第二十三話 青娥文士 書を作して神臂娘を欺き 紅冠天女 鵬と化して天翔龍を迎うの事
チィホアはその晩、関係する者達をもう一度集めた。
その場にいたのは彼女とクレヴィア、シャイナ、マクシミリアン、ルクレツィア、それにランダイの六人である。
「集まって貰ったのは、他でもないんだけど……」
そう前置きして、クレヴィアが現状を説明した。
どうやら官軍に目を付けられているらしい事について、一同からは特に声はない。納得か、それとも容忍か。
「官軍にしたら当然の行動なんやろうね。でも、なんか腹立つんよ」
きっぱりと、チィホアが本心を打ち明けた。
「せやから、一ぺん官軍の足元掬うたろ思てんねん」
一同の驚きの視線が彼女に集中する。
「チィホア、まさか……」
「勘違いしたらあかん。うちかて山賊団に味方する気はないから。うちはうちの気分で、連中の足引っ掛けたろと思てるんや。で、みんなはどない?」
理由はどうあれ、お上に弓引くような行為を、恐らく町の者も承知しないだろう。ならば、事はチィホアと意を通じ、信頼出来る者達だけで行わなければならない。それを考えて、この面子にのみ大事を打ち明けたのである。そして、その彼女の判断は間違っていなかった。
即座に応じたのはシャイナである。
「チィホアがやるって言うなら、付き合うよ」
「そうだな、官軍のあの遣り様は私も頷けんな」
マクシミリアンも続く。
「売られた喧嘩なんだから、高く買ったらいいんじゃない? わたしも手を貸すよ」
ランダイは笑って言った。
「チィホアさん、私に手伝えることはないですか?」
これはルクレツィア。
「おおきに、みんな」
下手をすれば一同揃って反逆罪で処断されかねない。それを全く気に懸けない一同の義気に、チィホアは素直に感謝した。
「でも、官軍の足を引っ掛けるって言っても、一体どうするんだい?」
ランダイが疑問を口にする。
「うん、一ついい手があるねん」
チィホアの自信有り気な様子に、一同は固唾を呑んだ。
「うちは知らんねんけどな。クレヴィア、言うて」
「いきなり振るかなぁ……」
話を振られたクレヴィア。
「手ぇあるんやろ?」
ほれ早く言え、と言った風なチィホアの態度に、仕様がない、と肩を一つ竦めて、クレヴィアは説明を始めた。
「チィホアが言った通り、まず私達の基本姿勢は官軍とも対立せず、シュヴァルツとも組まず、よ。で、それじゃあ何をやってやろうかって事なんだけど」
地図を一同の前に広げながらクレヴィアは言を繋げる。
「神臂娘は今回の始末を、コーベの司令部に必ず報告しているでしょう。コーベまで凡そ百五十里、早馬なら半日足らずだけど、何やかやで、司令部からの返書がこの二、三日中に帰って来る筈だわ」
「コーベの司令部は神臂娘に何て言って来るかな?」
マクシミリアンが問う。
「そこまでは流石に判らないんだけど、でもどんな内容でも、この際は全く関係ないの」
「関係ない?」
一同は釈然としない顔だ。
「ええ。だって――その返書の内容がどうであれ、返書がイルリーヴルを通った後には、その内容は神臂娘を呼び返すものになっているから」
眠たそうな目の奥で、知性の光が躍る。
「そっか、久々に“青娥文士”のお手並み拝見、というわけやね」
「“照闇虎”のも、ね」
「あんたもまた大胆な……でも、うちらには似合いの手やね」
「でしょ? 誰か人死にが出る訳でもないし、これなら平和的に神臂娘の足を引っ張れるわ」
「平和的……ね。まぁほな、それで行こか。シャイナもええか?」
「任せてよ」
シャイナも楽し気に答える。
「シャイナにはもう一つやって欲しい事があるの」
「何?」
「返書を入手しなくちゃならないの。きっと街道を一直線に来ると思うから……」
「はいはい。使者を捕まえるんだね」
クレヴィアの意図を、先回りして言うシャイナ。
「そう。それも、そうと判らないように出来るだけ無傷で、ね」
