少年と影
ポートマット西迷宮から暫く南に行くと、岩場の海岸に出る。レックスは普段、この場所か、風船海岸で、短い時間であっても剣を振る。
アーサ宅の庭で剣を振ってもいいのだが、庭には色々な植物や作物が植えられていて、体を動かす場所が余りないのだ。レックスは恥ずかしがり屋で、あまり自分がしている努力を見せたくない、ということもあった。
同居している剣の師匠が稽古をつけてくれるのは殆ど夕方以降で、多忙に多忙を重ねたレックスとタイミングが合うのは五回に一回ほど。細身少女の方が教わっている回数は多いはずだ。
負けん気、という訳ではないが、後から剣を始めた細身少女よりは上手くなっておきたい、という気持ちもあった。しかしそれは副次的な理由、言い訳だろう。本音としては、体をちゃんと動かしていないと、淫靡な妄想に囚われてしまうからだ。
性欲の発散を剣を振ることで行っているのだが、それでも溜まるものは溜まる。早熟なレックス少年は、順調に大人の階段を昇っている。
「あれ…………」
「レックス……?」
夕闇に染まろうとする紫の海岸に、二つの人影が見えた。
人影二つが主張する胸の膨らみは、レックスが指導した胸の形、そのままだった。そのことに気を良くしたレックスは、岩場をピョン、ピョンと刎ねるようにして、二人に近づいた。
「リーゼさん、ララさん? どうしてここに?」
「ふふ……感傷的な気分だったからよ」
リーゼロッテは微かに笑う。
「ああ……じゃあ、もうすぐ?」
察しのいいレックスは、滞在期限のことだとすぐに気付く。二人の滞在証明書の発行を代行したのはレックスだ。
「うん。明日には港に行って、明後日くらいには国に戻るわ」
「その前に一度くらいは挨拶をしたいと思っていた。色々、世話になったね」
リーゼロッテとララは続けて喋る。世話らしい世話など……造形美の追求をさせてもらい、レックスの方こそ二人に感謝したい気分だった。ララの方は『ザ・リバース』として下着の強制着用こそ叶わなかったが、直にこの手で触りまくったから、満足だ。
「いいえ。結局案内らしい案内もなかなかできないで……」
「ううん。嫌な目にも遭ったけど……この旅は私にとって大事な思い出になったわ」
「酷い目に遭ったけど、発見に満ちた旅だったよ」
「そうですか……。また是非、いらして下さい。ポートマットはいつでも歓迎しますよ」
他人行儀な言い方で、レックスが言うと、リーゼロッテとララは暗がりの中でもわかるほど、落ち込んだ表情になった。
「リーゼさん? ララさん?」
その時、リーゼロッテとララは岩場を慎重に歩いて、レックスの方に近寄ろうとした。二人がかりで抱きしめようとしていたのだ。
ザーッ!
しかし、それは岩場の影から発せられた水音によって止められる。
「!?」
「ぐぇ………かはっ」
人の声がする。
溺れている?
ララは騎士としての博愛主義、義務感からか、レックスに近寄るのをやめて、岩場の影へ向きを変えた。
「ララさん、危ない!」
「大丈夫だ!」
鍛えられた肉体が躍動する様を見て、レックスは安心と……影への不安を同時に感じる。
「大丈夫ですか!?」
ララは声をかけて、岩場に腰掛けた状態の影に近寄る。
影はゆっくりと立ち上がり―――――近づいたララに―――――ふらり、と拳を向けた。
速い! レックスは冷静にそれを分析する。避けられない!
「はぐっ」
顔を殴られたララは、岩に背中を打ち付ける。いや、下手をすると頭を打ったかもしれない。気絶の声も出せなかったのだ。
レックスは戦慄する。これは危険な相手だ!
「ララさん!」
「ララ!」
影は素早くララに近寄り、その腰に差してある細剣を奪った。
「けほっ。ふん……」
咳をしながら、鼻を鳴らすという器用なことをする影だった。
ララは動かない。気を失っているのか。しかし、この場合はそれでよかったのかもしれない。意識がある、と判断されたら、その細剣で刺されていただろうから。
「ララに何をっ! この下郎がっ! わたくしは帝国第五王女…………」
リーゼロッテは激昂し、言ってはならない事を言ってしまう。
「こほっ、ほう? 帝国の姫? ここは大陸か」
影はそう解釈して、リーゼロッテに近寄る。
「やめろっ!」
レックスが、その小さな体で影の進行を阻む。
「けふっ、ガキがっ」
ぴゅう、と細剣が迫る。この足場の悪い岩場で、それは避けきれない速度だった。
ガ、イン!
