3
「神父さまの荷物は小屋にあります。小屋のなかはきれいです」
「萌さん」
「……すいません」
どうしてあなたが謝るんですか。どうして、そんな顔をするんですか、どうして――
「萌さん」
「すいません」
私の声に萌さんは低い声で、それだけ繰り返しました。血まみれで、傷だけのまま。じっと無感動な瞳で私のことを見つめて。彼女は自分が剣だと口にしました。けれど剣なんかじゃない、この目の前にいる彼女が、そんなものであるはずがありません。
私は手を伸ばして彼女を掴もうとしました、とたんにじゅうと小さな肌が焼ける音とともに腕に痛みが襲ってきました。
「おやめください。この身体は血まみれで、ひどい毒で、あの魔物がいったように……ごめん、なさい」
「っ、なんでそんなこと言うんですか、あなたは十分がんばったじゃないですか」
「……期待には応えられませんでした」
「誰のですか、なんの、期待ですか?」
萌さんの目が、はじめて、揺れました。
それをはっきりと見た私は伸ばした手をさらに動かして彼女を抱きしめました。
小さい。驚くほどに小さくて、私の腕の中におさまるのが目の前にいる少女なのだと一歩踏み出すことで理解しました。じゅゅうううと音をたてて毒が、服とともに私の肌が焼けるのがわかりました。
「神父さま、神父さま、おやめてくださいっ、毒が」
「だいじょうぶです、だいじょうぶですよ、萌さん」
泣いて、懇願するような萌さんの声に私は朗らかに笑いました。
「私はあなたに守っていただきましたから、今は私があなたを守る番です」
「……ごめんなさい」
萌さんの瞳から、透明な涙が零れました。
「無茶を、しましたね」
萌さんは私を連れて小屋の真下にある川に赴むくといきなり水のなかに突き落とされました。そうして乱暴に私の体についた魔物の血を流してしまうと、彼女もすぐに水のなかに入って血を流しました。
透明な川のなかに流れる黒い毒が落ちると、赤い血が跡に続いて、彼女のいたるところが切り傷だらけだということが判明しました。
驚きましたが、すぐに無理もないと思いました。彼女はたった一人で大勢の人間と、そして魔物と戦ったのです。傷一つないなんてほうがおかしいのです。
「手当を」
「大丈夫です。すぐに手当します。神父さまの、待てくださいね。萌の先にします」
「ええ、もちろんです」
そう口にする萌さんは慣れたように自分の傷を手当していきました。その慣れた手の動きはとてもお手伝いしますと私如きが言えるものではありません。
彼女は自分が終わると私の傷も手当を開始しました。火傷と毒に効く草を肌にあてて布でしっかりと包んでくれました。
「これで、神父さま程度の火傷でしたら大丈夫ですよ」
「ありがとうございます、萌さんは、あの怪我は、痛くないんですか」
「……痛いけど、あんまり……もう感じない、から」
私は心配に顔をしたのに萌さんは急いで付け足しました。
「萌は、勇者になるためにいっぱい訓練しました。だから、慣れっこなんです」
痛みに慣れてしまえることなんてあるのでしょうか? 私にとって、今日受けた痛みははじめてともいえる激しいもので、情けの無いほどに取り乱してしまっていました。こんな痛みに慣れるなんて私では一生無理そうです。いいえ、本当は慣れてはいけない類のものなのでしょう。
「どんなものなのですか」
「え」
「勇者とは」
萌さんは沈黙しました。
こんな痛みに慣れてしまえる、
あなたのように恐ろしく強い、けれど何も知らないような人が――勇者であるというならば、一体、どうやって生まれたのか。
私は真っ直ぐに見つめるのに萌さんは目を逸らしませんでした。
「……村が、まずしくて、それで、萌は売られました」
俯きがちに萌さんは笑います。
自分の村が貧しく、そのために聖都の教会に売られ、勇者になるための訓練をした――私は勇者を十人しか知りませんでしたが、集められた人間は百人に達していたようです。それもすべて子どもが――素質を求められて集められた、と。
「みんな、身よりがないみたいでした」
過酷な訓練のなかで倒れる子どもは多かったそうです。その上、訓練のあとは体に何かされたと言いますが
「けれど、あのときのことはほとんど忘れて、しまった、から」
萌さんはたどたどしく笑います。その笑みに私は彼女があえて忘れるという選択を選んだのだと直感で理解しました。きっとなにをされたのか覚えていたら生き残れなかったのでしょう。
そして、十人だけ生き残った彼らは魔物を殺し、魔王を屠るためだけに旅立った。
