第一話 百八の魔獣 星と成りて人間界に落ち 一星 運命に従いて旅立つの事
およそ、人が生きるにおいて剣と杖を必要としていた地にて--。
かの地は三つの“世界”よりなっていた。
すなわち天界。
地界。
そして魔界。
天界には神々が鎮座し、
地界には人間他あらゆる生物達が生活し、
魔界には魔物共が徘徊していた。
三界を往来する事は人知をもってしても不可能であり、神々や魔物共も己が領分を離るる事を暗黙の禁忌としていた。三界の交流は、人間の信仰とそれに応える神又は魔神の僅かばかりの介入のみであった。
だが、世界なってより冒された事のない禁忌に真っ向から挑む者があろうとは、誰も考える事すら出来なかった……。
天界の神々は大神と呼ばれる者が統べ、
地界の人間達は帝王と名乗る者が治めるように、
魔界の魔物共もまた、魔王と言う存在によって掌握されている。
時の魔王は四肢八臂の龍頭の魔神、名をハイヴォリアと言った。
ハイヴォリアは全てにおいて過去の魔王を凌駕していた。
類希なる魔力。強靱な肉体。そして--恐るべき野望。
彼の野望は天界、地界を滅して自らが三界の長たらんとする事にあった。
そしてその野望を支える三人の側近。
神をも倒す鬼謀を持つアークデーモン、鎮神軍師ザイン・ケイン。
妖しの刃を血塗る事のみを求めるオーガロード、邪刃将軍シルド・ズリューワ。
魔王に魂を売った人間の妖術師、興悪道士ヤン・ゼン。
今や、魔軍は総力を挙げて地界への道を往かんとしていた……。
「シャオローン殿がお見えです」
使い魔が魔王に告げた。
「通せ」
魔法力に支配された岩の扉が音もなく開く。
広間に現れたのは巨大な翼竜だった。全身を緑鱗で覆い、双瞳は炎の如く赤い光を放っている。魔界に翼竜は数多いが、その中でも彼の名は魔族の間に知れ渡っていた。
シャオローン。翼竜の身でありながら竜騎兵隊長を務める強者である。
「第二空戦師団竜騎兵隊長シャオローン、伏して上申に参りました」
またか、と言う表情が魔王の目にありありと浮かぶ。シャオローンは己の野望に真っ向反対している一人だった。しかし独裁者と言えども、人望もあり腕も立つ彼を切り捨てる事が如何なる事態を引き起こすかを考えると、表立った処分は出来なかった。反面、何度か刺客さえ送り込んだのだが、ことごとく返り討ちに遭っていた。
「地上侵攻の義につきまして、何卒御再考下さいますよう……」
「そなたは何故、同族の繁栄を考えぬのだ?」
魔王がシャオローンの言上を遮った。
「幾星霜も昔、我等が祖は神々との戦いに敗れたが故に天界を追放され、この地へ追い遣られたのだ。今、天界の神も地界の人間共も、己が平穏に馴れ堕落し切った! この時を措いて三界を我等が手に戻す機会はないのだ! それが過去の魔王達の悲願であった事、知らぬそなたではあるまい。かの豊饒な地を、荒みきった神や人間共に渡しておく訳には行かんのだ!」
シャオローンは魔王の言など耳に入れてはいなかった。自分が諫めに行けば必ず魔王は“魔族の繁栄”を口にする。そのやり口はとうに解っていた。確かに、戦いに敗れて魔界に押し込められた悪魔族や、地上で忌み嫌われている犬鬼や豚鬼、小鬼等下級妖魔は--目的は違うが--地上侵攻に賛成であったし、知能の低い巨人族や、全くない下級不死族、下等生物等は魔王の意のままに操られていた。しかし、シャオローンを含めた幻獣・魔獣族は特に地上を求めてはいなかった。シャオローン自身も何度か地上に赴き、太陽の下を飛翔した事もあったが、それを何と思うでもなかった。彼が正面切って魔王に反発するのは、人間達に好意を持っているとか言う訳ではなく、“魔族の悲願”に隠した己の野望を達成する為に部下を使う魔王の思惑が気に喰わないからであり、また彼が魔王の真の姿を知っているからでもある……。
