第二十話 撲殺虎 義に由りて苦役を脱し 女豹将 威を揚げて官軍を破るの事
「官軍があたしの不在を知っている。山寨が危ない!」
アッバースの街でゴルドウッドと合流するや、リンネはかねて用意の馬ですぐにシルキュール山へ帰ると言い出した。
今頃、首領を欠く山寨を官軍が取り囲んでいるであろう事をリンネは確信していた。ぎり、と奥歯を噛み締める。
――それを聞いて驚く一同。
「しかし姉さん、何もそんなに慌てなくても、確かな情報を待っても良いんじゃないかね?」
「それじゃあ遅いね」
ゴルドウッドの言を、リンネは一語に否定する。
「戦なんてのは、さっと始めてさっと終わらせるもんだ。あたしのいない隙に山寨を掠めようとするせこい連中なんざ、あたしの姿を見ればすぐに退却するさ。それでごたごたは終わり。長引かせて、手下共の手を掛けさせたくないからね」
「リンネ殿、せめてあと一日こちらにいて頂けませんか。父からも、妹を救って貰った御礼を申したいと……」
今度はカールが懇願した。が、リンネはあっさりと手を振る。
「あたしには、お上からいただくようなものは何もないよ。あるんなら、アントニオやリム達にやっておくれ」
リンネが顔の向きを変えると、彼女達と目が合った。
「悪いけど先に行くから、後から山の方へ来ておくれ。話は向こうでゆっくり聞かせてもらうよ」
「御武運を」
「任せな」
シャオローンの言葉に、彼女は片手を上げて応える。
「リンネ……」
アントニオの表情には、苦い色があった。そんな彼の心情を理解しながら、リンネは敢えて笑ってみせる。
「じゃ、またな」
短い辞去の言葉を残して、リンネとアオイは馬を飛ばして駆け去って行った。
その背姿をアントニオはじっと見送っていた。街道の向こうに、見えなくなるまで
アントニオの内心は激しく乱れていた。リンネが山寨を離れたのは、アントニオの求めに応じたからである。今、その所為で彼女の山寨が危ないと言うのに、自分にはやるべき事があるのではないか――!
知らず、拳が強く握り締められる。
「アントニオ殿……?」
カールに呼び掛けられて、ゆっくりと振り返るアントニオ、
「カール……許せ!!」
「!?」
次の瞬間、彼の拳はカールの鳩尾を的確に捉えていた。一声を発する間もなく、カールはその場に崩れ落ちる。
悲鳴を上げるテレーゼ。
「アントニオ様、何をなさいます!?」
「テレーゼ、父君や兄君のご恩に背いて申し訳ないが、おれにはリンネの危難を黙って見過ごすことはできない。どうしても、行かねばならないんだ」
「アントニオ様……」
テレーゼには理解し難かった。如何に恩義ある人物とは言え山賊ではないか。それを助ける為に官軍に刃向かう事も自らが罪を被る事も辞さぬと言うのか。しかし、自分には彼を到底押し止める事が出来ないと彼女も悟っていた。
シャオローンは意を強くした。アントニオの心の内には何の飾りも衒いもない。義を守る事に命を懸ける、その一心しかない。噂通りの義人だ、と――
彼は他の三人と顔を見合わせた。皆大差ない思いを抱いていたらしい。強く頷き合う。
「ゴルドウッド殿、カール殿を宜しく頼みます」
「引き受けよう」
次いでシャオローンは、アントニオに呪符を差し出した。
「アントニオ殿、これを」
「それは?」
「これがあれば、リンネ殿に追い付けます」
「……ありがたい」
アントニオは躊躇わず、呪符を受け取った。そしてリムやライラがするように、自分の両足首に呪符を括り付ける。
「テレーゼ、カールが目を覚ましたら、よく詫びておいてくれ」
「……」
テレーゼは応えられなかった。アントニオもそれ以上は何も言わず、シャオローン達に向けて小さく頷く。
「神足天行!」
