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時計が午後3時半を示す頃、職員室を飛び出した彩菜は3年5組の教室を目指して走った。
職員室と3年生の教室、そしていくつかの特別教室のある2階には、既に他の人の姿はなく、廊下を走る彩菜を咎める人も行く道を塞ぐ人もいなかった。
職員室からたった4つしか離れていない教室までの短い距離を全力で走り、2つある扉のうち、黒板側の扉を勢いよく開けた。
中にいるかどうかなど確認せずとも、その人物がいるということはわかりきっていた。
「隆文!やったよー!!」
お目当ての人物は、扉から真正面にあたる1番前の窓に寄りかかるように立っていた。制服を気崩すことなく、セーターとブレザーをきっちりと着た少年は、彩菜の声を聞いて微笑んだ。
「彩菜は大丈夫だって、俺は何度も言ったでしょ」
「え~でもでも自信なくて~。あ!隆文の教え方が悪いとかそうじゃなくてね!」
「はいはい、いいから1回落ち着いて」
興奮気味の様子で捲し立てる彩菜に呆れることなく、優しく言葉を挟んだ。
でも~と話し続けようとする彩菜の頭にぽんと触れると、言葉は止まった。
「彩菜、大学合格おめでとう。これで4月からは花の女子大生ってやつだね」
隆文の言葉に、照れたように笑う。そして
「ありがと!隆文のおかげだよ!」
素直な気持ちを言葉に乗せた。
行きたい大学はあるのに偏差値が足りない~と嘆いていた彩菜に、隆文は1年間毎日のように勉強を教えていた。
「彼女の夢を叶えるお手伝いをするのは、彼氏として当然です」
「やぁだもー隆文は何言ってるのー!」
照れ隠しで隆文の肩を軽くパンチする彩菜を、隆文も照れたように頬をかきながら見守っている。
「そういえばさ」
話しながら振り向いた隆文は、自分の背中が触れていた窓を少しだけ開けた。窓の外からは、新鮮な空気と野球部とサッカー部の声が入ってくる。
「彩菜は、どうして俺がここにいるってわかったの?」
「それは……愛の力ってやつ?」
おどけたように返すが、彩菜自身、何故わかったのか、わかっていなかった。
しかし、ここにいる、と強く確信していた。
「彩菜はすごいな」
隆文は力強く言ったが、背中は落ち込んでいるようだった。表情は見えない。
「あーあ、俺も大学行きたかったなー」
「そ、そういえばね!さっき職員室行った時、中村先生が……」
「彩菜」
「中村先生が……飴くれて……『よく来たな。辛かっただろ』って。おかしいよね?だって私、第一志望に合格して、その報告に来たのに……嬉しい報告に来ただけなのに……」
隆文は「そうだね」と同意してくれるわけがないとわかっている。わかっていても彩菜は、現実を否定したくて、言ってしまった。
「俺がここにいるってわかって彩菜が来てくれたっていうより、彩菜がここに来るってわかってて俺が来た、てことなのかな?」
すごいのは俺の方かも、と言う声は明るいが、相変わらず表情はわからない。
「ねえ隆文」
どんどん不安が大きくなっていく彩菜は、振り向いてもらいたくて名前を呼んだ。
しかし隆文は振り向いてはくれなかった。
教室の中は沈黙。野球部とサッカー部の声も彩菜には届かず、彩菜の耳には早くなるばかりの心音しか聞こえていなかった。
どのくらいの沈黙が続いたのだろうか。彩菜は冷静に時間の進み具合を感じることなどできなくなっている。
どうしたらずっとこのままでいられるのだろう、隆文をここに閉じ込めておくにはどうしたら……。
「あーあ、俺もう限界みたい」
「えっ……」
隆文の言う事が理解できなかった。いや、理解したくなかった。
「彩菜」
やっと見ることのできた隆文の顔は、今まで見ていた背中とは違い、とびきり明るい表情だった。
「俺のことは忘れて、幸せになってね」
「待っ…」
彩菜が手を伸ばした先には誰もいなかった。
まるで最初から誰もいなかったかのように。
開いている窓から吹いてくる風が、彩菜の濡れている頬を冷やす。
「何だよそれ……隆文の馬鹿……」
1人教室から空を眺めながら思い出すのは、放課後一緒にした勉強や、勉強の合間をぬって遊んだことだった。
海も遊園地も楽しかった。
勉強苦手だったけど、隆文が褒めてくれたから頑張れた。
楽しかったことを思い返し終わった後に思い出すのは、受験当日の夜。
「不安だ~」
「彩菜は大丈夫だよ。今まで一緒に頑張ってきたじゃない」
「そうだけど~あ!合格発表、一緒に見に行こうね!先にネットで見たりするのなしね!」
「わかった」
「あー!でも私だけ落ちてたりしたら……どうしよう」
「だから大丈夫だって。そんなに心配しないの」
同じ大学を受けた隆文に家まで送ってもらった彩菜は、自分の部屋で隆文からの連絡を待っていた。
いつも通り来ると思った、家に帰りついたという報告。
それがこの日はいつまで経っても来ない。
おかしいな、いつも寄り道とかしないのに。電車止まってるのかな?
心配になった彩菜は隆文に電話をかけたが、彼が出ることはなかった。
隆文と別れてから1時間半、彩菜の携帯を震わせたのは、隆文からの連絡ではなく、隆文の母親からの連絡だった。
「彩菜ちゃん?実はさっき息子が交通事故に……」
轢き逃げに遭った隆文は、その日からずっと意識不明だった。
大学受験も終わり、高校も3年生は自由登校だったため、彩菜は病室に通い続けた。
ずっと続いたその状況が変わったのは、合格発表の日の朝。
隆文は息を引き取った。病室で隆文の両親と彩菜に見守られながら。
彩菜は泣いた。隆文の両親が涙を止めても、彩菜は泣き続けた。
お昼過ぎ、悲しくて悲しくて仕方なかったはずの彩菜はふと、自分の合否を隆文に伝えなければ、と思ったのだ。
ネットで合否を確認するのでなくわざわざ大学に足を運び、その足で自然と高校に向かった。
一緒に勉強したあの教室に行けば隆文に会える、そう確信を持っていた。
学校に来てどれくらい時間が経ったのだろう。ふと時計に目をやると、6時近くになっていたことに気がつく。
隆文と会話したのはどのくらいの時間だろうか。10分程度だった気もするし、1時間以上だった気もする。
「隆文の馬鹿……隆文のおかげで合格した大学、楽しんでやるんだから……空から見てろよ……絶対、忘れてやったりなんてしないんだから!!」
彩菜の叫び声は、空に染みて消えていった。
隆文の開けた窓を閉め、隆文と勉強をした教室から踏み出した。