「そのお話でしたら何度も聞いております」
シャオローンの台詞には、揶揄するような響きがあった。
「綺麗事はお止め下さい。はっきりと仰有れば宜しいでしょう。『我が野望の為』と!」
「シャオローン! 貴様、口が過ぎるぞ!」
「己の野望の為に我らを尖兵に使うおつもりか!」
「黙れ!!」
「所詮は過去にしがみつく亡霊の愚行でしか……!」
「無礼者!!」
次の瞬間、巨大な火球がシャオローンの身体を包んだ。魔王の火球だ。
しかし、包んだと見えた時には、シャオローンの姿は広間から消えていた。
ややあって、魔王の重苦しい呟きが漏れた。
「あ奴……知り過ぎておる……!」
その時シャオローンは既に隊舎に戻っていた。風の精霊界に属する大気・雷撃系魔法を得意とする彼は、大気の力を借りてあたかも瞬間移動したかの如く舞い戻り、魔王の火球を避けたのだった。
「やれやれ、予想通り、か……」
深い溜息を吐きながら石造りの廊下をゆっくりと歩いていた。そこへ不意に横合いから、
「お戻りになられましたか、シャオローン様?」
見ると、一頭の森林龍が歩み寄って来る。
「ミナトゥスか?」
「ハイ」
ミナトゥスと呼ばれたその森林龍は軽く頭を下げた。
彼女の名はミナトゥス・キリー。シャオローンの片腕となる有能な副官である。
元来、森林龍は森の守神とも呼ばれ、龍族の中でも特に争い事を嫌う平和的な種族である。体格はそれほど大きくなくやや細身の体付きをしているが、龍族特有の頑丈な身体に高度な知能を持ち、特に魔法では地の精霊界に属する地震・破壊系魔法に秀でている。だが、性質は極めて大人しく慈愛深い。
彼女が何故魔軍にいるのかについて、彼女は話そうとはしなかったし、シャオローンも訊こうとはしなかった。
「随分派手に魔王様のお怒りを買われたようですね」
「解るか?」
「シャオローン様のなさる事は大体解ります。それに、広間から隊舎に戻られるのに跳躍の魔法を使うなど、尋常な事ではありませんわ。察するところ、魔王様の攻撃を逃れて来たのでしょう?」
いつもながらミナトゥスの観察眼は鋭い。シャオローンはこれまでの事をざっと話した。
「……これで私は魔王に仇なす者となった訳だ。そして、自分の正体を知る“生かしておけぬ者”とも。すぐにでも私は魔王の手下共に監視されるだろう。ミナトゥス、その前に魔煞星の者達に伝えてくれ。予定通り、約束の刻に“かの地”に集まれ、と」
「では、やはり魔界を離れるおつもりで?」
「これが我らの星の宿命であるからには、仕方がなかろう」
「しかし、私一人で皆に会えば、嫌でも目に付いてしまうでしょう」
「ならば、まずラスティーナ殿とフィー、リック、それにシセイとフェスに会って、彼等から皆に伝えて貰え。どんなに目の利く奴でも彼らの行動を掴む事はまず出来まい。参謀や師団長にはラスティーナ殿から伝えて貰えば、後はあの方々自身で何とかなさるだろう」
不死兵団長のラスティーナとその副官のフィーは吸血鬼王、同じく副官のリックは女性の不死怪物、シセイとフェスは共に魔法兵団に属する透明人間である。
「解りました」
「そしてもう一つ。尾行されてると感じたら、シロン様の所へ寄ってそれから私の所へ戻って来るように」
「シロン様の所へ、ですか?」
シロンは第二空戦師団長を務める應竜--竜の頭を持つ巨大な鷹、風雨を司る神--で、シャオローンの直接の上司である。
「私と魔王の諍いがあった直後だ。副官であるお前が師団長を訪ねて行っても何の不思議もないどころか、大いに理に適っているのではないか?」
「ア……」
ミナトゥスが得心が行った、と言う表情をする。
「納得したか?」
「ハイ」
「では、急いで行って来てくれ」
「ハッ!」
刹那、ミナトゥスの姿は掻き消すように消えた。
シャオローンは自分の居室へ向けて歩を進めた。
