神臂娘出陣(前編)
この世界の東に位置する島国、ヤパーナ。
平和で裕福な国。しかしそれを当然と考えた瞬間から退廃が始まるのは逃れられぬ人の業か。
関西――ヤパーナの西部には三つの大都市がある。
行政と文化の中心、かつての都ウェストキャピタル。
経済と商業の街、あらゆる富の集まるグランコート。
そして良港を抱え、西ヤパーナに睨みを利かせる軍事の中枢都市コーベ。
この三都の結束と均衡によって、関西は西畿を中心に、関中に負けぬ発展を遂げてきたのである。
だが、この三都の繋がりに不穏な影が落ちつつあった。
事の起こりは、ウェストキャピタルとグランコートの県境にあるルフトケーニッヒ山を、シュヴァルツと名乗る無頼の一団が占拠した事にあった。
ルフトケーニッヒ山は、両都市からさらにはコーベを結ぶ主要な街道――大南路沿いにあり、この地を押さえられる事は庶民の生活を直撃するのは勿論、ヤパーナを支配する帝国の面子にも関わる。
ルフトケーニッヒ山は行政区分上ウェストキャピタル県に属するので、まずはウェストキャピタルが県軍を動かした。しかし四度に亘る討伐軍は何の成果も上げられず、かえって賊軍に凱歌を上げさせる始末だった。
五度目に至って官軍は、まだ若輩ながら切れ者との評判のあったシリウス=プラトニーナを主将に抜擢し、山賊掃討の任を与えた。
シリウスはこれによく応え、山賊の頭領ロボスを捕殺し、シュヴァルツの山賊共を残らず降伏させた。
事件はこの後に起こった。
何を血迷ったのか、シリウスは督戦官のメグロワを斬殺し、山賊共を解放すると、自らルフトケーニッヒ山に拠って山賊の新たな頭領に収まってしまったのである。
この事態にウェストキャピタルは驚愕した。
直ちに討手として、同じく若手の注目株だったウィリアム=コーエンを遣わしたが、正攻法のコーエンは奇兵奇策を得意とするシリウスに敵し得ず、自身が虜にされた上に放たれると言う屈辱的な敗北を遂げたのであった。
この結果、ウェストキャピタルはシュヴァルツの自力討伐を諦め、現有戦力を全て都の守りに当てた。そしてコーベにルフトケーニッヒ山討伐を要請したのである。
「ウェストキャピタルは、我等を番犬か何かと思っているのではないか?」
県軍と西畿軍の司令官を兼職するユリウス=クライゼルは、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
これまでからして、ウェストキャピタルはコーベに対し頭ごなしの物言いが多い、と彼は考えていた。如何に文が武を統制するとは言え、如何にかつてはヤパーナの帝都だったとは言え、こちらも関西三都の一角であり、西ヤパーナに睨みを利かせる強力な軍団を有している自負がある。これが彼の、そしてコーベのウェストキャピタルに対する、偽らざる感情であったと言えよう。
実際、コーベに常駐する軍勢は、帝室及び帝都を防衛する御林軍・御衛軍を除けばヤパーナで最強の実力を誇っていた。もし西に変事ある時はこの地で食い止める為であり、更に西畿の司令官は西奥・南島・西島の司令官の上位に立ち、非常時の指揮権をも有している。
この、帝臣としては余りに強大な兵力を統率する西畿の司令官職は、人選に人選を重ねた上で任命される。下手な人物を就けて、不遜な野心でも抱かれては敵わないからだ。その点、現職のクライゼルは上には忠実、下には公平、能力も識見も申し分のない名将だった。その彼にして、今回はいい加減腹に据えかねたらしい。要請を伝えた知県の前では噫にも出さなかった不快感を、部下の前では隠そうともしなかった。
「……仰せの通り、ウェストキャピタルの態度は鼻持ちなりません。ですが司令官閣下、ここに考慮すべき事実が存するかと思います」
