少年と魔女の影
レックス少年は十歳くらいだろうか。成人前なのは間違いなかった。
「巨人の足元に行ってみたかったんですか?」
「そうなの。行ってみても大丈夫かしら?」
リーゼロッテは胸を張って、少年を威圧するように訊いた。そんな威圧などどこ吹く風、レックスはニッコリ笑って首を横に振った。
「お勧めできません。近寄ると踏みつぶされますよ?」
ゆっくり、落ち着いた口調は、まるで見た目の年齢と違う。
ララはレックスの服装を見る。清潔で仕立ても良さそうな、それでいて地味……な服を着ている。華美ではないから貴族ではあるまい、と当たりを付ける。
「踏みつぶされる?」
「はい。地元の人は近づきません。時々近づいて怪我をする人がいますけど、例外なく地元の人じゃないです」
レックスは胸の前で腕を交差させて×印を作った。そんな、何気ない仕草だというのに、ララの胸は締め付けられた。この、モチモチした少年を抱きしめたら、どれだけの柔らかさを堪能できるだろうか。
「でも――――」
ちょっとだけならいいでしょ? と言いたげに、リーゼロッテはレックスを覗き込む。
「お嬢様、彼の者が注意を促してくれているのです。素直に従いましょう」
ララは内心の興奮を必死に隠して無表情を作り、諫言をリーゼロッテに投げる。
「……わかったわ。レックスと言ったわね。忠告受け取っておくわ。色々と見て回りたかったのだけど……」
「お嬢様、その前に宿を取りませんと」
ララは諫言ついでに話を戻そうと画策する。
「それなら、知っている宿を紹介しましょうか?」
レックスがそう言ってくれるだろうと期待して。そして、それはララの思惑通りに行ったようだ。
「お願いしてもいいでしょうか? その……レックス……くん」
「レックスでいいですよ。ええと……」
「ああ、こちらはリーゼ・ポーザーお嬢様。帝都にあるポーザー商会のご令嬢です。私は従者のララ・アイグナー」
何度か練習したように、ララは滑らかに偽名を名乗った。
「そうなんですか。はい、ご案内しますよ。ご希望はありますか?」
リーゼロッテとララがプロセア帝国の人間だ、と聞いても、レックスは特に感想を述べなかった。表情が全く変わらず、ニコニコしていた。
「特にはないわ」
「魚料理とかは大丈夫ですか?」
「泊まるだけでもいいのですが」
ララがそう言うと、
「ポートマットに来たなら、名物料理の三つや四つや五つや六つは食べていった方がいいですよ。実際、帝国に持ち帰って類似商品が増えているという話も聞きますから」
三つや四つ? 五つや六つ? リーゼロッテの目が光ったのをララは見逃さない。
「そ、その名物料理というのは……」
「ご案内しますね」
ニコニコっ、と笑いかけて、レックスは先導を始めた。この少年は、一体何段階のニコニコを持っているのか。
歩きながら、リーゼロッテとララは、レックスの背中に向かって話しかける。
「レックスはどこかの大店の息子さんとか?」
「いいえ、ただの従業員ですよ。中地区にあるトーマス商店っていうところで働いています」
「あ……」
ララが把握していたグリテン王国の情報の中に、その商会の名前があったことを思い出す。『仲間には甘々、敵には容赦なし、早期に軍門に下らねば、肉や毛、臓物の全部を売られた挙げ句に、骨の不死者として何百年も働かされる』という悪徳商会――――。
そんな恐ろしい場所で、この無垢な少年が働かされているというのか。途端に、レックスの笑顔が悲しみを隠すものに見えてくる。
「そうですか。辛い思いをされているのですね」
「いえ、毎日色々なことが起こって楽しいですよ?」
ララの思い込みを笑顔で否定するレックスは、あはっ、と声を出した。
「そんな無理を――――」
無理をして笑わないでいいんですよ、と言おうとした矢先、声が掛けられた。
「おーい、レックス!」
「あ、ハミルトンさん。仕入れですか?」
「おうよ。お? 何だ、女連れか?」
ハミルトン、と呼ばれた少年は、レックスに比べると年齢は遙かに上に見えた。
「帝国の商会の方ですって。宿まで案内して差し上げようかと」
「へえ、女性には優しく、が染みついてんなぁ……」
「ええ、まあ……」
レックスとハミルトンはしばらく乾いた笑いを見せていた。
「おっと、じゃあ、市場いってくらあ。またな」