“かの地”--。
そこは、魔界においては禁断の地とされていた。地界と魔界を結ぶ路があり、膨大な魔力でもって扉を開ける事により、魔物は地界に行く事が出来るからだ。
約束の刻も近い。既に大小百余匹の魔物が息を潜めていた。
「皆揃ったか?」
魔軍の参謀でありながら魔煞の性を持つ夢魔、ハル・ハイプラントの声が響いた。
同じく参謀職にあった銀龍、シン・ハイウェルがそれに応えて言う。
「おそらく。後はシャオローン……」
「私はここだ」
その声が聞こえるや否、暗闇の中からシャオローンの姿が現われた。
「見付からなかったでしょうね?」
「監視されているのが解っていてわざわざ尾けられる奴がいるものか。二匹いたから出掛けに眠らせて来たよ」
ミナトゥスの問い掛けに、シャオローンは尾を一振りして応えた。彼の尾の先には速効性の猛毒を秘めた針がある。哀れな見張りは永遠に目を覚ます事はないだろう。
「ならば、急いだ方が良い」
「うむ」
シャオローンは群の中に紛れ、ハルがその身躯に威風を漲らせて叫ぶ。
「我らは天罡地煞の星の下に生まれ、同じ宿命を持つ兄弟である! 今、暴凶なる魔王は三界を手中にせんとする野望を持って地界に魔手を伸ばそうとしている! これは、天が我らをして地に遣わしめんとする前兆に間違いない! 今こそ我らが星の宿命に従い地上に向かえ!! そして人間共の世に仮初の悪を成せ!!」
オオッ、と吠え声が起こる。ハルは片手を上げてそれを制した。
「扉を開くぞ!!」
百余匹の魔物が一斉に何事か念じ始めた。地界と魔界を繋ぐ扉を開ける為には途轍もない魔力を必要とするので、魔界でも扉を開閉できるのはハイヴォリアとザインの他に数える程しかいない。しかし魔煞の性を持つ者は、百八星全員が揃えばそれが可能になる。それは、天から命を受けて地上に降り立つ宿命を持った魔煞星の“力”でもあった。
幾時が過ぎ去ったろうか。突如、天空に、一条の光が走った。と見る間に、光は暗闇を溶かし尽くしてなお輝かんばかりに膨れ上がった。地界と魔界が繋がったのだ。
「行くぞ、地上へ!!」
「ハ、ハイヴォリア様、一大事にございまする! シャオローン以下百余匹の同士が禁断の地に集まり、扉を開けてしまったそうです!!」
この報せにハイヴォリアは飛び上がらんばかりに驚いた。シャオローンが何か画策しようとしている事は薄々感づいていたが、魔界にいる限り自分に逆らう事など出来まい、と高を括っていたのだ。しかしシャオローンは魔煞の者、それが他の百七星と共に地上に出てしまえば……。
「一匹たりとも生かしておくな!! 地上へ行かせてはならん!!」
命じると同時に自らも扉を閉じるべく念を込めた。
呪文の詠唱が徐々に大きくなっていく。
大声一喝。と共に、ハイヴォリアは腕を天に突き出した。
雷鳴にも似た響きが広間を吹き抜けて行った……。
やがて辺りに静寂が戻ると、手下の者の声がした。
「禁断の地には何者の姿もありません。既に奴らは地上へ逃亡した模様です」
しかしハイヴォリアの耳には何も聞こえてはいなかった……。
扉を閉める為にその魔力の大半を使い果したハイヴォリアは、力を再び蓄えるべく暫時の眠りに就いた。これにより魔族の地上侵攻が遅れたのであるが、それは後の話である。
話は地界に舞台を移す。地界には六つの大陸と七つの大海、そして大小無数の島々があり、そこに人間を始めあらゆる生物が生活していた。人間や亜人らは陸地に単一種族からなる集落を作り、それらは“国”と呼べる程の体裁を整えつつあった。
この世界の東の果てに“ヤパーナ”と呼ばれる小さな島国があった。ヤパーナとは伝説の黄金龍の名で、この国は地の狭さに比べて多くの人間が生活を営む、平和で裕福な国であった。国は一人の帝が治めていたが、当時の帝フィローフは賢帝と敬われ、この帝の統治する世には外夷内乱もなくヤパーナは繁栄の頂上を極めていた。