そんな司令官の感情に同調しつつも、県軍参謀部の首席参謀ゲルト=デア=ブンテは付け加えて言った。
「事実、とは?」
「はい、この要請がグランコートではなく、我がコーベに先に下された、と言う点です」
デア=ブンテの言わんとするところをクライゼルは即座に理解した。グランコートは商都であるとは言え、当然県軍も持っている。中でも最近急速に名を揚げてきた将軍ジャックス=バンブックは“黒面牛”とアダ名され、勇将の誉れが高い。にも関わらず、ウェストキャピタルは隣接するグランコートではなく、コーベに山賊討伐を依頼した。これは、ウェストキャピタルも兵事に関しては“軍都”コーベに重きを置いている事を示していた。
「なるほど、な……」
クライゼルはゆっくりと参謀達の顔を見回した。
その視線を受けて、次席参謀のロジェ=クレトワーズが発言した。
「首席参謀の仰有る通りです。ここは求めに応じて一軍を遣わし、我等が実力を腑抜けた西都の者共に見せ付けてやりましょう!」
威勢の良い進言に同調者の声が続く。
「……では、討伐軍の派遣には皆異論はないな。ならば、次に考えねばならんのは、誰を主将に据えるかだ」
クライゼルはしかし、慎重に言い足した。
「我が軍の力を見せ付けるのであれば、失敗が許されないのは勿論、可及的速やかに討伐を成功させる必要がある。およそ智勇を兼ね備えた将でなければ務まるまい。適任と思える者がいたら推挙して欲しい」
会議の場が一瞬、静まり返った。
コーベの威信を懸けた戦である。万一討伐に失敗した場合、推挙者も責めを負わねばならない事を考えると、滅多な人物は推薦出来ない。それが参謀達の口を重くしていた。
デア=ブンテ、クレトワーズの両名も、互いを見交わしたものの沈黙を続けている。
その時である。末席で一人の男が挙手した。
クライゼルは目敏くその男を指名する。
「ヤンマー、思う人物があるか?」
「はい」
頷いた男は、参謀部に配属されたばかりの若手将校で、名をジョルジュ=ヤンマーと言った。二十代半ばにして参謀部に名を連ねる俊秀である。
「良くこの任を果たす者、それは彼女を措いて他にはないと、小官は思います」
細面に、頬から顎を覆う見事な髯――故に“俊髯公”とアダ名される彼は、自信を持ってそう断言した。
彼女、と聞いて、クライゼルの顔の筋肉が微妙に動いた。デア=ブンテは考え込むような表情を作り、クレトワーズは口元を歪める。
背もたれに上体を預けて、クライゼルは厳めしく口を開いた。
「名を聞こうか」
足音が廊下を渡って響く。
さして大きくもない、しかし正確な律動を刻んでいる。
廊下で雑談に耽っていた若い下士官達。足音に気付くと、慌てて直立不動で敬礼する。
司令官室の前で足音は止まった。
二人の衛兵が敬礼し、扉を開ける。
入口の手前で足音の主――小柄な女性が、手を顔の横に翳した。その手の上で、山吹色の髪が微かに揺れる。
「マリア=イーグ、入ります」
クライゼルは小さく頷いて、彼女に入室を促した。
“神臂娘”のマリア=イーグは、知将勇将が居並ぶコーベにおいて、知勇両面で高い評価を受けている女将軍である。年はまだ二十歳になったばかりだが、軍略においても武芸においても非凡な才能を見せ、やがてはコーベの柱石たらんと目されていた。
「イーグ将軍、これより貴官に重大な任務を与える。心して聞かれるように」
前置きを略して、クライゼルはいきなり本題に入る。
「ハッ、承ります」
「貴官は一軍を率い、ルフトケーニッヒ山を不当に占拠する山賊を排除すべし」
その命令を聞いて、彼女の眉が僅かに動いた。
「ルフトケーニッヒ山? あの地は……」
