではないな」
えらく私情の入った評だな、とはデュクレインは言わない。彼女の鋭い気は彼も等しく感じていた。
「一度彼女の腕前を見てみたいものだな」
「腕競べでも挑むか」
必要以外の事は滅多に喋らないデュクレインの冗談とも本気とも付かない台詞に、シャオローンは一瞬驚きの表情を表わしたが、すぐに笑って切り返す。
「悪くないな」
だが、彼女の剣の腕は意外に早く披露される事になった。
一人の若者が大慌てで店に飛び込んで来たのだ。
「犬鬼が、来たぞ!! 川を渡って!!」
店内の空気が凍り付いた。
しかしヨシオリは平然としたものだった。
「行くよ!!」
一言だけ言って、すぐさま店を飛び出す。
遅れて他の戦士達も付いて行く。
あっと言う間に、店の中はシャオローン達三人だけとなった。
「なるほど……度胸も十分だな」
シャオローンは心底感心したように呟いた。
「デュクレイン、後を追うぞ。彼女のお手並拝見といこう。彼女はともかく、若い連中はあの調子じゃ足を引っ張りかねない。場合によっては加勢する事になるかも知れない」
デュクレインが唇の端を上げて不敵な笑みを見せる。
それで決まりだ。三人は席を立った。
シャオローンが小銭を卓の上に投げた。
「足りない分は後で払いに来る」
言い置いて、彼らもまたヨシオリ達の後を追って行った。
シャオローン達がアルム川の川原に着いた時、戦いは既に始まっていた。
川を渡って来る犬鬼の数は多い。五十は下らないだろう。
一方、自衛団はヨシオリを先頭に他の戦士達が左右後方に並んで待ち構えている。陣形で言えば魚鱗と言うところか。
この構えでは、ヨシオリが殆どの敵を相手にする事になる。しかし、これが最上だとシャオローンは思った。
とにかく、彼女が強過ぎるのだ。
刀を一振りすれば一匹が倒れ、返す刀でまた一匹がやられ、二刀の煌く所に死体の山が築かれていく様が遠目にもはっきり判る。さながら戦女神か鬼神とも思える強さだ。
左右の戦士達は、たまに廻り込もうとしてくる奴等だけを相手にしていればいい。経験の少ない彼らには、丁度良い実地訓練だろう。
土手の上から戦闘を静観していた三人は、半ば驚きを持って見ていた。
「凄い……わね」
「あぁ。双剣娘があれほどの強さだとは思いもよらなかったよ」
デュクレインも無言で同意する。
実際、ヨシオリの強さはシャオローンやデュクレインの予想を遥かに越えていた。もし彼女と戦う羽目になったとしたら、勝てるだろうか……二人は人知れず戦慄していた。
「待って! 何か来るわ!」
アリーナの声が二人を現実に引き戻す。
「どうした、アリーナ?」
「こちらに近付いて来る波動を感じるの。早いわ!」
「新手か!?」
「判らない……けど、この波動は魔法生物よ」
アリーナは空を見回した。三人の中では彼女が一番目が良い。
その視線が一点で止まった。
「あれだわ! 石魔!!」
石魔--魔法によって生命を吹き込まれた石の魔物が滑空しながら凄い勢いで迫って来る。
「いかん!! 彼らの武器では勝てない!!」
既に石魔はシャオローンの目にもはっきり見えるほど近付いていた。空から攻撃する有利、しかも昨日今日実戦に出たばかりの戦士達が石魔の特徴--普通の武器では傷一つ付けられない--を知ろう筈がない。
「陣形を崩されたら終わりだ。デュクレイン、加勢するぞ!!」
二人は川原に飛び降りた。
石魔は戦士団目掛けて真っ直ぐ飛翔して来る。その目指す先には一人の年若い女戦士がいた。二人掛かりで犬鬼を持て余しているところからも不慣れなのが解る。
石魔の目が怪しく光った。
目標を定めて速度を上げる。石魔の翼は音を立てないのだ。
彼女は目の前の犬鬼に対処するのが精一杯で、上空から自分を狙って近付いて来る怪物に全く気が付かない。
真っ先に石魔に気付いたのはやはりヨシオリだった。しかし、犬鬼の群が行く手を阻んで助けようにも動けない。
「シャミー!! 上!!」
堪らず叫ぶ。
シャミーと呼ばれたその女戦士は顔を上げた。
敵意を持って自分に迫る怪物の存在に気付く。
みるみる近くなる。
醜悪な形相に恐怖したのか、シャミーは身動き一つしない。
石魔は腕を振り上げた。腕の先の硬い爪は、生半可な鎧など容赦なく切り裂く武器だ。
間に合わない!!