そんな或る夜の事であった。
ヤパーナの中央部、ラングフェルトの地の霊峰であり、ヤパーナ古来の神を祭るヤパーナ古神道の総本山として名高いポルトカッシュールの山頂より一筋の光が上るのが目撃された。見たのはポルトカッシュールの神院に勤める宮司であったが、その話によると、真夜中に全山を揺るがすような地鳴りが響き渡り、慌てて飛び出してみると霊山の山頂より一本の光の柱が屹立していた。柱はゆっくりと上に伸びて行き、やがて中天に達するとその先端から百余の星が四方八方へ飛び散り、地上へと落ちて行った。星が地上へ落ちると柱は消え、地鳴りも止んでしまった、と言う。
ヤパーナ古神道の最高位にある神院の天師はその話を聞いてこう予言した。
「それは三十六員の天罡星と七十二座の地煞星、合わせて百八の魔煞の物共じゃ。魔煞は熒惑星とも言い、常軌を行かず、無軌道に隠現明滅しておる悪星。それが地上に散蒔かれるとは、俗世はまた乱麻の如き様相となり、戦に明け暮れ、地獄絵図を描くじゃろう。魔煞はまた、天が世造りと人革めの為に地上に遣わし、仮初の悪を成し血を流す地獄仕事をしなければならないと言う宿命も持っておるが、いずれにせよ世は乱に入るじゃろう……やんぬる哉」
それから百と数十年の月日が流れた。ヤパーナはまだその平和を表面上は保っていた。
帝位も五代代わり、現在は女帝ミティスの治世となっていた。この女帝は大変聡明なお方であったが、如何せん側近に人が得られなかった。利に賢く金に群がり栄華を貪る奸臣共が好き勝手に政治を行ない、清吏賢臣は忌まれ遠ざけられてしまう有様で、国政はすっかり乱れていた。このような世情は地方にも当然現われ、県の長官や領主、里長の輩から果ては取るに足らぬ一下吏や一兵卒までが利を追い金を求め公然と賄賂を要求する、そんな世の中であった。心ある者は将来を憂えて幽山深谷に身を隠し、真面目に生きる事が馬鹿らしくなった者共は賊に身を落として役人や庶民を襲った。さらにここ数年は土着の人間型怪物共の動きが何故か活発化しており、かつてポルトカッシュールの天師が予言したような地獄絵図の始まりとも予感された。
そのヤパーナの西の都、ウェストキャピタルより南南西に百里程の所にある丘陵地帯、オークランドよりこの話は始まる。
オークランドは農業を中心とする小さな街で裕福な土地ではなかったが、領主以下役人も貪欲な人物が皆無で至って心根が真っ直ぐだったので、市民も安心して生業に打ち込め、街には活気が溢れていた。
このオークランドに一人の若者が住んでいた。
彼の名はシャオローン=シェン。
幼くして両親を失い、たった一人の肉親であった姉は領主の息子に嫁いだので、家と田畑を守りながら一人気ままに暮らしている若者である。だが、彼は只の農民ではなかった。ヤパーナ中にその名を知られる槍術の大家ワン=シェインに師事して、若くして「覇皇流槍術」を極めた槍の名手である。また無類の冒険好きで、怪物退治や宝物探索等で多くの冒険譚を創り、地元は勿論近隣でもよく知られている存在である。音楽をこよなく愛し六弦琴をよく弾く。また微かではあるが未来を予見できる能力を持ち、人々からは“天翔龍”と呼び倣わされていた。
今、彼は畑の傍らの草叢に寝転がって空を見上げていた。彼の顔の上に大きな影を投げ掛ける樫の大樹が風に合わせて枝葉を優しく揺らめかせる。その幹には、彼が先刻まで使っていたらしい鋤と柄の朱い直槍が立て掛けられている。怪物の動きが活性化してからは、彼は畑仕事に行く時も愛用の槍を携えるようにしていた。
「シャオローン!」
元気の良い少年の声が風に乗って聞こえて来た。
彼は半身を起こすと、微かに笑みを湛えた表情で声の主--小さな手足を思い切り振って駆けて来る少年に呼び掛ける。