ライラの声と共に、四人は飛ぶように駆けり去り、すぐに見えなくなった。
「……あの方達は、一体……」
問い掛けるようなテレーゼの呟き。
「ああ言う漢達はな、心の中に絶対動かせぬ柱石を持っておるものじゃよ。余人には解らぬともな、お嬢さん」
ゴルドウッドの口調は優しいものだった。
リンネとアオイは街道を西の方――シルキュール山へ向けて急進する。
既に日は落ち、辺りは刻一刻と闇が深くなっていたが委細構わず、満月の月明かりを頼りに馬に鞭打って直走りに駆けていた。
全速力の疾駆に揺れる馬上で、リンネはヴァルトローテの事を考えていた。
これまで、彼女とは幾度も相対した事がある。その気になれば配下総掛かりで自分を捕らえる事も出来たろうに、彼女は敢えてそれをしなかった。のみならず、その絶好の機会を自ら放棄してその場を去った。前後の経緯を悟った上で自分達を見逃した彼女の本心は、リンネには明白だった。
“正々堂々、貴女を捕らえるのは私よ。忘れないで”
風に乗って彼女の声が聞こえる――気がする。
「大きな借りになったね……いつかきっちり返してやるよ。このあたしの腕で、倍にしてね!!」
リンネの顔に微笑みが浮かぶ。それは、隣を疾駆するアオイが思わずぞくっとするような、凄惨な微笑だった。
間もなくノルトゼーンの街に差し掛かろうと言う所で、二人は漸く馬の足を緩めた。アッバースより駆け詰めで来たが、そろそろ今夜の宿も考えなければならない。
アオイの耳が、微かな音を捕らえた。
聞き慣れた音に似ている。そう、弦音のような……何かが風を切って、近付いて来る……音の来る方を見た。
視界に小さな銀の光が映った。光は真っ直ぐに飛んで来る、その先には――
「リンネ姉さん!?」
叫ぶより早く、その手は弓を構え、矢を放つ。
リンネの目前で、アオイの矢が銀光を弾き飛ばした。
慌てて馬を止めるリンネ。何があったのかは瞬時に察しが付いた。
「ありがと、アオイ」
短く礼を言うと、リンネは馬を下り、銀光の落ちた辺りの地面に目を凝らす。
月の光が照らし出した物を、彼女は拾い上げた。
短い弩の矢だった。
飛んで来た闇に向かい、声を上げる。
「そこのお前、出て来な。隠れててもムダだよ。アオイの弓は狙いを外さないからね」
アオイは満を持して、闇に狙いを定めている。
その狙点の先にある大木の陰から、人影が現われた。
男である。長髪痩身、月明かりの下である事を差し引いても青白い顔。見覚えがあった。
「あんた……オストヌイとか言ったっけ」
ジーゲンの下で彼に知恵を付けていた、革世師のヨセフ=オストヌイだった。
「あの状況で、よく逃げられたわね」
「貴女と同じだ、女豹将」
「それで、あの蛇野郎の仇を討ちに来たのかい?」
オストヌイは苦笑して、手にした弩を叢に放り捨てた。
「あのような粗忽な男、所詮は頭の器ではない。そんな小人の弔いにわざわざ手を汚すほど、私は暇ではない」
「あんた、人を見る目はあるわね」
辛辣な事を言うリンネ。
「……だが、この地上に騒擾を招き、世を革めるのが我が宿願。それを第一歩から躓かせてくれた貴女には相応の報いを与え、この屈辱を雪がねばならぬ」
リンネの端整な眉がピク、と跳ねる。
「それであたしを待ち構えていたのか?」
「そう。今夜はお誂え向きの満月だからな」
「お誂え向き?」
その言葉の意味をリンネが確認しようとした時。
オストヌイの体が、内から盛り上がるように見えた。
目の錯覚か、と思った次の瞬間、彼の衣服が千切れ飛ぶ。
その場にある者は、最早オストヌイではなかった。
剛毛に覆われた巨躯、丸く大きな顔に敵意を漲らせた強烈な眼光、太い剛腕、鋭い爪牙――
熊だった。いや、二本足で立ち上がったその造作はむしろ人間に近い。
“人熊!!”
