三十一
「じゃあ後で鳩羽の部屋に行くわね」
部屋の前で紅樺と別れて部屋に入ろうとして、鳩羽はふと、足を止めた。
向かいの部屋をじっと見つめる。そこは藤紫の部屋の筈だ。
「藤、紫ちゃん……?」
もしかしたら、自分みたいに風邪を引いて寝ているだけかも、と鳩羽は藤紫の部屋の扉をノックした。
「……」
返事はない。
扉の丸い取っ手をまわすと、すんなりと扉は開いた。
そしてそこには――何もなかった。
ベッドも机もない、床と小さい棚が一つあるだけ。生活感も何もない部屋。ぽっかりと空いた空間に鳩羽は、得体のしれない感情を抱いた。自分が死んでも、最初からまるでいなかったことのようにされるのだろうか、と。
「……本当に、死んだんだ……」
親しかったわけじゃない。言葉を交わしたことはなかった。最初に部屋を与えられた時に『よろしく』と言われた声しか聞いていない。
でも、全く知らない人というわけじゃなかった。
数日前には確かに教室という同じ所にいたのに。
「……」
鳩羽は、藤紫のいた部屋の扉をそっと閉めた。
**********
「じゃあ補習を始めるよ!」
「「宜しくお願いします!!」」
紅緋は威勢のいい返事を聞いて顔を綻ばせた。
「補習は実戦で使えそうな体術の習得。役に立つからしっかり覚えなさい!」
紅緋が教えるものは一撃必殺のものばかりだった。
鳩羽も紅樺も女性という点で、どうしても男性には力負けすることの方が多い。長期戦になると不利に陥る可能性が高いと予想できる。そうなる前に……ということだ。
「男には鍛えることができない場所がある。それがここ。遠慮はいらない。思いっきり攻撃しなさい」
人体の急所、男女での弱点を教えてもらい、あとはひたすら紅緋との実践だった。
「反応が鈍い!ほら、がら空き!」
攻撃すれば反撃されて床に身体を打ち付ける。そしてすぐ立ち上がって、また攻撃を仕掛ける。
それを何回も繰り返した。
「…っ……」
やがて足の感覚がなくなり、鳩羽達は立ち上がることができなくなった。
荒い呼吸を繰り返して、ぺたりと地面に足を横たえている。もともと格闘なんてしたことがなかった。
それを急に接近戦ができる程度にまで、なんて無理な話だ。今でも子供の喧嘩に近いような捨て身の突撃に近い。
「まあ、頑張った方ね」
その程度でも紅緋は褒める。そして立ち上がることができなくなった二人に向かって皮の水筒を投げた。喉がからからだった二人は勢いよく水筒に入っていたレータ水を飲む。
「飲んだら立ちなさい!再開するから!」
足がガクガクなのにまだするのか、と失望を露にした鳩羽に紅緋は笑顔で「朝までするから覚悟しなさい!」と残酷な宣言をした。
**********
「はい!!じゃあここまで!」
「あり……がとう…ござ…」
最後まで言葉を続けることができず、鳩羽は床に倒れこんだ。
紅緋が言った通り、補習は朝まで続けられた。途中、気絶してもすぐ起こされ……地獄と言っても過言ではないと鳩羽は思った。そのかいあってか子供の喧嘩から多少は成長したようだが。
紅樺は少し前に気絶してから、一向に起きる気配がなく、紅緋も諦めていた。
「紅樺はここに置いていきなさい。目が覚めたら勝手に部屋に戻るだろうから。じゃあね、授業には遅れないようにしなさい」
鳩羽と違い全く疲れた様子のない紅緋はそれだけ言うとさっさと実技館を後にした。
「授業……あるの?」
今日はないかと思っていた。同級生は再試験だし、紅樺は絶対昼までは起きないだろうし、鳩羽自身も今から部屋に戻って寝ようかと思っていたのだ。
「このまま教室行って寝よう……」
汗だくの服を着替えるより少しでも寝たい、と鳩羽はゆっくりと歩き出した。身体は悲鳴をあげ、休みを要求してくる。このまま部屋に戻ろうかと思った……けれど。あの、藤紫の部屋を思い出してしまう。
頑張らないと。
そう思って、どうにか身体を動かして教室に辿り着いた。
時計を見ると、授業開始まで二時間ほどある。
「つか、れた……」
鳩羽は机に上半身を投げ出した。疲れた身体はすぐ鳩羽の意識を闇の中へと連れて行った。
**********
二時間が経とうとした頃、鳩羽は揺り動かされて目が覚めた。
「おはよう。ぐっすり寝ていたのに悪いな」
桔梗と鉄紺が鳩羽を見下ろしていた。寝起きのいい鳩羽は目をこすって、二人に挨拶をする。
「あ、すみません。授業の時間ですか?」
「いや。紅樺は?」
「多分、実技館です。気絶してたんですけど、紅緋先生がそのままにしておきなさいって」
「そうか。紅緋の補習は厳しかっただろう」
「はい。もう身体があちこち痛いです」
笑う気力もなくて、項垂れるように答えると鉄紺が軽く鳩羽の頭を叩く。
「そんなお前にご褒美だ。今日から食事を再開していい」
「えっ!?」
それは嬉しい知らせだった。お腹が減ってどうしようもなかったのだ。最後にまともに食事をしたのは試験が始まる日の夜だった。
「ただ、授業がてら今日は狩りに行くぞ。そこで獲物を狩って食事をしよう」
狩りならば経験がある。よかった、と鳩羽は表情を緩めた。
「鳩羽は狩りしたことあるのか?」
「うん、捌くのはあんまりしたことないけど、狩りなら大丈夫だと思う」
「道具は準備しているから、行こうか」
「はい」
立ち上がると、だいぶ身体は楽になっていた。二時間でここまで楽になるだろうか、と首を傾げると鉄紺が疲労を軽減する術式をかけたと言った。
「術式っていっぱいあるんですね」
「そうだな。自分の得意分野があるから、それを中心に勉強するといい」
「鉄紺先生はどんなのが得意なんですか?」
「そうだな、幻術系を割と使うことが多いな」
「大雑把に言えば、肉体に働きかけるものだ。目の錯覚、肉体強化、もっといえば回復とかだ」
「回復、ですか」
「あぁ、私はそこまではできないが。回復はとても難しい。鳩羽は白橡の回復の術式を見たことがあるだろう? あれはとても高度なもので相当の鍛錬を必要とする」
「でも、できたら便利ですね」
桔梗はどうやら回復の術式に興味があるらしい。
鉄紺は穏やかに笑って、桔梗の頭を撫でた。桔梗は思わず身を引く。人に頭を撫でられるのが苦手なようだ。
「勉強したいなら今度質問しにきなさい」
桔梗の行動には特に何も言わず、鉄紺は手を降ろした。
「さ、話はここまでにして狩りに裏の山に行くぞ」
「はい」
「はい」
三人はそうして、教室を後にした。