「はい、またです」
ハミルトンは西の方角へ向かっていった。その方向に市場があるのだろう。
「あの人は、近所の果物屋さんの一人息子なんです。頑張ってますよね」
「ほう……」
リーゼロッテは、レックスとハミルトンのやり取りを見て感心している。今のどこに感心する要素があったのか、ララにはサッパリわからない。ただ、レックスも年相応の笑顔を見せるのだな、と何故か嬉しくなった。
北に向かって広い道を歩いていたところで左の路地に入ると、一転して小さな商店が軒を連ねていた。
「あら、賑やかね」
「はい、ギンザ通りっていうんです。飲食店や宿が集まってます」
この程度の店なら帝都にもある。それでも、ララの知る飲食店というのは、硬い肉と薄い酒を提供する店のことだ。この商店街に入ってから、妙に食欲を刺激する、香ばしい肉の焼ける匂いが………。
「あー、マイケルさん行っちゃったか……」
「マイケル?」
「ポートマット名物の一つですよ。マイケルさんの屋台で売られる串焼き肉は絶品なんです。神出鬼没で不定期にしか出店しないんです」
レックスが初めて悔しそうな表情を見せた。それほどまでに美味しいのか。確かに残り香だけでも…………。
ぐぐぅ
「あっ」
リーゼロッテとララは同時にお腹を鳴らした。恥ずかしさに身悶えすると、レックスも空腹に身悶えていた。
「お腹空いちゃいましたね。急ぎましょう」
レックスが小走りになったので、リーゼロッテとララも、空腹を抱えながら付いていった。
* * *
「あら、レックス。いらっしゃい」
「こんにちは、カーラさん。お客さんを連れてきましたよ」
「いらっしゃい、お二人?」
元気いっぱいのカーラは、青い髪の少女だ。背は高く無く全体的にガッシリした印象があり、特にお尻の丸みは、男性の視線を釘付けにするだろう。
「ああ、二人分、空きはあるかしら」
「大丈夫ですよ。馬はありませんね?」
「船で来たのよ」
この店には厩なんてないじゃないか、とララは思ったけれど、こういう小さな宿が集まっているのであれば、どこか別の場所に共同で使える厩があるのかもしれない。
レックスが案内してくれた宿、『シモダ屋』は小さい店で、よくあるように一階が飲食店、二階が宿になっている。トーマス商店なんていう有名店に勤めているのであれば、もっと豪華な宿を紹介するかと思いきや、思い切り庶民的な店だ。
「はい、こちらをどうぞ」
カーラに手渡された紙には、提供できる料理の一覧と、値段が表示されていた。
「これは……何?」
リーゼロッテは腐っても一国の姫で、ララと同じように、『メニュー』を見て驚愕していた。
レックスは二人の反応を見て、すぐに合点がいったのか、
「本日のお勧めはツーナのステーキ、温野菜のサラダ、貝のスープ、白パン、食後のハーブティーのセットですね。それにしますか?」
と、ランチセットをお勧めしてくる。リーゼロッテが、こういった店に不慣れだと一発で見抜いたのだ。実に機微に富んだ対応で、ララはそこにこそ注意を向けるべきだったのに、『メニュー』を見た驚きと空腹で、しっかりと見落とした。
「では、それをいただくわ」
「私も」
「ボクは白身のフライセットと――――お水も三つください」
「はい、注文ありがとうございます。暫くお待ち下さい」
レックスは常連なのか、注文に躊躇いがない。そして、リーゼロッテとララの注文で足りなかったものをさりげなく補足した。そうか、お水は別だよな、普通そうだよな、とやんわり指摘されて、気が利くレックスに、ララはますます好意を持った。それはリーゼロッテも同じで、レックスを見る目は、今までに見たことがない程に優しい色をしていた。
カーラは後ろにまとめた青い髪をぴょこぴょこ揺らして厨房へ戻っていく。それを見送ると、内緒話をするようにリーゼロッテとララは静かに頷きあった。
「お嬢様、これは……」
「『メニュー』ね……。商品と値段の一覧が掲載されているなんて、すごい発想だわ!」
「グリテン恐るべし………」
ララが戦慄したところで、レックスが二人にとっての爆弾を投げつけた。
「珍しいですか? 何でも、こういう風に一覧にして値段を書くように勧めたのは、ボクの姉貴分で……ああ、『ポートマットの魔女』って言って通じますか?」
