第十六話 片眼虎 水泊に宿星を誘い 紅冠天女 山中に傷龍を救うの事
いきなり怒鳴り込んで来た男に、シャオローン達は色めき立ち、席から腰を浮かし掛けた。
その中でレーンとバーディーは平然としている。
「アレク、冗談は止してよ」
後ろも振り返らずにレーンが言う。すると男は、それまでの凄みを消してニヤリと笑ってみせた。
「レーンが客人を連れて帰ってきたって言うから、どんな奴か拝んでやろうと思ったら、えらく物騒な相談をしていたんでね。つい芝居っ気を出しちまった」
悪びれた様子はちっとも見せず、男はシャオローン達に近付いて来た。険のある細面に無精髭、左目に眼帯を着けている。身の丈は七尺足らずだが、袖無しの上衣から伸びる二本の腕は不釣り合いに長く、節くれだっていた。
「脅かして悪かった。拙者はこの二人の知り合いで、名はアレクサンドル=ポブロヴィッチ=ドニエプル=ブルボンスキー……って、一度じゃ覚えられねぇよな。アレクと呼んでくれ」
長い名前に面食らっている四人に対し、もうその反応には慣れているらしい男はさらりと付け加えた。
このアレクサンドル=ブルボンスキー――普段はこう省略している――が、バーディーの言う“伝”であった。ここトレヤフィールドの出身で、現在はレフィシットの山賊団に加入しているが、前身は関中で暗殺者をやっていたと言い、優れた敏捷性と人並み外れた握力でもって、素手での暗殺を得意としていたそうである。しかし彼は「同郷の者は殺さず」との誓いを立てており、その為に暗殺者を廃業し、かつて所属していた組合から追われる身になって故郷に戻って来たのだった。追手との戦いで左目を失い、以来“片眼虎”とアダ名される彼である。
そんな身の上を語った後、彼はシャオローン達の話に耳を傾けた。一通り経緯を聞いたところで、彼は愉快そうに手を打った。
「あの県令を殺ったってのか!? そりゃ痛快だ! 拙者のいる山に来りゃ、下へも置かない大歓迎だぜ」
ヨシオリがムッとした表情で睨み付ける。
「おいおい嬢ちゃん、そんなに怖い顔すんなよ。――仲間じゃねぇか」
アレクは徐に右腕を伸ばし、四人の目の前で拳を開いた。
四人が息を呑む。
彼の掌の中央に、くっきりと星が浮かんでいた。
「貴男も……なのか」
「まぁ、そう言う事だ」
彼は右手をつらつら眺めながら、改めてシャオローンに尋ねた。
「――で、御辺等は知ってるのか? こいつの意味を」
「えぇ、知っています」
「そうか。拙者もだ、この二人から聞いた。……今でも信じられない話だがな、魔王なんて」
それはシャオローン達も同様だった。信じられない、と言うより信じたくない話だ。
「……それで、さっきの話だが、御辺等ほんとに山に来る気があるのか? あるなら拙者が口を利いてやるぜ。ま、御辺等の“実績”なら問題なかろうがな」
シャオローンは首を横に振った。
「それは出来ない。我々は別の山に席を持っています」
「どこだ?」
「関西のルフトケーニッヒ山、シュヴァルツ山賊団」
「頭領は?」
「シリウス=プラトニーナ。白狼将とも呼ばれている、若いが豪胆で、度量の広い人物です」
「その白狼将ってのも、“星”の仲間なのか?」
「しかとは判りませんが、魔王現出の時には共に戦う事を誓い合っています。その為に我々は、全国を駆け巡って有為の人物を捜しているのです」
「羨ましい話だ」
顔を顰めて、アレクは天井を見上げる。
「拙者の頭領は官吏登用試験の落ちこぼれで、小知恵は回るが、気が小さくて器量が狭い。『魔王が現われる』なんて言ったら、一笑に付されるか、泡を吹いてぶっ倒れるかのどっちかだろうぜ。関中のハル=アンダルヘールとは言わないが、もっと侠気のある漢の下なら、やり甲斐もあるんだがな」
「では、シュヴァルツに来られませんか?」
シャオローンの誘いに、アレクは少し思案顔をしたが、
「悪くないな。だが、こう言うのはどうだろう?」