誰もがそう思った時。
デュクレインの右手から閃光が走った。
石魔の腕が振り下ろされるより早く、閃光--鋼線刃が首に絡み付く。
一動作で手前に引く。
体勢を崩した石魔が失速して落ちる。
そこへ--。
「タァッ!!」
シャミーを押し退け、石魔に真正面から向かう格好でシャオローンが飛んだ。
同時に槍を突き出す。
堅い物同士のぶつかる音がした。
石魔の怒声が響く。
シャオローンの槍は石魔の胸から背中まで突き通っている。石魔の石の皮膚に弾かれる事なく、急所を寸分違わず貫いたのだ。
地に降り立ったシャオローンは、石魔の頭にもう一槍くれて止めを刺した。
--戦場は静まり返っていた。敵味方とも呆然と成り行きを眺めている。
突如、一匹の犬鬼が耐えきれなくなったかのように、背を向けて逃げ出した。
それを合図に犬鬼共は、我先に川を渡って逃げ帰ろうとした。
どうやら石魔は奴らの切札だったらしい。それが敢無くやられて、勝ち目がないと見たのだろう。
賢明な判断ではあった。が……
「みんな、退がって!」
追い討ちをかけようとしていた彼らの後ろから、いつの間にかそこまで来ていたアリーナが声を掛けた。手に印を結んで--。
「制流!!」
印を解き、右手を川の方に翳す。
暫くは何も起きなかった。
が、数秒後、今にも向こう岸に辿り着こうとしていた犬鬼が、川底に足を取られたように転び、水中に没した。
続いて一匹。また一匹。
次々と川に呑まれ、遂に一匹残らず川の中に消えてしまった。
予想も付かない出来事の連続に戦士団一同は声も出ない。
「……そうか、川の流れを早めたのか」
一番早く気付いたのは少しは魔法の心得があるシャオローン。
「津波で押し流そうかとも思ったんだけど、ね」
アリーナは魔法使い(マジックユーザー)らしからぬ過激な事を言っている。怪物に対して容赦がないのは、故郷を何度も襲撃されている恨みからだろうか。
「川を有効に使った追撃法だな」
そう言って、シャオローンは何気なく後ろを見た。
戦士団の方から二人こちらへ来た。ヨシオリとシャミーだ。
「手助けして下さってありがとう。おかげで助かりました」
礼はヨシオリが言った。こうしているところなどは年相応の少女だ。
「いや、礼を言われる程の事ではありません」
「お名前を聞かせて下さい。あたしは街の自衛団のメンバー、ヨシオリ=タイラーです」
「よく知っていますよ。リヴァーウェストの双剣娘」
「どうしてあたしの名前を?」
彼女の口調に僅かに警戒の響きが混じる。
「貴女が素晴らしい剣の使い手だと言う噂はよく耳にしていました。是非一度貴女にお会いしたいと思っていたのです。申し遅れましたが、私はシャオローン=シェン、こちらはデュクレイン=キルナヴェルとアリーナ=ディクト=ドレスデン」
「天翔龍! あの覇皇流槍術の!?」
「えぇ」
途端に彼女の表情が喜びと親しみを一杯に表わしたものになる。
「あたしも、一度会いたいと思っていました! それなのに、一時に飛刀夜叉や小玄女にも会えるなんて!」
「それは光栄です」
彼女は手放しの喜びようだ。他の戦士達も彼らが関西に名を轟かせる人物と知って、一様に驚いていた。
「いろいろお話ししたい事があるので、さっきの酒場に戻って貰えませんか?」
「えぇ、いいですよ。でないと店の親父に恨まれるかも知れませんからね」
「エ?」
ヨシオリは意味が解らずキョトンとしている。
その表情が可笑しいのか、戻った時の店主の顔を想像したのか、シャオローンは目を細めて笑っていた。
店に戻る道の途中でも、シャオローン達は自衛団の面々の質問攻めに遭った。武芸や魔法に関心の高い彼らは、武器の扱いや戦闘の心得など思い付く事は何でも訊いてくる。寡黙なデュクレインは些か閉口していたが、シャオローンとアリーナは喜々として話に乗っていた。