「モト。学校は終わったのかい?」
「ウン」
モトと呼ばれたその少年は息を弾ませながら大きく頷いた。モトはシャオローンの近所に住む少年で、モトの両親は父母の亡いシャオローン姉弟を何かと助けてくれた人だった。シャオローンも折に触れて仕事を手伝ったり、十一歳年下のモトの相手をしたりして、家族同然に親しくしていた。特に長男のモトは好奇心旺盛で冒険譚や英雄譚が大好きで、シャオローンを実兄の如く慕い懐いて、いつも彼の冒険譚を聞きたがっていた。
「これからみんなと川へ遊びに行くんだ」
「そうか。川へ落ちないようにな」
「大丈夫! 帰ったらまた新しい話を聞かせてね」
「あぁ、いいとも」
走り去って行く後ろ姿を見送って、シャオローンは再び仰向けに寝転がった。
彼は木陰の下でここ数日の記憶を手繰っていた。表面上はいつもと変わらぬ日々であったが、彼だけは或る予兆を感じ取っていた。地の底より湧き上がって来るような波動--魔界より来る波動が彼の鋭敏な感覚を刺激し、警戒心を強めさせていた。しかも、その波動は日増しに強くなっていた。
“魔族の地上侵攻の日も近い--”
魔王ハイヴォリアが眠りから覚め、魔族全軍を率いて地上へ攻め込む時がやがて来るだろう事を彼は覚悟していた。そして、その余りに強大な敵に立ち向かわなければならない事も……。
そう、シャオローン=シェン--彼こそは百数十年前にポルトカッシュールの山頂より飛び出して散った百八星の一、魔煞の宿命を背負った翼竜シャオローンの転生した姿であった。
あの時地上に脱走した百八の魔獣は、ハイヴォリアと雌雄を決する日--来るべきその日に備えて地上の人間達の身体を借りて転生する事にし、人間界に紛れ込んだ。以来百数十年、魔煞の者は無数の一般の民衆の間に埋没し、その記憶を風化させている者もいたが、いずれは甦えらねばならぬ日が来る事を皆確信していた。
“早急に同士を集めなければ”
シャオローンは既に決意していた。彼、いや翼竜のシャオローンは、何の関係もない人間をこの宿命に巻き込んでしまった事を甚く後悔していたが、今や危急存亡の秋、躊躇してはいられなかった。
そんな事を考えていた時である。
「!?」
不意に、シャオローンは誰かの声を聞いた。生来耳の良い彼は、風に逆らって流れて来る今にも消え入りそうな微かな声を聞き取っていた。
神経を耳に集中させる。風下は--川だ!
跳ね起きざまに槍を掴み取り、彼は全力で走った。
モト達の身に何かあったのは間違いない。彼は怪物が出現した事を確信していた。
果たして、その確信は的中していた。
土手に駆け上がったシャオローンの目に、逃げ惑う少年達と手に短剣を携えて彼らを追い回す犬鬼--犬に似た頭部を持ち直立歩行する人間型怪物--の姿が映った。川から現われたらしい四匹の犬鬼は散り散りになって必死に逃げる少年達を銘々勝手に追い掛けている。
一人、こちらへ向かって逃げて来る少年がいる。
「モト! こっちだ!!」
叫びながらシャオローンは土手を駆け降り、モトを追う犬鬼に向かって行った。
「シャオローン!?」
逃げる足こそ緩めないが、モトがホッとした表情をする。
犬鬼も、自分に向かって来る人間がいる事に漸く気が付いていた。当面の相手を替え、短剣を大上段に構えてシャオローンに襲い掛かろうとした。
だが次の瞬間、気合いと共に繰り出されたシャオローンの槍は深々と犬鬼の胸を刺し貫いていた。
断末魔の悲鳴を上げる間もなく犬鬼は地に倒された。
残る三匹の犬鬼は強敵の存在を知った。子供達を打ち捨て、同時にシャオローンに掛かって行く。
しかし、ヤパーナ最強の槍術とも言われる覇皇流の奥義を若くして極めた彼に、例え三対一であっても最下級の怪物である犬鬼風情が敵しよう筈がない。一瞬後には、三匹とも地面を赤く染める骸と化していた。