リーゼロッテとララは大口を開けて、今度は泣きそうな顔で見つめ合った。
* * *
食後のデザートを食べた後、レックスは店に戻り、リーゼロッテとララは『シモダ屋』二階の一室で、向かい合って座っていた。
二人の表情は深刻そのものだった。
「ツーナのステーキ、美味しかったわ……」
「あんな大きな魚、食べられるんですね……」
柑橘類による香り付け、黒くとろみのついたソース……。丁度良い加減で焼かれたツーナの肉は外側が香ばしく、中は肉汁を保っていた。
「そうよ! あの調味料よ! ショーユ?」
「カーラ嬢がそう言ってましたね。プロセアに無い物ばかりです」
「スープも独特だったわね……」
「ミソ・スープでしたっけ。あれもミソなる調味料が創り出した味とのことでした」
貝のスープというものだから、小麦粉でとろみを付けたチャウダーが出てくるものだと思っていたところ、二人にとっては奇異な物体が出てきて面食らい、試してみたら実に美味だったことで、さらに面食らった。
「白パンも美味しかったわね」
「あのような美味しいパンを毎日焼く店が、ポートマットには数店舗あるとのことでした……」
「あと!! デザートで注文したのが……!」
「カボチャプディングですね……!」
滑らかで仄かな甘味のあるカボチャプディングは、リーゼロッテとララをして衝撃的な味わいで、今も口の中にとろける感触が残っているかのようだ。二杯目のおかわりをしようとしたところでカーラに止められた。
「カーラさんが言ってたわね」
「ウチより美味しいカボチャプディングがある、と」
あれよりも美味しい、と店員自らが断言したということは、明確に差があるのだろう。カーラは自分の店の他に三つの店を挙げた。中には『シモダ屋』と同じく宿を兼ねた飲食店があったのに、ウチのお客さんだし、などと言いつつもメモを書いて渡してくれたのだ。
「この『紙』をホイホイくれるというのも凄いことだわ」
リーゼロッテが言うように、紙は超が付く貴重品だ。確かに、とララも深く頷いた。
カボチャプディングの件は、一緒に食べていたレックスによって、二人にさらに混迷を投げかけていた。
「レックスが言っていたわね……」
「『ボクはここのカボチャプディング、好きですよ?』」
「そこじゃないわ。カーラさんが挙げた店よりも美味しい、という」
「ああ……それも三つ挙げていましたね」
レックスが挙げた、ポートマットで美味しいカボチャプディングランキングは、
③ ハミルトン手作り
② 『魔女』手作り
① 『魔女』のお婆ちゃん手作り
ということで、ここでも『魔女』の名前が出てきて、リーゼロッテとララはまた大口を開けて見つめ合ったのだ。
しかも、元々、カボチャプディングは『魔女』が作ったレシピが元祖だという。
「ショーユもミソも白パンも、グリテンに降臨した勇者が伝えたものだと言っていました」
「その流れから言えば、『魔女』は『勇者』なのかしら?」
「少なくとも、グリテンにしてみれば『勇者』でしょうね」
なるほど、ヤマグチも短い期間ながらプロセアにもたらしたものもある。たとえば香辛料を混ぜ込んだ挽肉を丸めて焼いたもの。これは宮廷料理に組み込まれるほど、プロセア貴族社会で人気になっている。他にはヤマグチと恋仲だった、エルヴィーネ姫経由で伝わったものもあるが、これはいわゆる性技で、ヤマグチとエルヴィーネの爛れた関係を想像させるものだ。詳しい内容についてはリーゼロッテは興味もなかったので聞いていない。
エルヴィーネはリーゼロッテの上の姉で、勇者ヤマグチと一緒に死んでしまった。出奔していたその上の姉、アンヌも『魔女』に殺されたとされている。
ララが騎士団の上司などに聞いた話では、半年前の戦争で捕虜となり、返還された貴族たちは例外なく洗脳されていたのだという。グリテンを攻めるな、友好的に付き合え、と。その尖兵が『英雄』ヴィンフリートだというのだから笑い話にもならない。
こうも影響力のある『魔女』とは何者なのだろうか? リーゼロッテにしてみれば、兄二人をダメ人間に変え、姉二人を惨殺した人物だ。それなのに興味しか湧いてこない。
「カボチャプディング………食べ歩きにいくわよ」
「は?」
まだ食べるのか。だからそんなにだらしない体型なんですよ、と思わずララは言いそうになった。もちろん、我慢したけれども。