それは獣人族の一種で、人間と熊の中間のような姿をしている。人間はおろか熊以上の腕力と俊敏さ、さらに高い再生力を持つ。その能力と獣性は月の満ち欠けに左右され、満月の夜の獣人は魔力を持つ武器でないと傷を付ける事すら敵わないと言われる。
人熊は一声猛り吠えると、傍らの大木を剛腕の一撃で圧し折った。
木の倒れる轟音が轟く中、人熊は悠然とリンネ達に躙り寄る。
「満月の夜はわが力が最大となるとき。きさまらひ弱な人間など、この手で引き裂いてくれる!」
人間の声を出すのに向かない声帯で無理矢理喋ったようなくぐもった声で、熊が吠える。
しかしリンネは動じなかった。片手でアオイを制し、人熊に向かって叫ぶ。
「粋がるんじゃないよ、オズロー!」
人熊が、動きを止めた。
「……き、きさま! なぜその名を!?」
「満月で最強になるのは、あんただけじゃないんだよ」
「な、なに!? まさか……!!」
リンネが八角棒を振った。舞うようなその軌跡に従って、地面に五芒星と円が光によって描かれる。
その中心で、彼女は棒を水平に保った。円接五芒から光が屹立し、長い黒髪が波打つ。
「フォルム・ジェネテイション!!」
言葉と共に、八角棒を縦にする。
棒から垂直の光が走り、リンネの体を貫き、二つに分ける。
光の内から、漆黒の獣が現われ出た。
直立した姿形、その顔立ちも人間の女性と大きくは変わらないが、全身は黒い毛皮に覆われ、頭部には立った三角の耳がある。紅い口元からは牙が覗き、手足の爪も赤く長い。
人熊の目が、驚きに見開かれる。
「ティ……ティン・ティカ!?」
かつての魔軍第一陸戦師団獣人兵隊長であり、百数十年前に地上に逃れた魔煞の一星である人豹の名だった。
〈オズロー、あんたも地上に来ていたのかい〉
〈そうとも。魔王様来臨の先触れとして地界に混乱をもたらせと、ザイン様が特におれを遣わしたのよ〉
〈ザインにしちゃ、珍しい眼鏡違いだね〉
ティン・ティカの嘲りに、人熊――オズローは目を剥いて怒る。
〈何をぅ!?〉
〈止めときな。あたしの力は知ってるだろ?〉
指を突き付けられ、一瞬躊躇するオズロー。しかし、
〈黙れ! あの頃はいざ知らず、地上にのうのうと暮らし、腑抜けたきさまに今のおれが負けるはずがない!!〉
オズローの右掌が信じ難い早さで伸び、ティン・ティカを襲う。
しかしその掌は空を切った。
ティン・ティカの姿は、遥か後方に飛び退いている。
〈なら、どれだけ腕を上げたか見てやろうじゃない〉
中指を立てて挑発するティン・ティカ。
〈うぬっ!!〉
怒り心頭に発し、オズローは左右の剛腕を振るってティン・ティカに挑み掛かった。
そのことごとくをティン・ティカが躱す。その素早い動き、高い敏捷性に、オズローは致命の一撃を与える事はおろか、捕らえる事も出来ない。
度重なる空撃に、オズローはいつしか肩で大息を吐くほどに消耗していた。
〈さっきの高言はどうしたんだい、オズロー?〉
〈黙れ……この……ちょこまかと逃げ回りおって……〉
この言に、ティン・ティカの眼が妖しく煌めく。
〈そうかい。じゃあ、こっちから行ってやるよ!〉
ティン・ティカが自ら距離を詰めた。
オズローの左右の掌が、ティン・ティカに迫る。
〈ぐわっ!?〉
悲鳴を上げたのは、オズローの方だった。両手で押さえた顔の右半面が、赤く染まっている。
その背後に軽やかに着地するティン・ティカ。
オズローが左右の掌を繰り出す時に生じる時間差、その僅かな隙を潜り抜け、ティン・ティカは鋭い爪で彼の右目を抉ったのだ。
〈どうだい? これでもあたしが腑抜けたと思う?〉
〈き、きさま……よくも!!〉
失った片目の怒りを我武者羅に叩き付けるように、ティン・ティカに襲い掛かるオズロー。しかし、彼女はあくまで不敵である。
〈バカは死ななきゃ治らない、か……それなら、あたしがそのバカを治してやるよ〉
〈うぉぉーっ!!〉
オズロー渾身の一撃。
しかし、手応えはない。