「それは?」
「そのシュヴァルツの面々を率いて、レフィシットに来るのさ。来たら、拙者が手引きしてオーリーヌを追い出す。後釜には白狼将を据える。これでどうだ?」
驚きに絶句するシャオローン達。アレクは続ける。
「このレフィシット湖は地勢険阻な山寨だ。あのオーリーヌでも守れるぐらいだからな。かくて御辺等は難攻不落の要害を手に入れ、拙者は働き甲斐のある頭領を手に入れる。一石二鳥の名案だと思うがな」
「そうね、ここほどの所はヤパーナにもそうないでしょうね」
レーンが相槌を打ち、バーディーも賛意を示した。
「もしあなた方が来られるのなら、わたしも出来る限りのお手伝いをさせて戴きます」
シャオローンは深く考え込んだ。悪くない話に思えた。
ルフトケーニッヒ山も、山川相迫る守り易い地形だが、ウェストキャピタルとグランコート――関西を代表する二つの大都市にぴたりと挟まれている。さらに、西ヤパーナに睨みを利かせる軍都コーベとの距離も近い。勢力の拡大に伴い、官軍の攻勢が激烈になる事は容易に予想できる。今後もあの山寨を守り抜けるだろうか……。
「そのお話、シリウスに伝えてみましょう。ですが、私としては是非乗ってみたい話だと思います」
決然と言うシャオローン。アレクはにやりと笑ってみせる。
「よぉし解った。御辺等が来る日を待ってるぜ」
軽く右手を挙げて、彼は部屋を後にした。
あっさりした振る舞いに、シャオローン達は拍子抜けしたほどだった。レーンが苦笑しながら言い足す。
「あんな調子だけど、言ってる事は本心よ。信用して良いわ」
「深く考えるのは苦手なのよ。だから、それはわたし達が受け持ちます」
バーディーの言葉に、シャオローンも表情を崩した。この後、六人は今後の方策について語り合ったのであるが、この話はこれまでとする。
二、三日の滞在を経て、シャオローン達はトレヤフィールドを発つ事にした。レーンとバーディーが見送りに出ている。
「身体はもう良いの?」
「ええ、この通り」
拷問とそれに続く逃避行に苛まれた彼の身体も、殆ど快復していた。
「何から何まで、世話になりました」
「いいえ。それより、これからどうするの?」
「北へ向かうのは流石に危ないですから、東へ。関中に入ってから関北を目指します」
「そう。道中お気を付けて」
「この地で再会できる日を待っていますわ」
「では……」
こうして四人は、中山路を東へと旅立っていった。
それから数日の後、シャオローン達の姿は関中八関の一つクラインザンクト関の前にあった。中山路の関中への入口であり、カステンタールやブランフルーヴほどではないにせよ、厳しい詮議があるだろうと予測された。
「役人と悶着を起こさずに済めば良いが……」
このシャオローンの願いは、最悪の形で叶えられる事になる。
「兄さん、あれは……」
ヨシオリが関所を指差して、言葉を失った。彼女だけではない。一同の動きが止まった。
通常は門前に立っている筈の門衛が、地に伏して倒れている。朱に染まり、ぴくりとも動かない。
門の中も同様の状況だった。役人と言わず、旅客と言わず、一人残らず打ち倒されている。動いている者は何もない。
「これは、酷い……」
「一体、何が……?」
シャオローン達は事情を知るべく、分かれて関内を調べ廻った。
「兄さん! この人、まだ生きてるわ!」
ヨシオリの声に、一同はすぐさま駆け集う。
見れば、彼女の足元に一人の若者が倒れていた。血と埃に汚れていたが、微かに呻いている。
「アリーナ!」
シャオローンが呼ぶより早く、アリーナは若者の傍に歩み寄り、治癒の呪文を唱えた。
翳した右手が淡い光を放ち、若者の息が段々と落ち着いてくる。
ややあって、若者はゆっくりと目を開いた。
「気が付いたか?」
「……あ、あなた達は?」
「我々は旅の者だ。一体、この関で何があったのだ?」
「何が……あ……リ……レナ!」