「難しい事をさらっと言うね、クレヴィア」
「出来ない?」
「誰が。ちゃんとやるから、そっちも任せといて」
二人の呼吸はぴたりと合っている。
「それからミノキチ、官軍の情報がもう少し必要なの。特に神臂娘の事、配下の将の事、今回の出兵について、その辺の掘り下げた話が欲しいわ。時間がないから、陣営の噂を拾って来てくれるだけで良いわ」
「解った」
ミノキチ――マクシミリアン=ミノキチ=ムスタシュはぶっきらぼうに応じた。情報が詳しく正確であるほど計略の成功率は高まる、その鍵を彼が握るのだ。と言うより、彼以上にこの役目の適任者はこの場にいるまい。
「チィホアは御大なんだから動かずに、ここで流れが変わるのを待ってて。ツィーアとランダイは、必要に応じてシャイナとミノキチを手伝ってあげてね」
「それも面白ないけど……待っとくわ」
「宜しくね」
こうして、山賊討伐軍の駐留するその御膝下で、神臂娘に一杯食わせる為の準備が着々と進められて行った。
その後、クレヴィアとチィホアは別室のヨシオリ達を訪れ、事情を語った。
「で、お客さんらには悪いんやけど、こんだけ警戒の厳しい時に、ここから山寨へ行ってもらうわけにはいかんのよ。何とか隙見て山に上がれるようにするから、もうちょっと待ったって?」
ヨシオリ達は互いの目を一瞬で見交わした。そして彼女等もチィホアを信頼する事で一致した。
「いいわ」
「事態が変化したら、貴女方にはこの辺の地理をお教えします。敵陣の配置と、使える間道を。官軍に何らかの動きが現われたのを見届けてから、山寨へ上ると良いでしょう」
「ありがとうございます。宜しくお願いしますわ」
チャールが恭しく礼をする。この策によって齎される情勢をシリウスへの手土産に、とクレヴィアが言外に仄めかしたのを、彼女は正しく理解していた。
マクシミリアンは暇さえあれば、連日ドゥムレ川に釣りに出掛けている。殆ど日課と言って良い。
今日も今日とて、土埃色の外套を引っ掛けて、彼は愛用の釣竿片手に町を出る。
官軍の陣営に程近い川縁で釣り糸を垂れても、いつもの事と咎める者は誰もいない。そればかりか、今日の釣果はどうか、と声を掛けてくる兵さえいた。
彼が釣るのは魚ばかりではない。近隣の噂話から世間の風聞まで、巷を流れるありとあらゆる雑話を魚篭に収め、その玉石混淆から価値ある情報を引っ張り出す。その面においても、彼は一級の漁師であった。
彼の耳は陣内の騒めき、出入りの者の囁きも逃さず、その脳裏に刻み付けていった。
一方、シャイナはゼルコーヴァ方面に出て、街道筋を警戒していた。
軍使が通るなら、敵の妨害を気にせずに済むのだから、最も早い大南路の大道を使うだろう。それがクレヴィアの読みだった。
街道に立って二日目、シャイナの耳はふと、日常まず聞く事のない響きを捕らえた。
地面に耳を当てた。大地の向こうより、力強く土を蹴る勇壮な足音が響き、近付いて来る。馬だ。それも相当の早馬、恐らくこれがコーベからの使者だろう。
「シャイナさん!」
ルクレツィアが傍らより呼び掛ける。シャイナが顔を上げると、西に伸びる街道の向こうに騎馬の影が見えた。と、その姿は見る間に大きくなっていく。
「あれだな」
街道をこれほど飛ばすのは、相当重要な急使に間違いない。彼女は狙いを定めた。
「いくよ、ツィーア」
「はい!」
ルクレツィアは唐突に街道に飛び出し、そこにばったりと伏せた。
急使は目の前に飛び出した少女に驚き、慌てて手綱を引き絞る。
馬は既の所で停まった。
危うく惨事を免れた使者が大息を吐いた、その瞬間。
シャイナが横合いから忍び寄る。
ハッと振り向く使者。その視線がシャイナの存在を捉えるかどうかの裡に。
彼女の指がその額に触れた。
次の瞬間、使者は力を失ったように、馬上から崩れ落ちた。
「おっとっと」
シャイナは使者の身体を受け止めると、馬の背に懐かせた。そして荷物を探り、書状を見付け出した。