レックスは剣を避けきれず、首から提げていた『守護の指輪』が『障壁』を発動させた。
「ちっ、こほっ」
影は舌打ちをしながら咳き込む。
レックスは『障壁』は展開したものの、剣の威力そのものは殺せずに吹っ飛んだ。剣圧、というものだが、これが出来るのは相当な手練れと言えた。
「ぐっ」
小さな体のレックスは岩場の間に入り込んでしまい、影は追撃できずに再び咳き込みながら舌打ちをした。
「本当に姫さんか? けほっ」
忌々しい塩水め! と海を一瞥してから、影はリーゼロッテに視線を移す。
「近づくでないぞっ!」
叫ぶリーゼロッテには構わず、影は岩場をものともせずに移動して、その手を掴み上げる。
「けほっ」
「触るなっ! 不敬であるぞ!」
「ほう……なかなか良い体をしている。いい胸、いい腰、いいお尻。いいじゃないか。ちょっとだけ。触らせてもらうぞ。こほっ」
「いーやー!」
「五月蠅いな。お前が姫だろうが何だろうが関係ない。穴があれば入れる。それが男だ! けほけほっ」
無茶苦茶な理論を開陳しつつ、影は咳き込みつつ、リーゼロッテの腹を殴った。
「ぐ、えっ」
あんな危険な速度で放たれた拳が! リーゼロッテの腹にめり込んでしまった!
穴から這い出たレックスは、その衝撃的な場面を見てしまった。あれでは内臓が破裂してしまう! ララも危険、リーゼロッテも命が危ない!
レックスは逡巡する。このまま剣を出して戦っても勝算は著しく低い。
レックスは逡巡する。この影に対抗するには、アレを使うしかない。
レックスは逡巡する。しかし、それでも勝てなかったら?
レックスは逡巡する。サリーに自らの下着を履かせる、その計画が……。
いや。
何もしなければ、この場でやられてしまう。
これは計画にはないことだ。
しかし、計画とはいつだって狂うものだ。
いつだって軌道修正、それが当たり前なんだ。
だがッ!
自分の道は自分で切り開く!
レックスは心を決めた!
素早く取り出した下着を被る。
「むっ? かはっ」
影がレックスに気付き、細剣で突き刺そうと跳躍した。
「――――『ゲチャク』!」
「けほっ……むうっ!?」
影の足が止まる。瞬時にパンツを被った肉塊へと変身したレックスに、影は最大限の警戒をした。
ここに至って影は塩水を全て吐き出し、呼吸も整ってきた。
「けほっ!」
整っていなかった。
が、咳き込みながらも剣先鋭い突きが連続して一号を襲う!
ピピピピピッ
そのどれもが肉を切り裂く危険な刃だ。
足場の悪い岩場では、速い細剣を回避するので精一杯だ。
「むん!」
レックスは一度距離を取ろうとして後に跳躍する。
「逃がすか。っけほ」
落ち着いた口調で影は追撃をする。
レックスとしてはリーゼロッテとララから離れたかった。しかし、レックスと影では、一歩の長さが違いすぎた。あっという間に間合いを詰められる。
しかし、それだけでもレックスには十分だった。
「風の! ブラァァァァ!」
別に叫ばなくても魔法は発動するのだが、何事にも気分というものは存在する。
「け! ほ!」
岩を動かし、横から影を襲わせる。
「笑止! けほ! ―――『強打』」
影は飛んで来る岩に向かってスキル打撃を行った。
スキルを放った直後は硬直時間が僅かにある。大技を使った直後を狙え、は基本中の基本だ。
ドガッ!