若者は跳ね起き――ようとしたが、魔法で癒されたばかりの身体は思うように動いてくれない。アレーナに助けられて、漸く半身を起こした。
「無理しないで。落ち着いて私達に話してちょうだい」
「でもレナが、レナがさらわれて……蜥蜴人が……」
「蜥蜴人!?」
若者――名をロミオと言った――の語るところはこうであった。彼は同郷の恋人レナと共に、関の南にあるタカオ山に入る許可を求めに、このクラインザンクト関を訪ねた。この地をよく訪れる彼等に細かな審査は必要なく、いつものように挨拶程度の遣り取りで山に入ろうとしたところ、山へ続く道から蜥蜴人が大挙押し寄せて来た。
蜥蜴人とは、直立した蜥蜴のような姿の人間型怪物である。全身を覆う緑の鱗は高い防御力を有し、空いた両手で器用に武器を操る。人間並みの知能を持ち、独自の文明を有しているとも聞く。
蜥蜴人は得物を持つ役人達は一人残らず斬り殺し、女子供は引っ攫って行った。レナも蜥蜴人に捕らわれ、ロミオは彼女を助けようと腰の剣に手を掛けた瞬間、蜥蜴人に斬られ、意識を失ったそうである。
「蜥蜴人の集団か……奴等は山に帰って行ったのか?」
「山から来たから、山に戻ったのだと思う」
「そうか。では、追ってみよう。いいか?」
シャオローンは他の三人に向かって問い掛けたが、否やはない。ロミオが言い出した。
「レナは僕が助け出す。道案内をさせて欲しい」
かくて一行はロミオを先頭に、山道を直走りに駆けた。ロミオは優れた野伏で、足跡から蜥蜴人の群がどこに進んだかを的確に言い当てた。
森を縫い、坂を駆け、沢を飛び越える。
山裾を半周もした頃だろうか、彼等は蜥蜴人の一団を視界に収めた。その向かう先に洞穴がある。そこが巣なのであろう。
一団は攫って来た女子供を追い立て、洞穴の中に放り込もうとしている。
「レナ!!」
その中に恋人の姿を見て、居ても立ってもいられなくなったロミオが飛び出した。四人も後に続く。
蜥蜴人共の方でも、接近して来る人間に気付いた。捕まえた者達を洞穴に急がせると、後衛の数匹が迎撃に向かう。
「ロミオ!!」
レナの叫びが虚しく洞穴に吸い込まれて行く。
ロミオが猛然と追い縋る。野伏の足は速く、シャオローン達でも追い付くのがやっとである。
彼等と洞穴の間に、一面の砂地があった。ロミオは構わずに躍り込む。
だが、二、三歩進んだところで不意に彼は倒れた。
「流砂か!?」
一歩出遅れた四人は、警戒して砂地の手前で足を止めた。
そこへ――足元へ強烈な一撃が来た。
足を掬われ、訳も解らないままに砂地に落とされる。
短い衝撃。しかしシャオローン達はすぐ体勢を立て直して、今落とされた岸を見上げた。岸には二匹の蜥蜴人が立っている。恐らくは奴等の尻尾の一振りを喰らったのだろう。
正面は数匹、背後は二匹。後ろを先に相手すべきだとシャオローンは槍を構える。
しかし、足が動かない。
砂に埋もれた足を、何者かに掴まれている感じだった。
「アッ!?」
シャオローンの左手で、声が上がった。
「ヨシオリ!?」
彼の目の前で、ヨシオリが頽れるように倒れた。彼女の前の砂地から、二本の毛むくじゃらの腕が生えている。それが彼女の胴を打ったと見える。
「グッ!!」
他方ではデュクレインが、やはり地中から現われた怪物に遮光鏡を飛ばされていた。アリーナも背後から抱き竦められ、口を塞がれて動きを奪われている。
それらは人間のように二本の足で立ち、二本の腕を使う。しかし、長毛で覆われた全身と髑髏に皮膚だけを張り付けたような顔は、それらが人間ではない事を物語っていた。
「砂人!!」
それは砂の中に棲息し、領域に踏み込んだ者を捕食する怪物である。知能は高くないが群で行動するので、不意を打たれるとかなりの難敵となる。
つまり、今のシャオローン達の状況そのものであった。
シャオローンはヨシオリ達を救けようと、槍を持つ手に力を込めた。
その槍がびくとも動かない。