ざっと一読して、北嫂笑む。
「大当たり。こいつだ」
彼女は自分の懐に書状を仕舞い込むと、
「じゃ、ツィーア、頼むよ」
「はい」
ルクレツィアに馬の手綱を託した――彼女の方が馬の扱いに慣れているからだ。
二人は馬を曳きつつ、街へと帰って行った。
「お疲れ様」
シャイナから首尾を聞き、戦利品を受け取ると、クレヴィアはランダイを伴って自宅に戻った。
書家でもあるクレヴィアの家には種々の紙がある。こちらの仕掛けを見破られないよう細心の注意を払い、紙も出来るだけ似たものにしなければならない。
「これが近いかな?」
「紙質はそうね。色はこっちが近いと思うわ」
書家のクレヴィアと絵師のランダイ、二人の目で厳選された紙を持って、再びシャイナ達の元に戻る。
一同を前に、入手した書状を改めて読んだ。
県軍司令官クライゼルの名で出されたその書状には、官軍兵が山賊に偽装して略奪を働いた件に遺憾の意を示し、部将のカーワンド並びに主将のマリアに訓戒を与えた上で、その後の彼女の措置を是とする事、援軍については然るべき数を揃えて送り出す用意がある旨が記され、今後このような不始末のないようにも、可及的速やかに任務を果たす事を期待する、と結ばれていた。
クレヴィアは書状の司令官の印影を切り取り、シャイナに手渡した。
「これと同じものを、大至急お願い」
「大至急だね、任せて!」
シャイナの彫刻の腕は、町の誰もが知っている。印鑑でも、印面を見てそっくり同じ印鑑を、彼女の腕と愛用の金剛石製の小刀は彫り出すのである。
一方クレヴィアは、チィホアの邸の一室を借りると、誰も入って来ないように念押しして、一人書状を睨み付ける。
書状の文字から筆の運びや筆癖を読み取り、自らのものへと昇華させて行く。
クレヴィアは筆を執り、紙に向かって一気に書き始めた。勿論、こちらの思うように文章を変化させる事も忘れてはいない。
マクシミリアンが集めた情報によると、カーワンドはコーベの将ではなく他県より派遣されたとか。彼の起用に当たって司令官は難色を示したが、マリアが強く推した為、渋々参加を認めたと言う。
この辺りに隙がある、とクレヴィアは考えた。
即ち、カーワンドの起用についての蟠りと懐疑心、そして結果起こった不祥事に対するマリアの責任問題を匂わせる表現に改め、更に新たに軍を派遣した故、両名には即刻帰還して司令部に釈明せよ、との文章を練り上げ、これを余人には判らぬ精緻さで司令官の筆跡そっくりに書き写して見せたのである。
同じ頃、シャイナもまた、傍目に同じとしか思えない印影を持つ司令官印を彫り上げていた。
こうして偽書状を仕上げると、シャイナとルクレツィアは気絶したままの使者と馬を再び街道へ連れ出し、そこへほっぽり出した。
その荷物に偽書状を忍ばせて――
使者が目を覚ました時、辺りは薄暮に近かった。
何をさておき、真っ先に荷物を調べた。書状はある。ほっとして、次に自らの懐を弄る。財布がない――これはクレヴィアの指示で、シャイナが抜け目なく抜き取っていた。さては物取りの仕業か、と怒りを思えたものの、肝心の書状はこれにある、まずは任務を果たすのが先決と思い直し、馬を駆って本陣に向かった。
書状を受け取ったマリア、一読して愕然となる。
「これは――」
彼女とて多少の咎めは覚悟していたが、更迭されるとまでは予想していなかった。
「やはり司令官は、彼の起用に拘っておられるか……」
出陣前、陣容を司令官に報告した際、他県の将を用いる事に司令官が不快感を感じていると、マリアはその気色から察していた。
その優れた洞察力が、却ってこの書状を信用させたのである。
マリアは聡明な将であったが、流石にこの書状が偽物であるとまでは思い至らなかった――自分の恥になると思ったか、“物取り”に遭った事を使者は彼女に伝えていなかったのだ。