誰かが知らせておいたのだろう。店に着くと、中は歓迎の準備が整っていた。
店の主人はシャオローン達を見て何か言いたそうな顔をしたが、ヨシオリ達が一緒にいるので何も言わなかった。
シャオローンは吹き出しそうになるのを堪えている。
先ずは皆席に着いた。
堅苦しい挨拶など抜きで、すぐに話に花が咲き始める。
シャオローンとヨシオリは互いの武勇伝を語り合っていた。二人ともそう言う話題には事欠かないので、話は尽きないようだ。
酒--シャオローンとデュクレイン以外は弱い酒を飲んでいたが--も幾巡かした頃、
「……でも、いいな。みんなで旅ができるなんて」
ヨシオリの口からふと漏れた呟きをシャオローンは聞き止めた。
「旅の経験は?」
「全然。あたしは生まれてから一度もこの街を出た事がないの」
そう言う彼女はどこか寂しげだった。
「そうか……」
「それより、どうしてわざわざこの街に来たの?」
「その事なんだが」
シャオローンは姿勢を正した。
「貴女には是非真実を話したい」
「何かあるのね?」
彼は頷くと、先にデュクレイン達に語った事をもう一度ヨシオリに話した。
聞いている内に、彼女の表情が固くなってくる。
「魔王が……地上に現れる……」
「えぇ」
「それをあたしに話したと言う事は、あたしにも一緒に戦って欲しい、って事ね?」
「そうです」
「それは、あたしにそれだけの力があると見た、と言う事なの?」
「だから貴女を訪ねてここまで来ました」
彼女は少し目を閉じて考えた。表情はまだ曇ったままだ。
「……認めてくれてありがとう。だけど、もう少し考えさせて。あたしが今いなくなったら、この街を守る人が……」
「いいですよ。事は重大だ。よく考えて決めて下さい」
彼女の躊躇う理由がそれだけではない、と見たシャオローンだったが、敢えてそれ以上は訊かなかった。
すぐに別の話題を振り向ける。
「しかし、私は犬鬼如きが相手の戦いで貴女の力の全てを見た、とは思っていませんよ」
やはり好きなのだろう、武芸の話となると、彼女の目の光は明らかに変わる。
「本当? じゃあ、シャオローンはあたしの力をどれぐらいと見ているの?」
「それを確かめたい」
彼は壁に立て掛けていた槍を握った。
「受けてくれますか?」
彼女は顔中に喜色を表わして答える。
「望むところよ!」
二人は山肌に張り出した店の舞台に飛び出た。この眺めの良い舞台が即席の決闘場だ。最初は何事かと驚いていた戦士達も勝負の行方を興味津々と見守っている。
「いいか?」
短く促したのは、審判役を買って出たデュクレイン。
「えぇ。勿論、手加減は無用よ!」
「こちらもだ。手を抜く余裕などない」
二人とも、愛用の得物を手に身構えている。ヨシオリは両手を刀の柄に掛けて腰を低く落とし、シャオローンは石突の向こうに相手を見る、剣で言うなら正眼の構えを取っている。
既に緊張は頂点まで高まりつつある。辺りはしんと静まって、風が揺らす木の葉のさざめきくらいしか聞こえない。
その葉の一枚が突然に枝から千切れ、風に舞いながら落ちてきた。
二人の間に、ひどくゆっくりと。
ほんの数秒が何倍にも感じられる。
床に着く。
その瞬間。
デュクレインが右手を振り下ろした。
始め!!
「ハッ!!」
「タァッ!!」
二人は同時に踏み込んだ。
刀と槍が打ち合う。
まずヨシオリが攻勢を取った。懐に飛び込むのは槍使いと闘う時の鉄則だ。間合いを離されては長さで劣る刀に勝ち目はない。その鉄則に忠実に、彼女は息吐く間もなく攻め立てる。
シャオローンもそれは承知していた。しかし、彼女の踏み込みは予想以上に速かった。
槍を存分に振るえない位置で二刀の攻撃をやっとの事で受け流している。
堪らずシャオローンが退けば、すかさずヨシオリが詰める。
間合いが変えられない彼の不利は否めなかった。
“凄い!! やはり彼女の腕は本物だ!!”