地面から伸びた手が、槍の柄をしっかりと握っていた。
しまった!! と思った刹那。
シャオローンの右肩に激痛が走った。
岸から下りてきた蜥蜴人に、上空から斬り付けられたのだ。
デュクレインも、もう一匹の蜥蜴人の一撃を首の後ろに喰らって、どうと倒れた。
シャオローンは蜥蜴人を正面から睨め付けた。肩からの出血が、マントを赤く染めて行く。それでも怯みを見せる事はない。弱味を見せたら負けである。彼は激痛に耐え、気迫で蜥蜴人の動きを封じ込めた。
だが次第に呼吸は荒く、胸は熱く、逆に手足は鉛のように冷たく重くなってくる。出血の所為ではない。
“毒か……”
気付いた時には、最早身体の自由は利かなかった。崩れるように倒れるシャオローン。
急速に暗くなる視界の片隅で、彼は、ロミオが蜥蜴人に斬られて倒れるのを見た……。
彼等が動かなくなると、蜥蜴人共は無傷のヨシオリ、デュクレイン、アリーナを洞穴の中へ運び込み、シャオローンとロミオはそのまま捨て置いた。
蜥蜴人の姿が見えなくなると、地中から砂人共が姿を現わした。二匹一組になって、シャオローン等を何処かへ運び去っていく。
蜥蜴人は砂人が棲む砂地を、自分達の巣を守る仕掛けに利用していた。そして、首尾良く仕留めた獲物の一部を砂人に分け与える。このようにして共生していたのである。
砂人は砂地から半里ほど離れた、開けた草地まで二人の身体を運んだ。周囲には人や獣の骨が無数に散らばっている。この場所が“餌場”なのだろう。
四匹の砂人はまずシャオローンの周りに群がった。蜥蜴人の毒に冒された彼は、顔は土気色、ぴくりとも動かない。
一匹が彼の喉首に牙を突き立てようとしたその時――
草叢から何かが飛んだ。
今しも獲物に食い付かんとしていた砂人が、急に後ろに引き倒される。
残る三匹は驚き、一斉に草叢を見た。
砂人の首から草叢まで、革の鞭が一直線に張られ、その草陰に紅いものが動いている。
次の瞬間、別の一匹が奇声を発した。
その場で崩れ落ち、後は動かなくなる。
その後ろに、一人の人間が立っていた。
左手に刀を提げた戦士。体型から女性と判る。銀色の美しい髪が風に波打っている。
二匹の砂人が仲間の仇、と一斉に襲い掛かった。
だが、意表を突かれなければ砂人はさして強い怪物ではない。戦士は横薙ぎに一匹、返す刀でもう一匹と、瞬時に砂人を屠った。
さらにもう一声、断末魔の声。
先に鞭で絡め倒された砂人が、胸に剣を突き立てられて息絶えている。
剣と鞭を手にした鮮やかな紅毛の少女が、銀髪の戦士の元に来た。
顔を見合わせて頷き合うと、二人はシャオローン達の身体を草叢の奥へと運び出した。
――やがて、何者の気配も消え失せた。
シャオローンは、寝台の上で意識を取り戻した。
右肩の痛みは消えていた。目を開けて、半身を起こしてみる。ゆっくりと。
だるい感覚は残っているが、体は一応思い通りに動く。
周囲を見回した。見覚えのない部屋である。
蜥蜴人の一撃を喰らい、毒が回って倒れた後の事は、当然何一つ覚えていない。何故自分がここにいるのかも判らなかった。唯一つ、自分は誰かに助けられたらしい事だけは認識していた。
となると、今度は仲間達の安否が気遣われた。ヨシオリは、デュクレインは、アリーナは、ロミオと言ったあの若者は、果たして無事なのだろうか……。
「あ、気が付いた?」
声を掛けられて、彼は現実に帰った。声の方を見る。
部屋の扉から、若い娘が入って来た。
榛色の大きな瞳に桜色の唇、綺麗な紅い髪を大きく三つ編みにした美しい少女だった。左目の下の黒子が、愛らしさを一層際立たせている。薄物の上衣と膝上までの洋袴を纏った六尺半ばの体は、女性らしい豊かな曲線を主張していた。
「よかった。もう大丈夫よ」
「貴女が……助けてくれたのですか?」
「あたしだけじゃないわ。友達と一緒に、ね」
彼女は寝台の側で、屈み込むようにして話した。
