二の二
次の日、鳩羽は中央校の一室に連れてこられた。転移の術で来たとき以来になる。
校舎の中の一番端、古びた扉。そこを開ければ真っ暗な世界が広がっていた。
「彫り師は地下で暮らしていて、ここから滅多に出てこないわ」
火をつけた蝋燭を渡される。今日は術の使用禁止だと言われた。
蝋燭の薄明かりの中、どうにか足幅が狭い石段を降り終えた。木造の校舎と違い、石造りだ。
でこぼこした床に人が寝転がるベッドが一つとサイドテーブルが一つ置かれている。
「彫り師、いないの?」
「来たか」
閉まっていた扉が開き、どっしりとした男が現れた。
「鳩羽、こちらは彫り師の仁さん」
「こんにちは」
「おう」
無精髭を触りながら、ちらっとこちらを見て仁は道具を並べ始めた。
大小様々な鑿や金槌が並べられていく。
「彫り師は人見知りなの。あんな大きな身体だけど、臆病なのよ」
真面目な表情で言う浅縹に、どう返せばいいのか戸惑う鳩羽の代わりに仁が「聞こえてるぞ。うるさい」といじけたように呟いた。本気で怒っていない、軽口を言い合っただけの様子に鳩羽は少し笑った。
「ほら、話は終わった後にいくらでもできるだろう。早く袖を捲って横になれ」
「大丈夫。眠りの術をかけるから。起きた頃には終わってるわ」
本当に? そう言いたげな表情で鳩羽は浅縹を見上げる。
力強く浅縹は頷いた。
「星飴、用意しておくわ」
鉄紺に聞いたの、と浅縹が柔らかく笑った。表情をあまり変えない浅縹にしては珍しい微笑みだ。
「はい。楽しみです」
鳩羽が目を閉じると、浅縹の指が術式を描き始めた。
目を閉じているため、複雑な術式を鳩羽が見ることはできなかったが、意識が少しずつなくなっていき……そして完全に眠りについた。
「鳩羽」
ゆさゆさと揺らしてみるが、鳩羽は静かに寝ている。
浅縹は頷いて彫り師に視線を向けた。
「連絡番号と肉体強化の術式は二の腕に。あと、あれも頼んだわよ」
「ああ……三時間経ったら来てくれ」
彫り師が鳩羽の服を脱がしていく。少し日に焼けた、でもまだ白い肌にそっと触れる。
「細いな……」
ぽつりと呟かれた言葉は静かな地下室にはやけに響いた。出ていこうと踵を返していた浅縹にもしっかりその声は聞こえている。
「そうなの。だから、お願いね。あと、貴方の腕は信用しているわ。でも、この子は特別。より丁寧にお願い。『紫』系統の中でも有望株よ」
鑿と金槌を構えた彫り師に浅縹がそう言うと、彫り師の動きが止まった。
「『紫』か……そりゃ丁寧に彫らないとな。三時間じゃなく半日にしてくれ。下書きからする」
彫り師は鑿と金槌を置き、代わりに紫色の墨を引き出しから取り出した。
「わかったわ。頼んだわよ」
浅縹が出て行くのを見届けて、彫り師はどっかりと椅子に腰掛けた。手で自分の口元を抑えて、ゆっくりと息を吐き出した。何回か深呼吸を繰り返し、気分を落ち着かせる。
瞼に焼きついて離れない映像が彫り師にはある。
あの子は『藤紫』と呼ばれていた。追いかけられて、追い詰められて――可哀想なむすめ。
同じ系統の同い年の少女。これも何かの縁だ。
そう思い、より丁寧に彫ろうと彫り師は筆に紫の墨を浸した。
彫り師をして早数十年。円だって感覚で綺麗に描ける。しかし、今回はより正確に円を描こうと道具を取り出した。軌円という円を描く専門の道具だ。使うのは十年振りである。
「死をもたらす存在。高貴なる存在。お前はどちらになるだろうな」
紫の筆が滑らかに鳩羽の肌を滑り出した。