第三話:早瀬くんの恋
早瀬くん視点のお話です。
浜野チーフの様子が、朝からおかしい。
俺と小林に渡す資料を間違えたり、必要な書類をシュレッダーにかけそうになったり、何もない所でつまずいたり・・・いや、つまずいてるのはいつものことだっけか。
心配とかそんな気持ちは全くなくて、とにかく見ててかなりウザいんですけど。
上司だし別に本人には言わないが、はっきり行って浜野チーフ・・・いや、浜野は、かなりどんくさい。 本人は急いでいるつもりかもしれないが、客観的に見れば単にあたふたしているだけだ。 この人の良い所を仮に挙げろと言われても、俺にはかなり難題かもしれない。あるとすれば、無駄に身長が高いところくらいじゃないだろうか。 顔とか俺の方が絶対勝ってるし。 特になんでいつもあんなだっせえ眼鏡かけてこれるのかが不思議だよな。
しかし浜野は、うちの部署の中で誰よりも優しいとか言われていて、密かに女どもに人気がある。 性格もくそ真面目だし、誰とも区別つけることなく公平に皆に接しているし、面倒な事は何でも自分でやってしまおうとする、いわゆるお人好しキャラってやつだ。
はっきり言って、俺はそういう奴は好きじゃない。
第一自分がそんなんだから、小林だって甘えてろくに仕事も覚えないんだよ。 人に無駄に優しくしてもつけ上がるだけだ。 そんなんじゃあ、いつまで経っても自分がしんどいだけだっつーの。 馬鹿馬鹿しい。
去年浜野はチーフに昇格した。 だけどそれは、入社してたからだいぶ経つし、上にもいつもペコペコしてたからだ。 チーフぐらい、簡単になれるさ。 でも俺は、ちゃんとした実力で、あいつより短い期間でチーフになってやる。 それであいつなんかとっとと先を越してやるんだ。
とまあこんなふうに、俺は自分を高めるために、常に誰かと比べて目標を立てている。 同期なんて相手にならないし、浜野を越えることが目標というのも正直気に入らない。 気に入らないが、それはあくまでとりあえずということで、ただのプロセスに過ぎない。 やるならとことん上を目指してやる。
そんな感じで、仕事の方は今のとこ順調だ。 これでも色々と抜かりなく努力はしているからな。 当然といえば当然だ。 それよりも俺には今、 ちょっとした悩みがある。
実は今、 好きな女がいるんだよな。
その女の名前は、新谷里菜。 ある有名な美容院で働いている美容師だ。
その美容院には、2年前くらいからお世話になっているのだが、彼女のことが気になりだしたのはつい最近のことだ。
それまでに通っていた美容院がなんとなく気に入らなくなって、有名なサロンだというこもあり、どんなものか一度行ってみようと思ったのがきっかけだ。
そこで最初に担当だったのが彼女だった。 仕上がりも悪くないし、明るくて話していても楽しかったので、彼女のことが気に入った俺は、月に一度行く度に、ずっと里菜のことを指名している。
おまけに彼女はとても美人だ。 スレンダーでいつもふわふわのロングヘアにハットをかぶり、明るい笑顔で接客している。 流行りの美容院だからか、他の奴らもかなり技術的には高そうだが、トータルで見れば、俺の目からは彼女がずば抜けて仕事ができるように見えた。
普段自分を他人と比べているせいか、俺はついそんな事を分析してしまうことが多い。 彼女のことも、初めはただ仕事の出来る美人な女だという認識くらいでしかなかった。
そしてそこに通うようになってからしばらく経って、新しい服でも買いに行こうかと街に出かけた時、とあるメンズショップで偶然里菜を見つけた。
向こうはこちらに気付いていない様子で、一心に服をあれこれと手に取り悩んでいた。
俺は特別話しかけることもなく、しかしなんとなく気になるのでちらちらと様子を伺っていた。 すると、ひとしきり服を選び終わったのか、誰かが既に入っている試着室へと向かって行く。
ああ、彼氏と一緒に服を選んでやってるんだなとその時すぐに分かり、同時に試着室のカーテンが開いた。
するとそこには、男の俺からでも分かるくらいのイケメンが困り顔で立っていた。 俺のいる場所からは少し距離があったので、はっきりとはわからない。 しかしそれでも、すらっと高い身長に爽やかで、いかにも優男な感じの男であるということは容易に分かった。 新しく次の服をよこされたそいつは何か小言を言っているようだったが、とても楽しそうな里菜に急かされ、しぶしぶまたカーテンの中へと消えて行った。
と、そこまで見た俺は、なんだか段々と腹が立って来たので、さっさと服を選んで帰ったのだった。 だって自分に相手がいないのに美男美女カップルが幸せそうなのを見るのって、大抵の人間は気分悪くなるもんだろ?