「それに、あの場所へ行くように言ったのはお師様よ。“星”が輝いているから、って」
「星?」
シャオローンは改めて少女を上から下まで見返した。――左の膝に“星”が浮かんでいる。
「ねえ、あなたの名前は?」
「……申し遅れました。私はシャオローン=シェン」
「あたしはジョイ=ユーフェミア。よろしくね」
そう言って少女――ジョイはにっこりと微笑んだ。その笑顔に、シャオローンは暫し茫然と見蕩れていた。天使が微笑んだらこんな感じだろうか、と柄にもない事を考えながら。
「ジョイ、助けてくれてありがとう。心から感謝します。その御友人の方とお師様にも」
彼が礼を言うと、ジョイは慌てて両手を振った。
「えへっ♡ でも、そんなに改まらなくていいですよ。チャールもお師様も直にここに来ると思うし」
シャオローンが微かに眉根を寄せた。
「御友人は、チャール殿と仰有られるのですか?」
「ええ、チャール=レフィリアよ。聖騎士として有名だけど、本職は召喚術師で呪術師なの。今は神殿に戻っているはずよ」
「……」
チャール=レフィリアと言う名前が、彼の古い記憶を刺激する。
「あなたと一緒に助け出した人の傷が重かったから、神殿で治療しているの」
「それは誰です?」
「茶色の髪の、男の人よ」
ではロミオか……すると、他の三人は……。
部屋の戸が再び開いて、誰かが入って来る気配がした。
「あ、チャール!」
天使の次に現われたのは、女神だった。
そう表現しても過言ではないだろう、それほどまでに優美な女性だった。白く形の良い顔に、色の違う宝石のような左右の瞳――右が青色、左は銀色――、高くすっと通った鼻梁、端麗な紅の唇が絶妙に配されている。白銀の髪は腰よりも下まで美しく流れ、身に纏う色とりどりの薄布から覗く肌は透き通るように白く、胸から腰にかけての曲線は凄艶ですらあった。
どこか愁いを含んだような表情が、寝台に半身を起こしている男を見て、穏やかな微笑に変わる。
「気付かれたのですね。良かった……」
声の響きもまた玲瓏。シャオローンが救出の礼を述べると、チャール=レフィリアは小さく首を振った。
「いいえ、私の力及ばず、申し訳ありませんでした」
一瞬後、シャオローンは理解した。
「彼は……」
「今し方、神に召されました」
「そうですか……」
彼は瞑目し、不幸なロミオの魂に祈りを捧げた。同時に、彼に代わってレナと言う少女は何としても救い出す、との決意を改めて固める。
「……彼の亡骸は、暫く神殿に安置しておいて戴けませんか?」
「それは構いませんが……」
「実は、私も彼の事をよく知らないのです」
シャオローンはこれまでの経緯を二人に語った。
「……私以外の三人は蜥蜴人に捕まったのでしょう。しかし、奴等は何が目的で人間を捕らえているのか……」
「私の知る限り、蜥蜴人は己の領域に入る者を攻撃はしても、捕らえて巣に持ち帰ったりはしません」
チャールは先の三つの他、賢者、吟遊詩人、妖術師も兼職する才媛であった。その語るところに澱みはない。
「ですが、蜥蜴人に限らず、一度人肉の味を覚えた魔獣が、その後も人間を襲うようになる事は十分あり得ます。捕食の為に……」
「もしそうなら……」
シャオローンが呻いた。毛布を掴む手が白い。
「すぐにでも彼女達を助けに行かねば……!」
「ダメよ、今起きたばっかりなのに!」
制止するジョイ。チャールも引き止めた。
「貴方がここに来てまだ三日です。回復は十全ではないでしょう。そんな人を危地に送る訳にはいきません」
「三日も経っているなら尚の事、急がないと。今、彼女達を助けられるのは、私しかいないのだから……」
シャオローンとて、もとより己の身体が完全でない事は承知している。それでも、自分が行くと決めていた。危険を顧みず自分を救出してくれた義妹達を、今度は自分が救い出す番だ、と……。