内容を知ったヤン、カオスは大いに憤慨した。
「クライゼル司令官ともあろう人が、何故このような無体を申されるか!」
「マリア、こうなれば大攻勢をかけて、援軍が来る前にルフトケーニッヒ山を陥としてしまおう!」
しかしマリアはその意見を容れなかった。
事の起こりは自らの不手際にある。その挽回は言わば私事だ。私事に被害の大きい強攻戦を行って多数の兵を損なうのは許されない。
かと言って、ここで自分が前線を離れてしまっては、山賊に回復の時間を与える事になる。すぐに新たな指揮官が来るにしても、布陣は簡単に変えない方が良い。
「司令官の意には添わぬ事ですが、次の指揮官が来るまで包囲を続けます。各員は敵に動きのない限り、妄りに持ち場を動かぬように」
ここに新たな膠着状態が生まれた。
「やれやれ、流石は神臂娘やね。『早よ帰って来い』言うてるのに、全然動こうとせえへん」
偽書状を送ってから数日、官軍の動きは鈍いを通り越して不動の構えである。
「でも、仕掛けを行う事もなくなったわ。あれは受け身の姿勢よ」
クレヴィアは、偽書によって官軍が自縄自縛に陥ったと見ていた。撤退させる目論見は外れたが、これは十分に狙い目と言えた。
「そろそろ、お客さん達を山に送っても良い頃ね」
「そやね。ほな、シリウスに会うてこよか」
その夜、チィホアはランダイと共に、ヨシオリ達を連れて間道からルフトケーニッヒ山へ上って行った。
官軍の斥候も、全ての間道を知っている訳ではない。まして司令部からの書状が着いて以来、どことなく士気の低下が見られる。その隙を衝くのは訳無い事だった。
いきなり現われたヨシオリ達の姿に、シリウスの驚きは如何ばかりか。
「ヨシオリ、デュクレイン、アリーナ! よく戻って来てくれた!」
「ただいま、シリウス。大変なことになってるわね」
「あぁ、だが君たちが戻って来てくれて心強い。シャオローンは?」
「兄さんは、北島に行ってるわ」
「北島? ファーノース島か!?」
また驚かされるシリウスだった。ヨシオリは前後の事情を話しつつ、連れて来た二人を紹介した。
「これは……ようこそ」
例に漏れずシリウスも、他の者達も、ジョイと就中チャールの容貌には一瞬言葉を失う事となる。
気を取り直して、シリウスはチィホアに話し掛けた。
「先日来、官軍の動きが鈍っているのは、貴女方の仕業ですか?」
チィホアは平然と答える。
「まぁ、ね。でも、これはうちの都合で、あんたらの為とちゃうから、その辺は弁えとって」
「解りました。ただ、ヨシオリ達を山に連れて来てくれた事は御礼申し上げます」
シリウスは彼女の意を汲み取り、それで引き下がった。
「ほな」
そう言ってチィホア達は山を下りて行った。
彼は話す相手をヨシオリに切り換える。
「ヨシオリ達が帰って来たのは有難いが、やはり神臂娘相手にはもう二、三枚駒が欲しい。何とかシャオローンを呼び戻したいが……手はないか、ヨシオリ?」
これにはヨシオリも首を捻ったが、良い知恵は出ない。そこへ、慎ましやかな声が掛かる。
「北島の地図がありましたら、お見せ戴けませんか?」
銀髪の美女、チャールだった。
「地図なら、ここに」
シリウスが示したのは、彼が官軍にいた頃に用いていたヤパーナの地図である。正確さは折り紙付きだ。
チャールは地図を借り受けると、ジョイと一緒に確認を始めた。
「……シャオローン達は、リンネと言う人を訪ねてシルキュール山に向かうと言っていたわ。シルキュール山はここね。一方、私達のいるルフトケーニッヒ山はここ。どう?」
「……この向きでこの距離ね……多分何とか。わかんなくなったら、チャールが助けてくれるでしょ?」
「あらあら」
優美に微笑むチャール。
そしてシリウスに対しては、こう言ったのである。
「私達が彼を探しに行き、こちらに連れて来ますわ」
「それは良いが、北島まで往復するとなればかなりの日数が掛かるのでは?」