ティン・ティカの姿は、眼前の中空にあった。
彼女の振り上げた右手に、電光が集まっている。
〈安心してくたばりな! パンテル・ハーケン!!〉
パンテル・ハーケン――電光を纏った爪撃が、オズローの頭上に炸裂した。彼女の右手より放たれた五条の電撃が、オズローの全身を乱打する。
〈ぐぎゃぁーっ!!……〉
断末魔の悲鳴と共に、オズローは焼け焦げた巨体を大地に横たえた。
轟音、そして土埃。その後はピクリとも動かなかった。
……一陣の風が吹き抜け、凄絶な死闘の空気を運び去り、再び夜の静寂を齎す。
ティン・ティカは静かに、かつては同志だった者の亡骸を見下ろしていた。
《ザインが手を打ち始めたか……ハイヴォリアの襲来は、そう遠い話じゃなさそうだね》
百と数十年前、魔界より地界へと罷り越したのは、三界を呑み込まんとする魔王ハイヴォリアの野望を挫く、その宿星の導きの為だった。それが今にも……
「……リンネ姉さん」
構えた弓を漸く下ろして、アオイが呼び掛ける。
振り返った時、彼女は既にリンネの姿を取り戻していた。
妹分に、短く告げる。
「アオイ……“刻”は近いよ」
「うん」
認識を共有するのに、二人の間ではそれで十分だった。
しかし今は、火急にやらねばならない事がある。
「とんだ道草を食ったね。先を急ごうか」
二人が再び馬上に身を戻し掛けた時、
「リンネ!」
聞く筈のない声が耳に飛び込んで来た。
振り向いたその眼は、いる筈のない人影を捉えていた。
驚きの余り、声が喉に引っ掛かって言葉にならない。
「あんたら……」
やっとそれだけを絞り出した。
アントニオ、リム、ライラ、シャオローンの四人の姿が、そこにあった。
「……何でこんな所にいるんだ?」
「ライラ殿は珍しい術を知っていてな、飛ぶような速さで大地を駆けることができる。それでようやく今追い付けたのだ」
「そういうことじゃなくて!」
けろりと言うアントニオに、リンネは声を荒らげる。
「アントニオ、あんた自分が何やってるか分かってるのか? こんな所まで来ちまったら、誰がどう見ても『脱走』だよ! せっかく長官の覚えもめでたく、減刑も望めるってのに、何てことしてるんだ!」
「だが、自分一人のうのうとしていたのでは、おれの義が立たんのだ。義を忘れるくらいなら、おれは命などいらん」
「アントニオ……」
「リンネ、今度はおれに手伝わせてくれ。なぁに、武官の数十人なら、素手で捻ってやるぜ」
「……バカか、あんたは」
アントニオがアッバースの苦役場に流される事となった罪状は、エインシァンキャピタルで武官三十数名を殴殺した一件だった。だがその時は、殺された武官の側に非があり、また武官側は全員帯剣していたがアントニオは素手だった事も勘案され、罪一等を減じられて流罪となったのである。
だが、今回は違う。相手にするのは「山賊討伐」に来る官軍である。反抗は勿論、不服従の様子を見せただけで罪に問われかねない。だが、それでも構わない、とアントニオは不敵に笑っているのだ。
「……あんたみたいなバカは、生まれて初めて見たよ」
あらぬ方を向いたリンネの声が、少し潤んで聞こえる。
「バカで結構。おれのような単純者は、利口になぞふるまえん」
「勝手にしろ」
「ではリンネ殿、これを」
シャオローンはそれまで身に付けていた呪符を外し、リンネに差し出した。
「一昼夜あれば、シルキュール山に戻れます」
「……恩に着るよ」
リンネは呪符を受け取り、三人と同じように足に着ける。
この間シャオローンは辺りを見回していたが、その視線が黒焦げの熊の死体で止まった。
「あの熊は、貴女が?」
「ああ。オストヌイの成れの果てさ」
オストヌイの正体が人熊と知って四人は驚いた。シャオローンが死体に近付き、傷口を検分する。
“これは――”
一方、リンネは準備を終え、アオイを呼んでいた。
「あたしはアントニオ達と先に行くから、シャオローンを案内して後からおいで。急ぐ必要はないから」