砕け散る岩、その隙にレックスは影に向かって突っ込んだ。影の後の岩にぶつけようと、体当たりを試みたのだ。
「けほ………」
しかし、影は百戦錬磨だった。ゆっくりと細剣をレックスの頭に乗せて―――――緩慢な動作で―――――額の魔法陣を僅かに傷付けた。
「あっ!」
驚きの声を上げるが、遅かった。ゆっくりとした動作は『障壁』を展開させず、傷ついた魔法陣は、『認識阻害』の発動を止めてしまう。
認識阻害のあやふやな視覚情報が消えて、元の少年の姿が現れる。
「どうした、パンツ坊や。パンツがないと生きていけないか? けほ」
「…………」
レックスは睨みながら、被ったパンツをゆっくりと脱いだ。額から血が出ているのは感触でわかる。手に持ったパンツにも血が付いている。
何を思ったか、レックスはブラジャーからの風も利用して、パンツを影に投げてしまう。
「むっ? けほ?」
女性用のパンツとわかっているものを切ることはできなかったのか、影はパンツを受け取ってしまう。
よせばいいのに、影は思わず臭いを嗅いだ。
その仕草を見て、レックスはニヤリと笑った。
あまりの不気味さに、影は一瞬たじろぐ。
「け……ほ……。何がおかしい……?」
見れば魔法陣が刺繍してあるパンツだ。よくわからないが……血がついている。
パンツに血……!
それが目の前の少年の血だということは頭では理解できていた。しかし、影は女好きが高じて、あらゆることを淫らな妄想に変えてしまう。それは正しく、破瓜の血を連想させるものだった。
「けほっ!」
咳き込みながら、影は何を思ったか、渡されたパンツを被ってしまう。
だが!
影の耳は横に長かった!
上手く被れなかったのだ!
慌てる影、それを見逃すレックスではなかった。
「ふん!」
レックスは風のブラジャーを自らの背後に向けて、殴るように使った。
ドガン!
背後の岩が爆発したように吹き飛び、反動でレックスの体も前に飛んだ。
「け……!」
「――――『光刃』!」
飛んでいくレックスの下半身――――いや下腹部――――いやいや、男の子の部分――――が鈍く光る。
影の顎にレックスの下半身が直撃すると、影の体は二つに折れたかのようにグニャッと曲がった。
パン……
腐った果実が割れるような、生理的に不快な破裂音が響く。
一方のレックスは下半身に鈍い痛みが走っていた。『光刃』は強化系の魔法で、発動した物体の周囲を保護しつつ、切れ味を高める。それを男性用パンツに刺繍していたレックスは、まさか、こんなものが役に立つとは思ってはいなかった。シャレで刺繍をしただけで、運針がしやすかった強化魔法は、それしか思い浮かばなかっただけ……。
痛い、痛い、痛い!
もう、自分の下半身は使い物にならないのではないか………そんな恐怖が襲ってくる。
しかし、レックスは歯を食いしばり、ふらつきながらも影の状況を確認する。
パンツを被ったまま、その後頭部は岩に叩き付けられ、頭蓋が割れて脳漿が飛び散っている。これで生き返ったら笑うしかない。
「ふ……ふふ……」
レックスは薄く笑い、影が持っていたエルフ耳を見て、さらに笑った。
男はパンツを見たら被りたくなるもの。
パンツを渡されたら被る。
そう読んでのパンツ投げだった。
影がパンツを被り慣れていれば、耳が長いことも関係なく、スムーズに被ってみせたことだろう。
だがしかし! 一般的なパンツとはすなわちカボチャパンツだ。
裾の短い、このパンツを見たら、高い確度で被る。
つまり、影が男エルフだったこと。それが敗因なのだ……!
時と場所と立場が違えば、このエルフ男はレックスの友となったかもしれない。
何を考えて海から登場したのかはわからない。
何を考えて突然攻撃してきたのかもわからない。
全ては巡り合わせが悪かったのだ。
「ん……むう……」
意識が途切れそうなレックスは、歯を食いしばって、六枚目のパンツを取り出した。このままレックスが死んでしまえば、その周囲にバラ撒かれた物品の中から出てしまう。それだけは避けたかった。
かすむ目で倒れたリーゼロッテを見つける。気絶しているだけで、呼吸は安定しているようだ。
「――――『治癒』」
水系の治癒魔法をリーゼロッテに行使する。内臓が傷ついていたとしても、今の内なら助かるかもしれない。
目がかすんできたレックスは、岩場を這うようにしてララに近づく。
ララの背後からは血液は出ていないが、頭を打っているのならばやはり危険な状況に変わりはない。
「――――『治癒』」
レックスは、残っていた全ての魔力を使って、治癒魔法をララに浴びせた。
何故、こんなにもリーゼロッテとララを助けたかったのか、レックスは自分でもよくわかっていない。
ただ、助けなければならない、と思ったのだ。
ララの呼吸音が聞こえてくると、レックスは六枚目のパンツを手放し、意識も手放した。