「御心配なく、二日で帰って来られると思います」
「二日!?」
一同は耳を疑った。数千里の彼方に赴いて帰る、その日数として、とても尋常な数字ではない。
シリウスはチャールをじっと見た。彼女が虚妄や詐言を弄しているのではない事は判る。ならば、彼女に任せてみるべきではないか。
この時、彼には或る一つの予測があった。それが正しければ――確かに彼女達には可能であろう。
「では、宜しくお願いします。一刻も早く、彼を連れ戻して下さい」
「微力を尽くしますわ。すぐに発ちます。それからヨシオリ、一緒に来てくれますか?」
勿論、彼女に否やのあろう筈がない。
三人とシリウス、すぐに場を裏山に移した。
「シャオローンが目的地に留まってくれていると良いのだが……」
シリウスが懸念を口にする。
「もし見付からなければ、可能な限り手を尽くして調べます。相手は山賊との事、いざと言う時はヨシオリを頼りにしますわ」
「任せて!」
チャールの言葉は冗談とも本気とも付かなかったが、ヨシオリは本気に取ったらしかった。一頻り笑い声が暗夜に溶ける。
「それではそろそろ行きましょうか。ジョイ?」
チャールが促すと、ジョイは頷いて皆から少し離れた。
満点の星の下、ジョイは夜天に右手を挙げる。
「マティ・リ・アーナ!」
突如、彼女の身体が赤い光を放った。
光が爆発的に拡がり、そして巨大な姿を形作る。
鷹か鷲とも見える姿形。しかしその寸は非常に大きい。真紅の翼は差し渡し数丈はあるだろうか。
伝説の鳥、鵬。それがシリウス達の目の前にいた。
逆立った冠毛は燃え盛る炎の如く一段と赤く、榛色の巨きな目は夜空を映したように穏やかである。
「ジョイ……」
ヨシオリは知らず呟いていた。その声は、遠い記憶を揺すぶられているような響きに聞こえる。そんな彼女を、微かに笑みを浮かべながらチャールが色の異なる両目で見ていた。そしてシリウスも――。
鵬は翼を畳み身を伏せて、二人に背に乗れと促す。二人は迷わずその広い背に乗った。
「それじゃシリウス、行って来るわ!」
地上に残るシリウスにヨシオリが手を振った。
「いいわ、ジョイ」
チャールが鵬の背を叩く。
鵬が翼を伸ばし、大地を力強く蹴る。
巨躯が宙に飛び出す。
雄大な羽搏きと共に、鵬は夜の空に溶けて、見えなくなった。
「“刻”到る――か」
一人見送ったシリウス、内心で思いを強くしていた。漸く集い出した星々、今ここで散り散りにする訳には行かない、と。
「ヨシオリ、チャール、ジョイ――頼んだぞ!」
ひたすらの闇の中を、鵬はヨシオリとチャールを背に一直線に飛んで行く。
見えるのは空を飾る無数の星ばかり。その星々を道標に、彼女達は真っ直ぐに北島を目指す。
途上、チャールがヨシオリに語った。
鵬の名はジョイ。かつては魔軍の第二空戦師団で空戦隊長を務めていた剛の者で、ジョイ=ユーフェミアの身体を借りてこの地に転生した、と。
「ヨシオリ、貴女には何の話かよくお解りでしょうね」
そう、彼女は知っていた。心の奥底に刻み込まれている記憶で――。
やがて、夜が明けた。周りが見えるほど明るくなって初めてヨシオリは自分達が海の上を飛んでいる事を知った。
遥か前方の水平線に陸地の影が現われる。
「あれがファーノース島ね」
チャールの脳裏には、ヤパーナの地形図が狂いなく仕舞い込まれている。
〈ジョイ、出来るだけ人目に付かないように飛んで〉
魔界の言葉で語るチャール。それに反応して、ジョイは大きく高度を上げた。
ファーノース島の上空に差し掛かる。眼下には木々の緑、大地の茶、水の青が織り成す風景画が広がっている。ヨシオリは初めて見る点景を、ひたすら眺めるばかりであった。チャールは記憶する地図と目の前の地形を照らし合わせている。
〈あの辺りの山がきっとそうだわ。ジョイ、そろそろ高度を下げて〉
大地がぐっと近付いて来る。