「ええ、姉さん。気を付けて」
親指を立て、妹分に応える。
「いいよ、ライラ。やっとくれ」
リンネが促し、ライラは頷いた。
「では、行きますわ――!」
風を巻いて、四人の姿は闇の奥に溶けていった。
一行を見送って後、アオイが言う。
「アタシ達も急ぎましょう、シャオローン」
「アオイ、貴女方は……」
「エッ?」
シャオローンは、口にし掛けた問いを飲み込んだ。
「いえ……そうですね、急ぎましょう」
「?」
怪訝そうな顔をしながら、アオイはシャオローンと轡を並べて歩み出した。
リンネ不在のシルキュール山を守る、副頭のユーゲンとグロブナーは軽い焦慮に襲われていた。
もう何日になるだろうか、官軍によってシルキュール山は鉄桶の如く包囲されている。しかし山にはまだ、山賊団の健在を示す旗が盛大に掲げられていた。
「連中、妙に強気だな。これは、姉さんがいないことを知られていると見るべきだろうな」
グロブナーが言えば、ユーゲンも応じる。
「逆に言えば、姉さんが戻って来さえすれば奴等は間違いなく浮き足立つ。戦況は逆転できる筈だ」
この見通しがあればこそ、彼は迎撃策を捨てて持久策を採ったのだ。乾坤一擲の賭けだった。
「姉さんは必ず間に合う……!」
それが二人の、そして山寨の最大にして最後の希望、と言うよりは最早信念だった。が、その人はまだ帰って来ない
その時、彼等の耳に外の喧騒が届いた。
「どうした!」
飛び出した二人の前に、手下達の驚喜の渦に包まれたリンネ――待ち焦がれていたその人の姿があった。
ユーゲンは、自分が賭けに勝った事を確信していた。
「姉さん! よくぞご無事で!」
「よくやったよ、リチャード、アンディ」
リンネの短い労いは、彼等にとって最上の賛辞だった。
「明日はあたしが出る。後はあたしに任せな!」
山寨が喊声に包まれた。
早暁、朝靄の中で官軍は勢揃いを果たしていた。
これより何度目かの攻撃に入る構えである。
だが突如、山寨の山門が開き、山賊団が討って出て来た。これまでどれほど攻め立てても、また挑発しても見られなかった光景である。
遂に山賊共、破れかぶれになったか。そう思い、待ち構えて一挙に殲滅せんと官軍が動き始める。
その動きが、凍り付いた。
山賊団の先頭に立つ将。
黒を基調の衣装に豹革を纏い、流れる黒髪に紅い唇、美しくも雄々しい女将軍――。
「に、女豹将!?」
驚愕が全軍に伝わる。
黒の女将は官軍の軍列に真一文字に切り込み、恐ろしい勢いで軍兵を薙ぎ払い蹴散らしていく。
「バカな! 女豹将がここにいる筈がない!!」
部将達は動揺を鎮めんと声を張り上げた。軍勢がリンネを押し包むように動き出す。
「そうは行くか!!」
その動きに先んじてユーゲン、グロブナーの手勢が左右から飛び出し、包囲網を牽制する。
その人海の中に巨躯を躍り込ませる偉丈夫がいた。アントニオだ。
素手の彼は、文字通り官兵を千切っては投げ、千切っては投げして寄せ付けない。豪快な戦い振りである。
「客人は黙って見物してろって言わなかったか!」
「体がなまっていかん。少し運動させてもらうぞ!」
呆れたようにリンネが声を掛けるが、アントニオはどこ吹く風、と言った風情で闘いに身を躍らせている。
「……ええい、何をしておる! あの女豹将は偽物だ! ようし、このチャン=ダーレンが女豹ならぬ女狐の化けの皮をひっぺがしてくれるわ!!」
威勢の良い台詞と共に、討伐軍の副将チャン=ダーレンが長柄の鎚矛を引っ提げて飛び出して来た。
リンネも相手を認め、不敵に笑う。
「そうかい。なら、その身で思い知りな!」
「ぬかせ!!」
互いに向かって馬を駆け合わせた。
馬が擦れ違う一瞬、棒と鎚矛が交錯する。
次の瞬間、チャンは馬上から叩き落とされていた。
「ああっ、チャン将軍!」
一合も打ち合わぬ間の、リンネの完勝だった。
「これでもあたしが偽物かい。それとも、本物の女豹将はもっと強いのかねぇ?」