「ちょっと待って、シャオローン。お師様に話してみるわ。何か知っていらっしゃるかも知れないから……」
彼の決意は固いと見たジョイは、師に相談するべく部屋を駆け出て行った。
後に残されたシャオローンは、チャールの横顔を見ていた。その美麗な姿と名には、確かに覚えがあった。しかし、思い出せない。
「チャール=レフィリア、貴女とはどこかでお逢いしたような気がするのだが……気の所為だろうか」
彼女は微かに笑みを浮かべて言った。
「気の所為ではありませんわ……シャオローン殿」
その呼び掛けに、シャオローンはハッとなった。記憶が急速に甦る――内なるシャオローンの記憶が。彼の目が赤く光る。
〈……チャール殿か〉
〈はい〉
チャールは特に変わった様子もない。艶然と微笑んだままだ。
〈まさかこのような所で遭うとは思わなかったぞ。地上に逃れたとは聞いていたが……〉
翼竜のシャオローンには、魔界にいたハイエルフのチャール=レフィリアが彼女に関する記憶の全てだった。
〈アイルのいない魔界に、私の居場所はありません〉
〈……そうか。アイル=カルティス、惜しい男だったな……〉
ハイエルフ一族の若き纏め役で、チャールの恋人でもあったアイル=カルティスの死の真相に魔王ハイヴォリアが関わっていると言うのは、当時の魔界では公然の秘密だった。それまで魔王に対して、不羈か恭順かで揺れていたハイエルフの一族が、アイルの死を契機に雪崩を打って恭順した事も、その信憑性を裏付けていた。
〈……地上に出て、一人であるのか?〉
〈一人ではありません……すぐに来てくれましたわ〉
〈それは?〉
《私よ、シャオローン》
別の声が割り込んで来た――頭に直接。
《その声は……フィー殿か!?》
《私に気付かないなんて、貴方も相当鈍ったわね》
フィー――フィー=アイル=シルバーは、不死兵団の副頭を務めた美貌の女吸血鬼王である。
《いや、しかし……そうか、貴女方は同じ名を持っていたのだったな》
フィーと言う名は、チャール=レフィリアの愛称でもある。片やハイエルフ、片や吸血鬼王とその置かれる位置は懸け離れているが、同じ名を持つ二人は、魂においては最も近しい存在であった。
《ジョイもいるわよ》
《ジョイ? 空戦隊のジョイか!? どこに――いや、愚問だな》
シャオローンは苦笑したように見えた。つい先刻までここに、同じ名と“星”を持つ少女がいたではないか。
ジョイは真紅の翼を持つ鵬である。シャオローンと同じ魔軍の第二空戦師団で、空戦隊長を務めていた。
《出会い始めたわね……“時”が近いのかしら》
《恐らく。この地の各所で“星”が集い出している》
《貴方の宿主が助けたがっているのも、“星”の一員なの?》
《うむ。ミネルヴァと……いま一人は定かではないが》
《ふぅん……あ、ちょっと待って》
扉の外に気配を感じて、フィーは言葉を切った。魔の気が一瞬で消える。
直後に、ジョイ=ユーフェミアが息急き切って飛び込んで来た。
「シャオローン! お師様がこれをあなたにって……」
彼女の手には、小さな紙片が畳まれていた。
受け取って開いてみると、中には軽妙な筆致で八字が記されていた。曰く――、
北斗降山 七星照峰
「ジョイ、お師様と言うのはどのような方です?」
この問いには、チャールが答えた。
「ラー=シーン様は高名な予言者で、“天眼通”とも呼ばれていますわ」
「すると、この句は……」
額を寄せて考え込む。
「北斗七星が山に……七人で助けに行け、と言う事かしら?」
ジョイの解釈に、シャオローンもチャールも異論はなかった。
「しかし、その七人をどうやって探し集めるか……」
「三人はここにいますわ」
「えっ?」
意外そうな表情のシャオローンに、チャールは微笑み掛けた。
「貴方は絶対に行くでしょう。止めても駄目ならば、共に行って一助なりさせて戴きます」
「あたしも手伝うわ。“星”を持ってるもの、ね!」
ジョイもまた、笑顔で応じる。
「……忝ない」
