二の四
翌朝。鳩羽は浅縹に指示された運動場へと向かった。
肉体強化の刺青が問題なく役割を果たせているのか確認するためだ。
「おはよう」
「おはようございます」
浅縹は既に運動場の中央に立っていた。
「昨日は眠れた?」
「いえ、なかなか寝つけませんでした。多分昼間いっぱい寝たので」
「そうね。肉体強化の刺青の効果もあるから睡眠は少なくても済むのよ。二の腕を見せてもらえる?」
鳩羽は素直に服を捲り、紫色の刺青を見せた。そして昨日気になっていた小さな術式を指す。
「あの、気になっていたんですがこれって何の刺青ですか?」
「これは肉体強化の刺青を補助するものよ。より術式を安定させるものなの」
「そうなんですか」
小さい基本円の中に描かれている複雑な模様。鳩羽は無意識にその刺青を触った。
「ほら、触らないようにって言ったでしょ」
「あ、すみません」
「じゃあ、今から刺青が大丈夫か確かめるわよ。今からするのは鬼ごっこ。私が逃げるから三十分の間に捕まえてみせて」
「え?」
「きまりは簡単。場所は建物の中以外。校門からは出てもいいわ。校外は何処に行ってもいいわ。術の使用もいいわよ」
浅縹は言いながら準備運動を始めた。
「そうね、折角だし、賭けましょうか。鳩羽が勝ったら家族への手紙を書く回数を増やしてもいいわ。負けたら卒業するまで手紙は禁止」
「えっ! そんなの嫌です」
「じゃあ私を捕まえなさい。ほら、準備運動をして」
手紙が書けなくなるのは何よりも嫌だ。
腕や足を軽く動かすように言われて、鳩羽は入念に身体をほぐした。
意気込む鳩羽を見て、浅縹は満足げに笑った。表情があまり変わらないと自他共に認める浅縹だが、鳩羽を教えた一か月間は自分でもこんなに表情豊かだったんだと思えるぐらいよく表情が変わった。
一対一で教えることがなくなるのは浅縹も名残惜しいけれど、鳩羽の成長が喜ばしくもある。
一か月自分が教えた結果は目に見えている。鳩羽は自分を捕まえるだろう。
手紙の件は浅縹なりの餞別だ。
「じゃあ私が逃げて、十数えたら動いていいわよ。いーち、にー……」
「さん、よん、ごー……」
十を数えきって鳩羽はくるりと振り返った。
当然のことながら誰もいない。
「どこだろう」
目の前に広がるのは運動場。そして校門がある。
鳩羽はきょろきょろと見渡したが、浅縹の姿はもちろん足跡もない。
ふと、鳩羽は術使校での分析の授業を思い出した。
「確か浅縹先生の色は青系統……。青系統は冷静で誠実。開放感がある所を好む。同じ色の海――とか湖」
この島の地理を思い出しながら、鳩羽は考えた。
中央に学校があり、その裏手は大きな山。校庭の先には草原が広がり、奥に森がある。森の中には湖があり、島は全体が断崖絶壁。
「湖、かな」
時間は限られている。鳩羽は走り出した。
身体が軽い。前よりとても速く走ることができる。草を避けながら行く必要もない。
歩いて二十分程かかる湖までの距離を五分ほどで辿り着いた。心地よい風が吹いていて、草の独特の香りがする。
目を閉じてめいいっぱい息を吸った。
「えっと、浅縹先生は……」
いない。
考えを巡らせて、鳩羽は木の上に移動した。
湖とその周りも見ることができる高い木。一番高い木は浅縹も警戒して自分がいないか見るだろうからそこから少し離れた木の上に鳩羽は立った。
肉体強化の刺青のおかげで視力もあがっている。
目を凝らすと、湖から離れた場所が不意に小さく動いた。
「見つけた」
浅縹がこのまま真っ直ぐ進めば、湖にはじき辿り着く。そこで仕掛けてもいいが、浅縹は青系統の教師だ。
青系統は警戒心も強く、遠回りしてでも安全な道を選ぶ人物が多い。
「うーん、どうしようかなぁ」
鳩羽は悩んだ末、今立っている木から飛び降りた。
******
浅縹は自分より背の高い草が密集している中でじっと息を潜めた。
ぬかるみに足を捕られ、一瞬だけ草を揺らしてしまった。
普通なら気づかない程度の揺れ。
けれど、この一瞬で勝敗が決した気がするのは長年の勘としか言いようがない。
鬼ごっこの逃げ場所に浅縹が選んだのは湖だった。周りは木々に囲まれていて万が一見つかっても逃げやすい。森の中に潜んでいても良かったが、待つという行為が浅縹はあまり好きではない。攻撃に転じることも大切だ。
そっと息を止めて、周りの音や気配を確かめる。
鳥は騒がしくないか、不自然な音はしないか、空気の流れは変わりないか。
大丈夫なようだ、と息を吐いて、浅縹は一歩踏み出そうとし……
「捕まえました」
肩を叩かれて、悲鳴をあげた。