〈そのまま……あの山の上をなるべくゆっくり飛んで〉
チャールは地上を注視し始めた。ヨシオリも高度が下がった事で目的地が近いと感じたか、彼女に倣って下を見る。
もとより、チャールはシリウスに請け合ったほど簡単にはシャオローンを見付けられると思っていない。こちらが姿を現わす事で、噂が彼の耳に入り、こちらの前に飛び出してくれる方に寧ろ期待していた。
〈やはり見付からないわね。ジョイ、今の山の上をもう一度お願い……〉
「アッ!!」
短い、しかし強いヨシオリの叫び。
チャールは一目彼女を見ると、
〈ジョイ!〉
鵬は大きく旋回し、今通った道筋を再び辿る。
今度はチャールも目を凝らして見た。
「ほら、あそこ!」
ヨシオリの指差す所、ぽっかりと木々の緑の切れた空間に、チャールにも確かに二人の人影が見えた。しかし通過するのは一瞬、特徴はおろか概容すら判る筈もない。だが、チャールはヨシオリの直感を信じた。
〈ジョイ、今の場所だわ。出来るだけ近くに降りて〉
その難しい要請に、ジョイは応えた。
大地に降り、翼を伏せると二人はすぐさま背から降りた。直後、鵬の姿は消え、見慣れた赤毛の天使が微笑みを湛えてそこに立っていた。
ヨシオリが走り出した。二人がそれを追う。
下草を踏み分け、木漏れ日の下を走り抜ける。
不意に緑の蔭が消え、視界が開けた。
二人の男女が立っていた。共に黒髪が長い。女性はサングラスに赤い唇、黒を基調にした服に豹柄の布を胸と腰に巻き、風貌凛たるものがある。そして男性は……
「兄さん!」
穏やかだが強い眼差し、微かな笑みを絶やさない口元、やや細身の身体にしなやかな熟し。関中で別れてからまだ半月余りだ。なのにこれほど懐かしいのは何故だろう。
ヨシオリの顔が感情に歪んだ。
「そうか……マリアが来たのか」
ヨシオリから一部始終を聞いたシャオローンは、腕組みして考え込んだ。
「彼女が相手では、シリウスも苦戦を免れないだろう」
「兄さん、神臂娘を知ってるの?」
「ああ、よく知っている。だが話は後だ」
経緯を知ったからには安穏としてはおれない。一刻も早くルフトケーニッヒ山に戻らなくては。
「リンネ殿、かくなる事情ですぐにも発たねばならなくなりましたが……」
「あたしはいつでもいいって言ったろ? 後はアオイが来たら……」
「お待たせ、姉さん!」
アオイが駆けて来た。大きな鞄を引き摺るようにして。
「何だいアオイ、その荷物は……」
呆れるリンネ。
「だって、色々持って行きたいものがあったから。服とか小物とか……」
「そんなもの、向こうにだってあるだろうに」
「でも……」
その中にはリンネから貰った、彼女にとっての思い出の品もあるのだ。戸惑ったような表情を見せるアオイ。
しかしリンネもそれ以上は触れず、さっとシャオローンを見た。
「さ、これで本当にいつでも行けるよ」
「リンネ殿、相手は官軍、それもかなりの傑物です。それでも宜しいのですね?」
「シャオローン。あんた、あたしを誰だと思ってるんだい」
遮光鏡の奥から物騒な眼光が投げ付けられる。
彼は小さく頭を下げた。
「……強いったって、ヴァルトローテほどのことはないだろうさ」
リトルバレルの方向を振り返る。呟きは誰の耳にも届かなかった。
既に一同の志に揺らぎはない。シャオローンは意を決した。
「では、急ぎ関西に飛びましょう」
「飛ぶって、シャオローン……?」
「……ここなら、この姿を見せても良いでしょう」
シャオローンは一同と距離を取り、瞑して何事か念じ始めた。
一天俄かに黒雲が沸き起こり、青空を暗く閉ざす。
禍々しい気が辺りに満ち満ちる。
「シャオローンッ!!」
目をカッと開き、両手で龍の顔の如き印を作る。
その瞬間、彼の背より中天へ、一条の光が黒気を伴って上っていく。光と黒気は中天で爆発的な閃光と化し、そして消え失せた。