それが勇者。私たちが聖都に教えられた魔王を屠るために現れたという絶対の正義と言われた彼女たちの本当の姿。
「みんな、死にました。萌は看取りました」
城へといく道すがら、魔王のいる城のなかにはいったあとも多くの試練が彼らを襲い、そしてたった一人で萌さんは魔王と対峙して、
「負けちゃったんです」
萌さんは口元に悲しげな笑みを浮かべました。
魔王は萌さんを殺さなかった。かわりに……
「孕んだ女が逃げるとは思わなかったのでしょう。わりと簡単に逃げれました」
「そのあとは? 教会には頼らなかったのですか?」
「教会にいったら、たぶん、萌は殺されます。だから逃げました」
魔王に負け、子を孕んでいる萌さんは逃げるしかなかった。そんなことはあんまりだと、否定をしたいと思うが彼女がそういう選択をしなくてはいけなかった理由が、少しだけわかります。
教会は勇者が誰も戻らなかったのを名誉の死と公開して新しい勇者を待てとも、その裏でどんなことをしているのかは萌さんの先ほどの話を聞けばいやでも想像が巡ります。
吐き気がしましたが、それを知ったところで私には止めることは出来ない。また彼女にも。新しい勇者が今もどこかで生まれようとしていることに怯えるしかないのだ。
彼女は武力では強い。けれどたった一人だ。教会からしてみればちっぽけでしかない。
そんな彼女は故郷の村に逃げ帰り、唯一残っていた自分と両親の過ごした家で子どもを産むことにしたと言います。
「……生んだんですか」
私は純粋に驚きました。
「はい。娘がいるといいましたよ?」
「その、失礼ですが、殺さなかったんですか?」
私の問いに萌さんは目を瞬かせて再び頷きました。
「娘は、生まれたばかりですが、角があります、そのうちあの人に似たら翼でも出てくるかもしれません。今は、金を積んで村の人に見てもらってますが、はやく帰らないと心配です」
萌さんはそう呟いて空を仰ぎ見ました。
「もう、寝ましょう。またすぐに出発しなくちゃいけませんから」
その言葉に疲れ切っていた私は抗うことができず、彼女の用意してくれた寝具の上に横になるとゆっくりと目を閉じました。
深い、光もないような闇に落ちながらどこかで聞いたことのある子守唄を耳にしたような気がしました。
翌朝、萌さんは私のためにどこからか狩ってきた鳥を慣れた手つきで捌いて焼いてくれました。その見事な動きに私はほーと見とれていると
「神父さまは食べませんか? やはり口に合いませんか?」
「いえ、いただきます。いただきます!」
昨日、地獄のような光景を見ましたが、生きていれば空腹はやってくるものです。私はありがたく天神に祈りながら……昨日の勇者のことを考えれば祈りなんてしないほうがいいのかもしれないと思いながらも長年の習慣とは恐ろしいもので、そうしないと食事をいたくことも私には出来そうにもありません。萌さんはいやではないのかと思ってみると彼女はしっかりと祈ってから食べていました。どうして。やはり疑問が浮かびました。
困ったことに私は昨日から祈りの意味がわからず迷っているのに、萌さんには迷いはないようでした。それを聞いてみたいと思いながらもどうやって尋ねようかとタイミングを完璧に失って途方にくれました。
なんといっても萌さんは……子犬のよう、というといけないかもしれませんが本当によく働いてくださって、私の少ない荷物をまとめて、昨日とは違う道を教えてくれ、さらにはどこからか馬も連れてきて
「その子は、もしかして借りた馬ですか? 生きていたのですか」
「はい、生きてました。殺すより、生かしたほうがよいと思ったのでしょう」
天の神よ、あなたに感謝します。
私はそう心のなかで呟きながらやはりどうしても祈りに対して躊躇いを持っていました。
昨日も、萌さんのことも、天の神は助けてはくれなかったと不信を抱いているというのに。
そのあと私たちの旅はとても穏やかでした。山道を進んで、夕方には野原に出ました。背の低い草が生えそろい、風に揺れて、まるで波の踊る海のようです。私の故郷は海に近かったのですよと萌さんに教えると、萌さんは海を知らないので不思議そうに目を瞬かせると、私の故郷についてあれこれと尋ねてくれました。
家族とともに、海しかないあの潮の香りと魚の生臭さの匂いの漂う土地を嫌っていたのに、今は懐かしいと思い、誇りとすら思いながら私は萌さんに尋ねられるままに答えました。
どこまでも続く、果てのなさそうな緑の海の端、小さな黒いこぶが現れると萌さんが、それを指差しました。
「ここを真っ直ぐにいけば、もう目的の村です」