それでも、彼にはそんな事を考える心の余裕がまだある。
覇皇流槍術は槍のみの流派ではない。言うなら、槍を主体とした格闘術の流派である。このような状況下でも対処法は考えられている。危険なのは、無理矢理に距離を開けようとして却って隙を作ってしまう事だ。
シャオローンは迷わず一歩踏み出した。
跳ね上がったシャオローンの右膝がヨシオリの鳩尾を狙う。
この動きに彼女は反応した。相手が並の漢だったら彼女も惑わされる事はなかっただろう。しかし、彼女はシャオローンの“槍”を意識し過ぎていた。
一瞬の迷いが行動に表れた。彼女は後ろに飛び退いてしまったのだ。
しまった!!と思った時には既に二の槍が迫っていた。
空中で身を捻って間一髪で躱す。
着地して彼我の体勢を見て、彼女はシャオローンの真の狙いを悟った。
後ろに退いてしまった為、自分に絶対不利な間合いとなっている。
ならば、詰めるまで!!
もう一度、シャオローンの懐へ飛び込もうとした。
だが、シャオローンの動きはその先手を取っていた。
「覇皇流奥義、千条稜陣!!」
槍を振るう手が閃光の如く煌いたと見えた刹那。
この時、居並ぶ戦士達は一瞬我が目を疑った。シャオローンの槍の穂先が無数に分裂してヨシオリを阻んだように見えたのだ。
“は……速過ぎる……!”
何が起こったか判ったらしいデュクレインさえ、心の中でそう呟くのがやっとだった。
“千条稜陣”とは、自分の前面のあらゆる点に高速で突きを繰り出す技である。ただ、その速さが並でなく、瞬きほどの間に十以上の突きを繰り出している。だから、残像で無数の穂先が見えるのである。
戦士団の面々は、これほど高度な闘いを目にした事がなかったのだろう、最早声も出ない。
一転してシャオローンが場の主導権を握った。あくまで自分の間合いを保持して巧みにヨシオリを追い込んでいる。彼女が前に出る素振りを見せようものなら遠間で受け流し、出足を払う。近寄る隙を与えないのだ。
しかし、ヨシオリの闘志はまだ消えていなかった。寧ろ久々の強敵の出現に、今までになかった程に滾る自分の中の熱い血潮を感じていた。
“シャオローン、あなたにならあたしの全ての力を見せられる気がする!!”
彼女はまた前に出た。
「来いっ!!」
シャオローンが再度千条稜陣を放つ。
その槍先が全て、ヨシオリの体を摺り抜けた。
「なっ!?」
シャオローンは慌てて槍を引いて縦に構えた。
そこに寸分違わずヨシオリの二刀が送り込まれて来る。
防御していなければ、実戦なら今頃は間違いなく首が飛んでいる。
“たった一回で、千条稜陣の槍筋を見切ったと言うのか!?”
千条稜陣は槍を全く出鱈目に繰り出している訳ではない。早く突く為に或る決まった型に従って槍を出しているのだが、ヨシオリはその型を読んで飛び込んだのだ。過去にこのような技の出来た者など--まして一度見ただけで--シャオローンは知らない。
“まだまだ私は彼女を甘く見ていたようだ”
再び守勢に立たされながら、シャオローンは考えた。
“覇皇流最大の奥義をもって、決着を付ける!!”
図らずも、ヨシオリも同じように考えていた。
“長引いても決定打は出ない。決めるなら今!!”
槍と刀を打ち合わせた二人の目が一瞬合う。
同時に飛び下がった。
そのまま床を蹴って飛び出る。
「覇皇流最大奥義、龍牙槍撃!!」
「無明斬影剣!!」
叫び声が交差する。
二つの影が光の尾を引いて擦れ違った……。
二人は互いに背を向けたまま、じっと動かない。
--やがて、どちらからともなく振り返った。
シャオローンの鬢の毛を止める布が、二つとも斬れ落ちた。
ヨシオリの髪を束ねる朱紐は解け、豊かな髪が流れた。
「……引き分け、かな?」
暫し表情のなかったヨシオリがにっこり笑った。
つられてシャオローンも微笑む。
「そのようだね」
誰からともなく起こった歓声に辺りは包まれた。
夜も更けてきた。昼間の喧噪もどこへやら、山は本来の静けさを取り戻していた。
ヨシオリ達の好意で、三人は店の二階に寝床を設えて貰っていた。普段は彼女達が寝泊まりしている所らしい。
そのシャオローン、先程の熱気がまだ冷めないのか、舞台の欄干に身を預けて闇を眺めている。
いや、彼だけではなかった--
「シャオローン」
呼び掛けてきたのは彼の好敵手。
「まだ眠らないの?」
「あぁ、体が興奮してて眠れないので……それに……」
「それに?」