「すごいや、シャオローン!!」
先刻までの恐怖も忘れてモト達は手を叩いた。話には聞いていたが、実際に彼が槍を扱うのを見たのは初めてであった。
「怪我はないか?」
「平気だよ」
「襲って来たのはこいつらだけか?」
「もっとたくさんいたよ。でも、ほとんど向こうへ行ったんだ」
モトは川の上流を指差した。
領主が管理している大農場の方角だ。
「解った。四人とも急いで家に帰って、この事を皆に知らせるんだ。他にも怪物がいるかも知れないから、十分気を付けてな」
「ウン!」
モト達が土手を駆け上がって行くのを見届けてから、シャオローンは再び走り始めた。
上流の高台にある農場は、シャオローンが予想したほど混乱してはいなかった。幸運にも畑に出ていた人間の少ない時だったので、恐慌に陥る事なく逃げ散る事が出来たようだった。しかし、中には逃げ遅れた人もいたらしく、伏し倒れて動かない人影が幾つかあった。それさえあるに、殺戮に飽き足らぬ犬鬼共は己が手に掛けた人間をさらに嬲って楽しんでいるようにすら見えた。
怒り心頭に発したのか、彼は槍を振り回して三十匹はいようかと言う犬鬼の群へ斬り込んで行った。
手近な所にいた五匹は気付いて応戦の姿勢を取ったが、足止めにさえならなかった。二匹は槍に叩かれて首の骨を折り、二匹は胸、残る一匹は喉を貫かれて絶命した。
さらに敵を蹴散らそうと進み掛けた彼だったが、その視界に動きのおかしい人影を捉えた。ふとそちらに目を遣る。
女性だ。何とか逃げようと上体を起こしているのだが、背後から斬り付けられたらしく、左足は夥しい出血で真っ赤だった。その横顔を見て、彼はアッと声を上げた。
「マッキー!」
目前の大群を放っておいて、彼はその女性の元へ駆け寄った。
「……シャオローン?」
名を呼ばれた当の本人も驚きの表情を隠せなかった。
マッキー--マキ=ヴァリスン。シャオローンの幼馴染みで、また仲の良い友人でもある。
シャオローンはすぐさま彼女を抱き抱えて、元来た方へ引き返した。彼女の傷は致命傷ではないが、出血が酷いので一刻も早く街に戻ろうとしたのだ。
相手が逃げに掛かったと見るや、犬鬼共は調子に乗って追い掛けて来た。人一人抱えているシャオローンの足では振り切れない。
彼は今一度向き直った。追撃に出た敵は勢い付く。ここで一度叩いておかねばならない。
先頭の犬鬼との距離はおよそ一丈半。片手にマキを抱えたまま、彼は渾身の力を込めて槍を振り回した。
槍の穂先は狙い違わず犬鬼の顳に命中した。左目を潰したらしい犬鬼は顔半分を朱に染めてのたうち回る。
後方にいた四匹は一瞬怯んだが、数を頼んで同時に襲い掛かった。
こうなると、右腕一本で槍を振るうシャオローンは見る間に旗色が悪くなった。巧みに動いて囲まれるのだけは避けているが、防戦一方に追い遣られて反撃はおろか逃げる事さえ覚束ない。マキを離せば犬鬼四匹ぐらい瞬時に滅せられるのだろうが、彼はそんな風に頭の回る男ではない。知らず、じりじり押されていた。そこへ、
「シャオローン! 無事か!?」
「今行く!! 持ち堪えろ!!」
遠く背後から声が聞こえた。振り返る余裕はなかったが、彼には誰が来たのか見当が付いていた。
犬鬼共は声のした方を見た。得物を持った人間が三人走って来る。三匹がそれに立ち向かった。
一対一では勝負にならない。最後までシャオローンと遣り合っていた犬鬼はあっさりと剣を叩き落とされ、怖気立ったところを背中から突き殺された。
他の三匹も同じ運命を辿ったようだった。甲高い怒声が次々と響いて、三人の戦士が何事もなかったかのように走り寄って来た。三人の刀はどれも血塗られている。
「有難い。助かったよ」
シャオローンは短く礼を言った。