シャオローンは二人に向かって、深々と頭を下げた。口にする言葉は短いが、真情の重さはひしと伝わって来る。
「これで、あと四人だけど……」
思案顔のチャールに、
「一人、心当たりがあるわ」
ジョイは自信あり気に請け負ったのであった。
ジョイ=ユーフェミアは、帝都の東を流れるスレン川の東岸のアロールート地区に住む農家の娘だった。ラー=シーンに才を見出され、現在はイーストキャピタル県西部の街アハトプリンツで師に仕えて勉強に勤しんでいる。印象的な赤い髪と魅力的な笑顔、それに明るく快活な性格で皆に好かれ、“紅冠天女”と呼ばれていた。
アハトプリンツは関中から中山の玄関口で、東西に中山路が走り、北へ向かえばフロントブリッジ、南に抜ければザイテシュトラントと言う交通の要所である。古来より人、物とも往来繁き土地だった。
その日、ラー=シーンの元を一人の男が訪ねて来た。四十がらみで中肉中背、頭髪は薄く、禿げ上がった額の左の方に星形のアザがあった。右目は古傷で塞がれている。
「よぅ、ジョイちゃん。相変わらず可愛いねぇ」
「えへっ♡ ゴルドウッド様もお変わりなく」
この男はゴルドウッド=デェンターと言い、帝都で大きな雑貨屋を営む商人である。その前身は宝探し専門の盗賊だったが、肺を患って数年前に足を洗ったと言う。右目の傷は、現役の頃に宝箱の罠を解除し損なって受けたもので、以来右目は見えていない。額の真ん中に瘤があり、角のようにも見える事から“短角鬼”とアダ名されていた。
「そら、師匠に頼まれていたものだ」
「いつも遠い所を、ありがとうございます」
ゴルドウッドの店は帝都の外城の中にあったが、彼はラー=シーンの依頼であれば、百里の道も厭わず足を運ぶ。
世間話を二、三交わす内、ジョイは思い切って切り出してみた。
「ゴルドウッド様は、昔は腕利きの盗賊だったんですよね?」
「自分で言うのも何だが、あの頃は相当なものだったぞ。いざこざは全部、この腕と短刀で解決してきたし、稼いだお宝が今の店の元手みたいなものだからな」
「その腕を、あたし達に貸して戴けませんか?」
事情を聞いて、ゴルドウッドの顔が難しくなる。
「タカオ山に蜥蜴人の巣がのぉ……そこにジョイちゃんとチャール殿と……」
「シャオローンです」
「その御仁と儂、……で行こうと言うのかい」
「あと三人、集まるはずですけど……」
「ふむ……」
流石に思案顔でいるゴルドウッド。
「……まぁ、天眼通様がそのような句を下されたならば、疑う事はあるまい。蜥蜴人の巣か……上手く行けば奴等の貯め込んでいる宝を頂戴できるかも知れんしのぉ」
「手伝っていただけますか!」
「些か錆び付いとるかも知れんぞ。だが、ジョイちゃんの頼みじゃ断れんからの」
満面に笑みを浮かべる彼女。釣られてゴルドウッドの顔も綻ぶ。
「となると、家に戻って準備せねばならん。一両日待ってくれんか」
「ハイ! ……でも、出来るだけ急いで下さいね」
控え目に付け加えたジョイに、ゴルドウッドは大笑して約束した。
きっかり二日後、ゴルドウッドはアハトプリンツを再訪した。やや古びた革鎧を着込み、腰には黄金拵えの短刀を差したその姿は、或る種の風格と言うか、確かに決まって見える。
しかしこの間、残る三人については皆目見当が付かなかった。
シャオローンはもう待てない、と一人ででも行きかねない様子で、予言の実現を期待するジョイもチャールも、過ぎた日数を考えるとこれ以上は日延べも出来ず、ゴルドウッドの合流を潮に、タカオ山へ向かう事を決意していた。
こうして、装備を整えた四人は街を発って行く――その前に立つ影があった。思いも掛けぬ人の姿に、シャオローンの足が止まる。
こうして、関中の一角に群星が集い始め、やがては七星が山に威を奮い、輔星がさらに輝きを添えるのであるが、シャオローン達の前に姿を見せたのは果たして誰か? それは次回で。