「けど、今日はもう野宿の支度をしなくてはいけませんね」
太陽がそろそろ大地に隠れてしまう。夜に移動するほど切羽っ詰まるほど追いつめられてもいませんし、一日中移動していたのにさすがに疲れを覚えました。
「はい」
萌さんの落ち着いた声も、若干疲れているように私の耳には聞こえました。
私たちはその日は樹の下に身を寄せました。川で汲んだ水とかたいパンは火で炙ってのあたためて食べるという質素ながら、なかなかにおなかにたまりまる夕飯でした。
ひと段落ついて私は空を見上げました。
「きれいですね」
まるで銀砂を撒いたような星空に私は感嘆の声を漏らしましたあとはいつものように日記をつけようとして萌さんの視線を感じました。
「珍しいですか」
「……萌のことも書かれたのかなって思って」
「いけませんか」
「書いたんですか」
萌さんがびっくりするのに私も驚きました。
「ええ、もちろん」
「……萌、そんな書くこと、な、ないです」
もじもじと俯いている萌さんに私もなんだか照れてしまいました。
「いいえ、あなたはいろいろと私に問いを与えてくれました」
「問い、ですか?」
「はい。あの、あなたの娘さんの名前を聞いてもいいですか」
「凛です。知り合いにいただきました」
萌さんは嬉しそうに回答します。
「まだ両腕に抱っこするくらいの大きさなんですよ。けど、よくおっぱいを飲みますし、歯もあります……いまごろ、どうしているのか」
「萌さんは、どうして聖都に」
「仕事を、探していて……萌に出来る仕事は少ない、から」
萌さんは俯いて前髪をしきりと指でいじりはじめました。
勇者でありながら生き残った彼女はその存在を教会に殺された。彼女そのものを殺すことを知らいのは慈悲というよりも、すでに勇者は名誉の死を迎えたとしている以上、派手に動けないからでしょう。
私から見ても強い萌さんは多少腕の立つ武人を差し向けたところで倒せません。むしろ、返り討ちにあってしまうでしょう。
教会は自分たちの威信のためにも、萌さんを生き殺そうとしている。自分たちの持つ力で圧力をかけて、存在を消して、じわじわと、まるで毒でも盛るかのように。
教会に睨まれては就ける仕事は限られてくる。そうして殺そうとしているのだと思うと全身がぞっとした。
ただ幸いだったのは、彼女が強かったことだ。用心棒という仕事は彼女の戦闘能力なら申し分ないし、多くの金が手に入る。身分などもあまり頓着されないし、この仕事ならば教会の威圧も関係ないだろう。
しかし。
戦うたびに彼女は傷つくのだ。その上で赤ん坊を育てるのはさぞ大変なことだろうことは男ですがなんとなくはわかります。
「あの、産まない、ということは考えなかったのですか」
「逃げたとき、おなか、おっきくて」
「つまり、産むしかなかったと?」
「生んだとき、殺そうと思いました」
萌さんは小首を傾げて説明を続けました。
「けど、ずっと萌の中にいて、一生懸命、ここに出てきて、泣いていて、だっこすると安心していて……気が付いたら、なにかしたいと思いました」
迷うような視線に私は自分がとても愚かなことを口にしたと自覚しました。
誰かが誰かを愛するのに理由なんてないように、誰かが誰かを守るにも理由なんていらないのかものです。
魔物を殺しただけ、血にまみれた彼女にとって自分が生み出した命をその手に抱いたとき、どんな気持ちだったのか
「けど、本当は殺すべきだったのかなって」
「……あなたは、自分の行動が罪だとおっしゃっているのですか」
「罪、とは思いません」
萌さんは、はっきりと否定しました。
「萌は自分の子を産んで、よかったとは、思ってる。負けることもなく、ずっと戦い続け、殺し続けるしかなかった人生で、負けて、ようやく自由を許されて」
けれどその自由は本当に自由なのでしょうか。彼女は負けて、生き残って、その上、敵の子を身ごもり、逃げた。そんな彼女に世界は優しくなった。背信者と言われた彼女はもともとあったものをすべて失ってしまって。
私の気持ちが通じたのか萌さんはつけくわえた。
「得たものはあります、娘を」
「萌さん」
私は何と言うべきなんでしょうか。
本当に今がよかったのかとそんな疑問が浮かびます。せめて、その子どもがいなければあなたはここまで大変な目に合うこともなかったのではないですか、そんなことを私の立場ではいえません。命は何にたいしても平等だと説く私には。けど。
萌さんはまっすぐに私を見つめました。
「娘は魔族の子ですが、萌の子です。神父さま、血によって子は決まるのでしょうか? 生というものは」
「それは」