この三人は、まず両手に二刀を持つ若者がアイン=カジス、大滾刀を振るう戦士がバート=クロス、朴刀を扱う長身の戦士がマーサ=ノースウェストと言う名で、いずれもシャオローンの友人で腕劣らぬ優秀な戦士である。
「他に敵は?」
「ここへ来るまでに随分屠ったが、まだうろついてる奴はいると思う」
バートがシャオローンの問いに答える。
「そうか。ならアイン、マッキーを頼む。バートとマーサは二人を守ってやって欲しい」
「ここは?」
「この程度なら一人で十分だ」
「解った。信用するぜ」
アインがシャオローンに代わって、マキを横抱きに抱えた。
「油断するなよ」
「そっちもな」
四人が去り、シャオローンはさながら荒神が魔物を踏み付けにするが如き直立不動で敵を待ち構える。残る犬鬼の一群がゆっくり迫って来る。先頭の一匹は騎乗しており、他の連中に比べて体格も一回り大きい。この群を率いる将、上位種族の犬鬼王である。
シャオローンは微動だにしない。目を閉じ、槍を垂直に構えた姿勢のまま何かを念じているようであった。
それまでの好天が嘘のように、空は厚い黒雲に覆われ、今にも雷鳴が響きそうである。犬鬼共は、シャオローンの体から発せられる禍々しい殺気に怯えたように、剣を携えてはいたが動けなかった。
《こ、このような魔性の気は、人間の発するものではない! あ奴は一体……!?》
犬鬼王がそう自分に問い掛けた時だった。
シャオローンの目がカッと見開かれた。
「シャオローンッ!!」
親指と人差指を直角に突き出した両拳を前後に重ね合わせる。その印があたかも龍の顔の如く見えたその時。
雷鳴一閃。
シャオローンの背から空に向けて、一条の目映い光が迸った。
その光に吸い寄せられるように、彼の周りに漂っていた黒気も天に上って行く。
黒気は渦を巻き奔流となり、その光景は黒い竜巻そのものである。
突如、天空に爆発的な閃光が煌めいた。
発生した時と同様、嵐は急速に消失した。その後には、シャオローン--槍を持った若者の姿はなかった。
代わって、今し方まで彼がいた場所の上空に、龍に似た巨大な異形の怪物が鎮座していた。
全身を覆う緑の鱗、首と尾は長く翼は大きく、均整の取れた体付きをしている。前足はない。頭には四本の角を持ち、犬鬼共を睨まえる二つの瞳は炯々と不気味な赤い光を放っている。
シャオローン--魔煞の翼竜、百数十年振りの復活である。
〈シ、シャオローン!? き、貴様、やはり転生しておったのか!?〉
驚きを隠せない犬鬼王に軽く目を遣って、シャオローンは悠然と答える。
〈ほぅ、バガムス。姑息な臆病者が魔王の威光を傘に着て、偉くなったものだな〉
これにはバガムス、流石に頭に来たらしい。
〈だ、黙れっ!! ハイヴォリア様に楯突く愚か者めがぬけぬけと!!〉
〈我ら魔煞の者は己が星の運命に従うのみ。ハイヴォリアの何が恐いものか!〉
〈おのれ! 人もなげなる雑言、許せぬ!! それっ、者共! あの裏切り者を討て!!〉
しかし、バガムスの一言は余りに勇み足だった。例え犬鬼が百匹がかりでも、大空を自由に飛翔する翼竜に傷一つ付けられるものではない。まして相手は歴戦の強者である。無茶な命令をされる部下こそ哀れだ。いや、勇む本人さえ手立てがないようだ。
そんな連中の狼狽振りを上空からシャオローンが嘲笑う。
〈ならば、せめて面目の立つような死に方をさせてやろう!!〉
彼は大きく口を開けた。喉の奥から赤い光が漏れる。
と見る間に、それは猛烈な勢いを伴った火炎となって地上に降り注いだ。犬鬼共は悲鳴を上げて逃げ惑う。
シャオローンの火炎息だ。高温の猛炎は目標物を焼き尽くすまで消えはしない。龍族特有の能力だが、翼竜でこの能力を有する者は決して多くはない。
--数百度の火炎が舐め尽くした地面には、バガムス以下二十匹余りの犬鬼の焼け焦げた屍体が累々と横たわるのみであった……。