チャンは答えない。白目を剥いて伸びていた。
これで兵達の士気は崩壊した。
「は、話が違う! 女豹将は、ここにいるぞー!!」
蜘蛛の子を散らすようにわっと逃げ出す。
主将らしき騎馬の将軍が、声を嗄らして軍勢を押し止めようとする。
「ええい、退くな! 相手はたかが女一人ではないか! 踏み止まって戦え!!」
「まずあんたが掛かってきな」
リンネが呼ばわり、八角棒を主将に突き付ける。
主将は唇を噛み、憎々しげにリンネを睨み付けていたが、
「……退け! 退けーっ!」
一言令を発すると、馬を返して群兵と共に逃走した。
官軍の撤兵を見届けると、誰からともなく勝鬨が湧き起こった。
こうして、討伐軍はシルキュール山賊団――と言うよりリンネ唯一人に、退けられたのである。
その夜、山寨は戦勝祝いに湧いた。
ユーゲン、グロブナー等の山賊団の一同は、その席でアッバースにおけるリンネの活躍を聞き、流石はとの思いを強くしていた。またライラの神術、リムの武芸、そしてアントニオの義心に感心する事頻りであった。
数日を経ずして、アオイとシャオローンも山寨に辿り着いた。意外な人物を連れて……
「アントニオ殿!」
「カール!? おまえ……」
アントニオは目を丸くした。カール=シュトイヤーが喜色を湛えた顔で自分の眼前にいるのだ。
「おまえ、どうしてここに?」
やはり途中で合流したゴルドウッドが説明する。
アントニオの一撃で気を失ったカールは、息を吹き返した後、ゴルドウッドから彼の胸中を聞かされた。
「何と言うお人だろう……」
カールは感嘆し、
「いけない、あれほどの義人を緑林に埋もれさせるような事があっては。あの方には、何としても正道を歩いて貰わねば!」
同時に決心した。妹に向かって告げる。
「テレーゼ、父に伝えてくれ。僕は自分が井の中の蛙である事を知った。暫く故郷を出て遠地を巡り見聞を広め、己を磨こうと思う。今は世情に不安も見られるので、アントニオ殿に護衛役をお願いした。心配は要らぬ、と」
「お兄様!?」
「いつ戻るかははっきり言えないが、必ず父の名を辱めないだけの人間になって帰ってくるから。それまで元気で待っていて欲しいと、そう伝えてくれ。頼んだぞ!」
こうして彼もまた、ゴルドウッドと共に馬を駆り、西の方を目指して旅立ったのである……。
「……何てぇバカなことを」
驚き呆れたようなアントニオだったが、
「あんたに言えた台詞かよ」
リンネに混ぜっ返されて、思わず絶句する。
カールはアントニオの前に跪き、胸の前で手を組んで礼を執った。
「アントニオ殿、どうかこれより永く、義の兄としてこの若輩者を導いてやって下さい」
アントニオは絶句したままだ。代わってリンネが、
「ただのお坊っちゃんかと思っていたら、なかなかどうして気骨があるじゃない。受けてやりなよ、アントニオ。あんたのいい義弟になるよ」
早くも杯を用意させている。
これでは拒めない。アントニオは杯を受け取ると、カールにも手渡した。
「ではカール、おれもまだまだ到らぬ身だが、宜しく頼むぞ」
「はい、是非とも!」
杯が交わされると、わっと喝采が上がった。
「……さて、今度はあんた達の話を聞こうか、シャオローン」
リンネが促す。その場にはリンネとアオイ、ユーゲン、グロブナー、アントニオ、カール、リム、ライラ、ゴルドウッド、そしてシャオローンが車座に座っていた。
シャオローンは、自分がリンネを訪ねて来た事情を全て話した。
初めて聞かされた者達は、半信半疑の表情になっている。リンネだけが、さして驚きの色も見せなかった。
「関西に集まりつつあるのかい。“星”が……」
その呟きはごく小さいものだったので、誰の耳にも届かなかった。
「……面白そうな話じゃない」
リンネの瞳に、烈しい光が躍った。獲物を見据える、女豹の眼光だ。
「いずれにせよ、あんた達には二度も手を貸してもらったからね。それに、北島で真っ先にあたしを訪ねて来たのも気に入った。行ってやろうじゃないの」