「そうだ。ウェストキャピタルのシリウス=プラトニーナ、あの反逆者が拠っている賊寨だ」
「存じております。コーエンの軍も敗れたと聞きましたが……」
「そこでウェストキャピタルより正式に依頼が来た。我がコーベに討伐軍の派遣を要請する、とな」
自分の背筋が引き締まるのがマリアには分かった。簡単には考えられない任務である事を肌で感じていた。司令官の最後の一言で、それは確信に変わった。
「コーベの威信に懸けて、速やかに大功を立てられん事を切望する」
「御意に叶いますよう、最善の努力を尽くします」
直立の姿勢で最敬礼し、任務を受諾するマリア。
クライゼルも敬礼を返し、彼女に下がるよう合図する。
小さな礼を残して彼女は、やはり正確な律動の歩調で司令官室を後にした。
マリアが自室に戻ると、二人の男が訪ねて来ていた。
二人はマリアを認めると、さっと礼を施した。
彼女も礼を返して、二人に席を勧める。二人が座ると、彼女は微笑んで言った。
「早いわね。どこで聞きつけてきたのかしら」
“神雷火”のヤン=ヒル=ディーンが唇の端を上げる。
「噂になってるぜ。近々大きな動きがあるらしい、ってな」
「マリアが選ばれるとなれば、相手は余程の難敵だろう。絶対オレ達に声が掛かると思って、用意してきた」
カオス=テンペラス、一名を“大開山”も白い歯を見せて笑った。
「流石ね」
二人を見る彼女の視線は柔和な光を帯びている。
「では、今回も当てにさせて貰っていいのね?」
二人は互いをちらりと見て、唐突に立ち上がると厳めしく言った。
「我等両名、イーグ将軍の麾下に入ります。どうぞ御許可を」
マリアも威儀を正し、
「宜しい、着任を許可します」
三人は顔を見合わせて大笑した。
彼等は士官学校を出てより、常に共に戦場にあった。そして同じ数だけ戦功を立ててきた。ヤンもカオスも、既に一軍を率いるに足る地位と能力を持ちながら、マリアを主将に戦う事を選んでいた。マリアにとっても、二人は全幅の信頼を寄せる両翼であった。
「で、行き先はどこだ?」
意気込んで訊くヤンに、彼女はさらりと答える。
「ルフトケーニッヒ山よ」
二人は一瞬意外そうな顔をし、そして納得の表情になった。
「相手は“白狼将”か……」
「ウェストキャピタルは自力討伐を諦めたんだな?」
「ええ」
頷くマリア。
「『コーベの威信に懸けて、速やかに大功を』……クライゼル司令官のお言葉よ」
ヤンにもカオスにも、司令官の心情が解る。ウェストキャピタルに軽視されてきたコーベが、その実力を内外に示す千載一遇の機会なのだ。意気が静かに高まってくるのを二人は覚えた。
「では、アイジェルを呼ぶ事は出来ないか」
「無理ね。あの子――ダイがいると心強いんだけど」
マリアの弟アイジェル=ダイ=イーグ、一名を“黒尾蠍”は砲術に関して天才的な知識を持ち、創設間もない火砲部隊の専任士官としてウェストキャピタルにある。賊寨を攻めるのに火砲は強力な援軍であるが、今回は立場上も彼に声を掛ける訳には行かなかった。
カオスが唸るような声で言う。
「もう少し早く話が来てりゃ、ワカオーとルクシュアールを呼べたかも知れんのにな」
ヤンもカオスもコーベで五指に入る武勇の士だが、その彼等が自分達と互角に渡り合えると認めるのが、“両牙虎”のワカオー=ルー=タカと“長臂熊”のルクシュアール=フィネックの二人である。しかし二人はコーベの遥か北、北海沿岸の街に最近赴任したばかりだった。
「それは言っても仕方がないわ。彼等以外の人材はいる事だし。ともかく、将の人選はコーベに所属する者を中心に行う事にします。貴方達も、これと思う人物に当たりを付けておいて」
「了解!」
力強く応じて、彼等はマリアの元を辞した。
それから数日が経過した。