後日里菜の美容院に行った際、話のネタとしていじってやろうと思って、その時の話を振ってみた。
「やだ、早瀬くんいてたのなら遠慮しないで声かけてくれればよかったのに」
「遠慮しないでも何も、あんな楽しそうにしてたら普通邪魔できねえっつーの」
「ふふっ。 そっか。 お気遣いありがとう」
「随分いい男捕まえたんだな。 周りの奴らもすげーじろじろお前らのこと見てたぞ」
「からかうのはやめてよー。 普通にデートしてただけなんだから」
実際本当の話だったんだが、顔を真っ赤にしながら抗議してくる里菜。
「でも・・・彼のこと褒めてくれてありがとう。 本当に、わたしにはもったいないくらいの人なんだ」
「そうか? お前ならどんな奴だってイチコロな気がするけどな」
「ひどーい! わたしはそんな軽い女じゃないんですう。 いつものカットじゃなくて、丸刈りにしちゃおうかしらー?」
「うわ! 冗談だよ馬鹿、悪かったって!」
「ふふふっ。 わたしだって冗談言っただけですよーだ」
この時はただそんなふうに、幸せそうな里菜の話を聞いたりしているだけだった。
けど、月に一度美容院に行く度に、彼女の笑顔が少しずつ曇っていっているような気がした。
「なんか最近、元気ないんじゃねーの?」
「え? うそ。 わたしってばそんなふうに見えてる?」
段々と気になってきて、つい俺はそう質問してしまった。
「いや、なんとなくだけどな。 営業やってて得意先の機嫌見たりしてるから、大体そういうのはわかるんだ。 男の話もあんま聞かなくなったし、なんかあったんじゃねえかってな。 話すのヤだったら別に答えなくていーぞ」
「っ! 早瀬くんってすごいね! 別に、何かあったってわけでもないんだけどね・・・最近、彼が仕事で出世したんだけど、それからあんまり相手してくれなくって・・・デートしててもどこか上の空で、なんか少し、さみしいなって思っててね・・・」
「なるほどな」
「でもね、彼もきっと大変なんだと思うから、わがまま言えなくって。 でも今、早瀬くんに聞いてくれて、少しすっきりしたわ!」
「いや。 なんか、変に突っ込んじまって悪かったな」
「いーの! ・・・わたしって、人にこういうこと自分から話すタイプじゃないし、迷惑かけたくなくていつもへらへら笑ってるから・・・だから、気付いてくれて、ありがと早瀬くん!」
「っ。 ・・・おー。 別に話くらいいくらでも聞いてやれるし、いつでも遠慮なく言ってこいよ」
「早瀬くんって、優しいね!」
「・・・」
人に優しいと言われたことなんて初めてじゃなかっただろうか。
驚いて、なんて返答したらいいのかもわからなかった。
ただ俺は、こんな事で少しでも彼女が元気になれたのならよかったと、素直に嬉しい気持ちになれたんだ。
普段の俺は、そういった人の面倒事はまっぴらごめんな人間だ。 子供の頃からもどちらかといえば他人を馬鹿にするような奴だったし、周りの人間からは冷たいともよく言われたりする。 でも里菜にだけは、たとえほんの少しでも、力になってやりたいって思えることに気付いたんだ。
そこから、俺は里菜の事を意識するようになった。
そして今から話すのは、つい昨日の事だ。