その中より現われ出たるは、四本の角と赤い炯光を放つ目を持ち、全身を緑鱗で覆われた前足のない巨大な龍――翼龍。
翼龍はゆっくりと大地に降りると、その巨体と翼とを地に伏せ、長い首を地上の五人の方に向けた。
その赤い目が、リンネの黒い瞳と搗ち合う。
「やっぱりあんただったかい、シャオローン……」
彼女は口中で呟き、ヨシオリ達を見た。この変身を目の当たりにして平静を保っていられると言う事は……。
「あんた達も?」
頷きが返される。ヨシオリにしても変身した義兄の姿を見るのは初めてだったが、同じ星宿を持つ者としてその正体は察していた。
「ジョイ」
チャールがジョイを促した。
「マティ・リ・アーナ!」
光と共に、彼女は再び鵬へと姿を変える。
〈久しいな、ジョイ〉
翼龍が吠えた。
〈シャオローン様も、お変わりなく〉
翼龍のシャオローンと鵬のジョイ、かつては共に第二空戦師団に属した仲である。二頭は顔を見合わせて笑い合った――ように見えた。
ヨシオリとチャールが心得たように、ジョイの背に居場所を置く。
それを見てリンネはシャオローンに近寄り、鱗を手掛かりに攀じ上った。背の居心地を確かめて、地上のアオイに手を伸ばす。
「さ、アオイ」
アオイは一瞬躊躇ったが、手にした鞄を勢いよく放り捨てた。鞄は地面で跳ね、大きく口を開く。
その時既に、アオイはリンネの手を借りて、翼龍シャオローンの背の上にあった。
〈いざ!〉
大地を蹴り、シャオローンとジョイが大きな羽搏きと共に天空へ飛び出した。
沸き起こる風が、アオイの鞄の中にあった衣服を空へ巻き上げる。色取り取りの布が風に舞い、彼等の旅立ちを見送っていた。
シルキュール山を飛び立ち、二頭と四人は北島の北海岸から海に出た。そのまま海岸線をなぞるように高空を飛ぶ。
岬の先端で二頭は大きく旋回し、南西を指して真っ直ぐ北海に飛び出した。目指す関西ルフトケーニッヒ山はここから数千里。
〈ジョイよ、目的の地までどのぐらい掛かるか?〉
彼女の後ろを飛ぶシャオローンが尋ねた。
〈行きは半日掛からなかったから、夜には着ける筈よ〉
〈そうか。ではこの夜の裡に着けば良いだろう。少し翼を緩めてくれ。そなたの翼に付いて行くのは私には些か骨が折れる〉
〈あらあら、元第二空戦師団の竜騎兵隊長ともあろう方が、どうしちゃったのかしら?〉
ジョイは口先で笑った。無論戯れである。本気を出せば鵬の翼に翼龍が敵うべくもない。
《関西に“星”が集まりつつある……どうやら本当のようだね》
不意に、シャオローンの脳裏に何者かの意識が飛び込んできた。
しかし彼はその正体を知っている。
《そなたもその一人であろう……ティン・ティカ》
己が背に乗る女性に呼び掛けた。
リンネ――ティン・ティカの目は既に妖しく赤く輝いている。
《やっぱり気付いてたかい》
《人熊を一撃で倒せる程の剛の者はそう多くはない。ましてあの技を使える者は、そなた以外におるまい》
ティン・ティカの勇名は陸、空を問わず魔軍中に轟いていた。位は隊長格と同格だが、シャオローンも当然の如く彼女には一目も二目も置いている。
その称賛には、しかし彼女は一言も触れず、只こう口にした。
《そして、あんたも来た……“刻”だね》
《うむ》
《“星”が揃うか、魔王が現われるか、どっちが先か知らないけど、どのみち待ってるのはこれさ》
拳を握り締める。
《一つ、派手にやらせてもらうよ》
《相変わらずだな》
頼もしい限りだ、と付け加えて、シャオローンは笑った。ティン・ティカもそれに応じる。両者の笑いに凄惨な成分が含まれているのは、向後の阿鼻叫喚を予感しての事であろうか。
鵬と翼龍は翼を揃えて、傾き掛けた赤い陽光の中を一直線に飛び去って行った。
こうして、北より強者が関西に向かい、西畿の要所に役者が勢揃いする事に相成るのであるが、果たして白狼将や女豹将、天翔龍、はたまた神臂娘が如何なる立ち回りを見せてくれるのか? それは次回で。