真夜中だと言うのに、その家には灯が点っていた。
家、と言っても、台所と寝室の二部屋しかない。扉を開けるとすぐそこが台所であり、木組みの卓と椅子が四つ設えてある。正面の壁は左側の一角が開いている。この奥が寝室である。寝台は二つ。うち一つは長く使われていないようだった。
一家四人が住まうには狭過ぎるが、一人で住むには丁度良いくらいであろう。
現在のこの家の主、シャオローン=シェンは旅立ちの支度に追われていた。生まれてからずっと慣れ親しんだ、そして四年前に姉ティルシアが嫁いでからは文字通り一人で守って来た家を、彼は遂に離れる決心をした。
後事はモトの両親ナザー夫妻に託してある。心配はない。
「寂しくなるわね。早く帰っておいでよ」
ナザー夫人はそう言ってシャオローンを送り出してくれた。シャオローンはそれに対していつもの通りに笑っていた。
一揃え必要な物を頭陀袋に詰め込み終わって、シャオローンは腰掛けていた寝台の上から立ち上がる。その体は既に革鎧を着込んでいた。そして彼は後ろの壁に掛かっている薄土色のマントを取り、革鎧の上から羽織った。二つとも、彼が冒険の旅に出る時必ず身に着けているものだ。
そしてもう一つの愛用の品、朱塗りの直槍を握り締めて彼は寝室を出る。
台所を足早に抜けようとして、彼はふと足を止めた。
その視線の先、卓の上に三つの写真立てがあった。それぞれが単色の時間と風景をそこに留めている。
一枚は、生まれて間もない頃のシャオローンと一家四人の唯一の写真。
一枚は、ティルシアとその優しい夫の写真。
真ん中の一枚は、学校卒業当時のシャオローン。周りに親友達--アイン、バート、マーサ、マッキー達--の姿が見える。
三枚の写真に写る一人一人の顔をしっかりと見つめ、それから彼は暫し目を閉じた。
やがて、顔を上げた彼の瞳は、どこか遠い未来を見ているようであった……。
“また、戻って来る日もあるか……”
灯は消え、木の扉は閉じられた。主が旅立つ度に見られる光景である。
しかしシャオローン自身、今度の出発にはこれまでと違う何かを感じていた。
目的が目的である。行き先も定まっていない。相手も、これまでとは比べ物にならないくらい強力である。
不安は残る。それでも行かねばならない。
これが運命なのだと自分に言い聞かせて--。
そんな事を考えながら土手を歩いていたシャオローンの前に、一人の人影が立ち塞がった。
「アイン……」
正体を認めたシャオローンの口から、驚きの交じった呟きが漏れる。
「シャオローン、こんな時に旅、か?」
「こんな時、だからさ」
図らずも本音が出た。
そのまま擦れ違おうとするシャオローンに、アインが重ねて声を掛ける。
「シャオローン、お前は一体……」
アインはそこで言葉を切った。シャオローンの足が一瞬ピタ、と止まったからだ。
だが、アインの方に向き直った彼の顔は、微かに微笑みを湛えたいつもの表情だった。
「お前が思っている通りのシャオローン=シェン……それ以外の何者でもないさ」
長年信頼し合い、腕を競い合った無二の親友の間では、これで十分であった。
「アイン、この街の守りは頼んだぞ」
「ああ、勿論だとも。……シャオローン!」
「何だ」
「お前の家はここだぜ。いつでも戻って来いよ」
アインらしい友情の示し方であった。それが解るだけに、シャオローンは涙が出るほど嬉しかった。
「……ありがとう」
シャオローンは足早に去って行った。涙を見られまいとする仕草である事はアインにも十分解っている。いや、他人事ではない。彼自身も、不覚の涙をじっと堪えていた……。
こうして一人の若者が旅立った事により、一度は人中に隠れた魔煞星が再び集い、やがて人魔入り乱れての一大戦絵巻を興すのであるが、果たしてシャオローンの旅路に何が待ち受けているのか? それは次回で。