この間にもマリア等三人は出征の手続き、部隊の編成、輜重の準備等に時間を費やしている。肝心の部隊指揮官についても、確定ではないが数人の候補が彼等の脳裏で選び出されていた。
そんな或る昼下がりの事。
ヤンとカオスは昼食を摂る為に街に出ていた。将軍府にも食堂はあるのだが、彼等は時折街に出ては、兵士達と共に食事をする。それは兵士達の心理を知ると同時に、街の巡視を兼ねての行動だった。
二人は一軒の店に入ろうとした。その時、
「何だと! もう一ぺん言ってみろ!!」
店内から怒声が響いた。
二人は顔を見合わせて、入口から中の様子を窺う。
ごった返す店内で、一人の男が衆人の注視を集めていた。若い男だ。華奢な体付きと、それに見合う細めの顔立ち。この辺りでは見掛けないその顔が、怒りで朱に染まっている。
若者の周りでは数人が人垣を作っていた。いずれも若者よりは屈強そうな体を誇示している。内の一人が、嘲りを込めて若者に言う。
「何度だって言ってやるさ。お前みたいな生っ白い奴に、このコーベで仕官の口がある訳ねえよ。無駄な事考えずに、さっさと田舎に帰るんだな」
周りからやんやと囃し立てる声が起こる。若者の顔が一層赤みを増した。
「あいつら、またいらん騒ぎを……」
ヤンは舌打ちした。若者を嘲弄する人垣の中に、平生見知った部下の顔を見掛けたからである。止めようと身を乗り出し掛けた。
「そうだぜ。こんなチャラチャラした格好で、軍務が務まるかよ!」
別の一人が若者の頭に巻かれたバンダナ――それは顔の左で結んで垂らしてあった――を掴んだ。
「やめろ!!」
若者が身じろぎする。その拍子に、バンダナが解けた。
露わになった左の顳に、星形のアザが浮かんでいる。
「何だこいつ、こんなもの隠してやがったのか」
「その方が似合うぜ、可愛らしくて」
嘲笑が一段と大きくなった。
次の瞬間、若者の拳がバンダナを奪った男を殴り飛ばした。
不意を突かれ、男は呆気なく伸びてしまった。
「こいつ!!」
一人が後ろから若者を羽交い締めにする。
若者は右足で、背後の男の足を思いっ切り踏み付けた。
「グッ!?」
力が緩んだところで、左の肘を相手の脇腹に叩き込む。
今度は正面の男が殴り掛かってきた。先刻から若者を侮っていた男だ。
男の右拳を躱し、怒りを込めて逆襲の左を打ち込んだ。
来る時を上回る勢いで、男は後方へすっ飛んで行く。仲間に抱き留められて、辛うじて男は倒れるのだけは堪えた。口の端から血が零れる。
「貴様ぁ! 我々に手向かいすると、無事では済まさんぞ!!」
軍威を翳すと、これまで傍観していた客達がわっと立ち上がり、若者を囲む人垣が更に増えた。
皆武官らしく屈強な面持ちで、敵意を剥き出しにして若者を威圧する。
忍耐も限界に達した若者が腰の剣に手を掛けようとした、その時――
「止めんかっ!!」
大音声が轟いた。
兵達は動きを止め、一斉に店の入り口を振り返る。その顔が驚愕に凍り付いた。
「ディ、ディーン将軍! テンペラス将軍!?」
さっと人垣が割れる。その路を、威風を払って歩み寄るヤンとカオス。
「戦場ならいざ知らず、このような場で多勢をもって一人に当たるとは、お前達はそれでも誇り高きコーベの強者か!!」
戦場では味方を奮い立たせる神雷火の大音声も、この状況にあっては彼等を唯々恐れ震わせた。
先刻までの威勢はどこへやら、男達は直立不動の姿勢で、身の置き所もない程硬直している。
一方で、カオスは若者に対した。
「部下の失礼はオレ達が代わって詫びよう。だが、騒ぎの経緯は聞かせて貰わねばならん。オレ達と一緒に来てくれるか」
今は怒りも静まったらしい若者は、大人しく応じる。
こうして、二人は若者を伴い店を出た。