夕方頃に、久しぶりに会う連れと飲みに行くため、俺は待ち合わせの場所へと向かっていた。
その道中には大きな広場がある。 俺はそこを横切って歩いていると、いくつか並んでいるベンチにぽつりと、一人の女が座っているのが見えた。
「・・・あれは、泣いてるのか?」
その女は俯きながら泣いている様子で、顔ははっきりとは見えない。 しかし、なんとなくどこか雰囲気が里菜に似ていると思った俺は、迷わず近くに行ってみることにした。 待ち合わせの時間までまだ余裕はあるし、少しくらい寄り道しても問題はなかった。
「うぅ・・・ひっく・・・」
「おい、お前・・・」
「・・・だ・・・れ? ぐすっ・・・う・・・」
「里菜、じゃないのか? 早瀬だけど」
「え・・・早瀬く・・・ん?」
驚いて顔を上げた女は、やっぱり里菜だった。 いつも笑顔の顔は、今は涙でぐしゃぐしゃで、目も腫れている。 きっと、俺がここに来るだいぶ前からずっと、彼女は泣いていたんだろう。
「ひどい顔だな」
「やだ・・・こっち、見ないでよ」
「どうしたんだ、こんな所で一人で泣いて」
「別に、早瀬くんには関係ないことだから。 心配しないで」
関係ないという言葉にチクリと心が傷む。
「そりゃまあそうかもしれねえけど。 でもそんな泣いてる知り合い見て、素直に帰れるかっつーの。 普通に心配してやってんだよ」
「・・・」
嘘だ。 本当なら里菜じゃなければ、今頃完全にスルーしているところだ。 俺にとっては知り合いだろうがなんだろうが、ただの他人に過ぎない。
しかし今は里菜の悲しむ姿を見て、心がなんとも苦しくてざわついた気分だ。
真正面からずっと見られていては気まずいだろうと思い、俺はとりあえず里菜の座っているベンチの隣に腰掛ける。
「彼氏と、ケンカでもしたか」
しばらく沈黙が続き、なお押し黙っている里菜に、こちらから思い当たる節を聞いてみた。
里菜は俯いたまま、ピクリとだけ肩を震わせる。
「彼氏とはね・・・別れたんだ」
そこでようやく、掠れて消え入るような小さな声で、里菜は答えてくれた。そしてその返答に、俺の心はぐらりと大きく揺れ動く。
「どうしてだ。 フラれちまったのか?」
「ううん。 わたしから、終わらせたの。 このままじゃ、彼とはきっと上手くいかないから・・・だけど、本当は・・・まだ、大好きなままで・・・気持ちの整理がつかなくて・・・」
里菜は再び、静かに涙を流した。
「ふふっ・・・馬鹿だよね。 自分から別れておいて、わたし・・・」
「こんな時まで、んな悲しい顔して笑うんじゃねえよ」
「だって・・・」
「他の奴にはぜってー言わねえ。 今は、泣きたいだけ泣け。 どうせ明日になったら、お前また無理してずっと笑おうとすんだろ」
「早瀬く・・・ん・・・」
「だから、今はその無理して頑張ろうとする分、好きなだけ泣け。 ちゃんと付き合ってやるよ」
「そんなの、悪いよ・・・」
「かまわねえよ。 どうせ暇だしな」
連れとの約束なんて、もうどうだってよかった。
俺は里菜の気の済むまで、涙が枯れる間中ずっと側にいた。
今は、別れた理由まではわからない。 しかし、理由が何であろうと、たとえ里菜がまだあいつに未練があろうと、それでもかまわない。
俺が、あいつの事なんて絶対忘れさせてやるよ。