「多分、貴女がここに来るだろうと思ったから」
ヨシオリはハッとした表情でシャオローンを見た。
「どうして? 何故判るの!?」
「自分なら、そうするだろうから……かな」
どう言う答えを期待していたのか、彼女は一瞬呆気に取られたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「シャオローンって、本当にあたしに似てるね」
「そう?」
彼女は頷いた。嬉しさと寂しさの入り交じったような複雑な瞳をして。
「……じゃあ、あたしがどうしてここに来たかも判ると思うけど……」
「あぁ。大体の見当は、ね」
「さっきの話だけど……ごめんなさい」
沈んだ声で謝る。
「誤解しないで、シャオローン……あたしも、自分の宿命は知っているの」
「!!」
ヨシオリの言葉は、シャオローンにとって予想外だった。彼女の宿星が何であるにせよ、まだ完全に覚醒してはいないと思っていたからだ。
「知っていたのか……」
「えぇ……でも、あなた達と一緒には行けないの。行けばきっと、あなた達に迷惑が掛かるわ」
「何故?」
「判っているでしょう? あたしは、タイラー家の末裔なの……一生、シュルスの刺客の影に怯えて生きなければならないのよ……」
タイラー家とシュルス家は、共に約八百年前ヤパーナの西と東を支配していた二大武家王朝である。ヤパーナ全土の統一を賭けて争い、結果シュルス家が勝利を収めた。敗れたタイラー家は地下に潜伏して敵対行動を取り、シュルス家も対抗して執拗な残党狩りを行なった。現在ではどちらも本家は滅んでいるが、僅かでも血を引く者が未だに抗争を繰り広げているのである。
「……奴らのせいで、両親や妹とも離れ離れになってしまって……ここに逃げて来てからも何度か襲われたわ。今の仲間達は、そんなあたしを知っててここにいさせてくれているけど……でも、あたしがあなた達と一緒にいたら、何の関係もないあなた達までシュルスの刺客に襲われるのよ。そんな事……!」
「関係なくはない」
シャオローンが静かに、しかしきっぱりと否定した。
「エッ?」
「私の母は、タイラー家の一族であるアコースン家の出だと聞いている。まんざら無関係でもない」
彼はまたいつもの微笑みを見せる。
「それに、同じ宿命を背負う私達は兄弟も同然。貴女を狙う者は、私にとっても敵だ。貴女のもう一つの宿命を肩代りは出来ないが、共に戦う事なら出来る。そうさせて欲しい」
「シャオローン……」
ヨシオリの声は掠れ気味に聞こえた。
「あたしがいて……いいの?」
「貴女に来て欲しい。デュクレインも、アリーナもそう言うでしょう」
月明りが彼女の頬を伝う一粒の光の珠を輝かせた。
「……お願い……あたしも、連れて行って……」
そこから後は聞こえなかった。
だが、シャオローンは大きく頷いた。
そして、一言付け加える。
「図々しいが、私からもお願いがあります」
「……エ?」
「ここで、私と義兄弟の約束をして欲しい」
意外な申し出だったのだろう、ヨシオリの少し濡れた瞳がシャオローンの目を真っ直ぐに見据える。
「どうして、あたしと?」
「私と、貴女が似ているから……では理由になりませんか?」
しかし、彼女はそこに真実を見たらしい。
「ちょっと待ってて」
一旦店に入ってすぐに戻って来た。杯を二つ、手にして。
「これがないと、本当の約束とは言えないわ」
そう言って、悪戯っぽく笑った。
「そうでしたね」
シャオローンは杯を受け取り、そのまま高く掲げた。
ヨシオリも同じようにする。
「我ら、天に誓う! 生まれた日は違えども、死ぬ時は同じ日、同じ時を願わんと!!」
二人の言葉が重なった。
同時に杯を空ける。
この時、道を同じくする二人の心もまた同じくなった。
「シャオローン……いえ、兄さん」
「ン?」
「約束したわよ。死ぬ時は同じって……きっとよ!」
「無論」
この約束が守られるのかどうかは、いずれ物語が語ってくれよう。
「明日の朝は早い。もう寝た方が良い」
「そうね。じゃ、おやすみなさい、兄さん」
「おやすみ、ヨシオリ」
二人はそれぞれ部屋に引き取った。
この日が、ヨシオリにとって人生の転機に、そして一生忘れられない日になった事は言うまでもない……。
こうして一人の少女が新たに一行に加わり、やがては白き狼が地を駆け山に拠り、人中の獣がその下へ集う事になるのであるが、果たしてヨシオリの活躍や如何に? それは次回で。