魔族は人から奪い取る、人は何かを守ろうとする。はたして、子どもはどちらになるのか。
「あの子は魔族ゆえに疎まれます、萌の子だということで嫌われます。けれど生きています。あの子がもし、何かを奪ったとき、萌はあの子を殺します。その覚悟で産みました」
「萌さん」
「萌は、……何かを愛するということが、できません。そんなことをされたことがないから、ずっと戦い、奪いとるしかなかった……そんな萌こそ、魔族だった。負けて、それから解放されて、女になったんです」
朗らかな笑みを萌さんは浮かべました。
戦いに戦い続けて、何も知らなかった萌さんは
「はい。だから神父さま、この旅の代金はいりません。かわりに、お願いです、娘のために祈ってあげてください。子どもを生んだとき、祈ってくれる人がいませんでした」
「私で、いいんですか」
「あなたがいい。こんなことを話せたあなただから、お願いです、娘のために祈ってください。萌には、祈りはいりません。きっとそのうち……力もだいぶ衰えたので、魔物たちに殺されるでしょう、それだけの魔物を葬ってきました。奪ってきたのだから、それが返されるのは仕方ありません。だから、祈っても無意味、けど娘はまだ意味がある」
「祈りに、意味も、無意味もないんですよ。萌さん」
ああ、そうだ。祈ろう。私にはそれしかない。この人が幸福であるようにと、少しでも、なにもないから。
祈りは、誰かへの願い、想いなのだ。
どうしようもない現実を、それでも歩いていくために。信じていくために。
祈りが必要なのは、あなただ。萌さん。けれど笑っているあなたは
「いいんです。私にはもうちゃんと娘が与えられました、神父さま。あの子が幸せであるように、萌よりもうんとうんと祈ってください。奪われたけど、あの子を与えられました」
「……そう、ですか、わかりました。娘さんのために祈りましょう」
「ありがとうございます、神父さま」
「その、もう一つだけ伺ってもいいですか?」
「はい?」
「あなたは、その相手のことを、好き、なんですか」
私の問いに萌さんはぽかんとした顔をしたあと真っ赤になりました。ふるふると首を横にふって力いっぱいの否定をしますが
「絶対、ありえません」
「ありえないって、そんな」
「あんな屑を好きになることはないです。顔しか褒めるところがありません! 神父さま、あれは人類の敵です!」
「顔しか……あ、あの、一応、娘さんの父親として、そんないい方は」
「父親というよりも種です!」
さすがに、同じ男としてそこまで言われる方が、たとえ魔物であってもちょっと不憫です、萌さん
「……ああ、けど」
萌さんはふぅとため息をついて遠い目をしました。
「……自分、限定でいうなら、幸せをもらったのかもしれない。解放されて、娘をもらって、もう無意味に殺さなくてもよくなった」
萌さんは少しだけ困ったように笑います。
「死ぬ前に、一度くらいは……もう一度くらいは、会いたいかもしれません。けど、きっと無理でしょう」
「諦め、るんですか」
私は恐る恐る、それでも生意気なことを口にしました。
私は、萌さんの失った苦しみを、悲しみを、苦悩を、ここで聞いたこと以外は知りません。ですが、あなたらしくない、この二日の間、あなたは私を守り、導いてくれた。強く在ってくれた。私に希望をくれた。そんなあなたが諦念に満ちた瞳をして語るのは哀しい
「どうか、諦めないでください」
「神父さま」
もしかしたら、愛を、それに準じる者を注いだところで返さない者もいるのかもしれない。愛を知らないという萌さんが口にするように、なにかを奪い続けて、失わせるしかできない者もいて、私たちはそれを恐れて――魔族と呼ぶのかもしれない
けれど
「あなたは得たのだから」
萌さんは目をぱちぱちさせたあと、にこりと、本当に嬉しそうに笑って
「ありがとう」
私はその笑顔を生涯忘れることは出来ないだろう――そんなとびっきりの笑顔でした。
そのあと私は萌さんの家に赴き、彼女の娘さんに会って祝福を授けました。生まれたての赤ん坊のふにゃふにゃに驚いて、泣かれてしまった私も一緒に泣きそうになるのに萌さんはただ笑っていました。
「ありがとうございます」
何度も、何度も彼女は私に繰り返してくれた感謝の言葉の数だけ、護ってくれただけ、戦ってくれただけ、私は祈ろう
いいえ。それ以上に
失ったぶんだけ、何かを愛せるように。憎む以上に救われるように。遠い星を掴むように手を伸ばして、諦めないでほしいと思いをこめて祈ろう。
いつか、萌さんとその娘さんと、再び会える日を思い描いて。祈ろう。何度も、何度も。