「そうだな、おれもあんたらに借りがある。あんたらの義に、この拳で報いよう。いいか?」
次いでアントニオも、拳を握って名乗りを上げる。
「アタシも行くわ。リンネ姉さんの行く所なら、どこへでも!」
さらにアオイも続いた。
「願ってもない事です。ありがとうございます」
否やのある筈がない。シャオローンは頭を下げた。
「リチャード、アンディ、聞いての通りだ。またしばらく山寨を留守にするよ。官軍はあれだけ痛めつけておいたから、当分は大人しくしているだろうよ」
「解りました。どうぞお気を付けて」
「ただ、あたしがいつ帰ってこれるかは、今回ばかりは分からない。だから今後の団の指揮はリチャード、あんたが執りな」
「姉さん……」
やるからには中途半端で済まさない、リンネの決意の重さを、二人の副頭はひしと感じていた。
ユーゲンがリンネの方を向いて手を着く。
「姉さんの御命令とあれば受けましょう。ですがわたしは、姉さんやブライアンの兄貴の下で楽しくやっているのが一番性に合ってます。姉さんがお帰りになれば団はそっくりお返ししますので、そのつもりでいて下さい」
「お早い帰りを待ってますぜ」
グロブナーも笑って言い足した。
「リチャード……アンディ……」
リンネが思わず声を潤ませる。
「あんた達、好い漢だね」
それは二人にとって、望外の賞詞だったに違いない。二人は平伏し、暫し顔を上げられなかった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ!」
翌日、四人の一団がシルキュール山を下りた。
アントニオ、リム、ライラ、そしてカールである。彼等はライラの神足天行法で、一足先に北島を発つのだ。
これには理由があった。アントニオが、関中に立ち寄りたい所があると言い出したのだ。またリムも身辺の整理があると言い、ライラも
「塾の子供達に断りを入れないといけないし、お師匠様にも一言挨拶をしていきたいから」
と希望したので、カールを含めた四人が関中を経由して関西へ行く事になったのだ。
「では、関西でまた会おう」
「道中お気を付けて」
「あんたらもな」
かくして、四人は旅立った。
またゴルドウッドも、
「折角北島まで来たからのう、何か買い付けしてから帰るとするわ」
そう言って、故地トーマへと去っていった。
「……リンネ殿、我々はいつ出発しますか?」
「そうだね。あたしはいつでもいいけど、アオイが何だかいろいろ準備してるみたいだからさ……」
リンネが何か思い出したらしく、可笑しげに笑う。
ここでシャオローンはふと、先日来から自分の胸中にあった疑問をぶつけてみたくなった。
「リンネ殿、過日倒したオストヌイの事ですが……」
「ああ、あの熊野郎がどうしたんだい?」
「あれは、真にリンネ殿がなされたのですか?」
遮光鏡の奥から鋭い光が走る。
「どういう意味だい?」
「奴の傷口は、獣の爪牙に引き裂かれたように抉られ、さらに焼かれていました。恐らく炎ではなく電撃で。いずれも貴女の得物ではあり得ません」
「……」
「貴女は一体、何者なのです?」
彼女の紅い口元に、皮肉っぽい微笑みが浮かんだ。
「それは、あんたの方がよく分かってんじゃないの?」
「! では……」
シャオローンが語り掛けたその時、急に空が翳った。
見上げる二人の視界に、空を覆い尽くさんばかりの巨大な影が映る。
「何だ!?」
影は一度彼等の頭上を通過すると、上空で旋回した。鳥だ。その姿は鷲に似ているが、桁外れに大きい。燃えるように赤い冠毛が彼等の目を引いた。
“あれは……!”
「ジョイ!?」
思わず叫ぶリンネ。シャオローンは喫驚の眼差しで彼女を見る。
こうして、巨鳥の飛来が関西の危急を告げ、女豹は翼竜と共に北海を越え、その威名を関西にも轟かす事となるのであるが、リンネの叫びが意味するものは果たして何か? それは次回で。




