二十七
少し暴力表現があります。
恐怖に心を支配されようとも、本能的に回避能力が働き、横に避けた。自分のどこにこんな運動能力があったのかわからないというほど、刺される寸前に避けることができた……が、勢いよく身体が動いてしまい、身体の均衡を失って、お尻を強かに地面へと打ちつけてしまった。
「いたっ!」
急いで立ち上がって助けを求めるように猩々緋を見たが、彼はあっさりと首を横に振り、「頑張れ」とだけ言った。その言葉は鳩羽からすれば死刑宣告に他ならない。
「私ね、鳩羽ちゃんと本当は戦いたくないの」
ゆっくりとこちらへと向かって歩いてくる桃の悲しそうな表情に、鳩羽は胸が苦しくなった。私だって戦いたくない、と言葉を返そうとした。けれどその前に桃が言葉を続ける。
「一瞬だけだから。ね、ちょっとだけ」
「お願い」と首を傾けてねだるその仕種は可愛い――普段であれば、の話だが。
「ぃ……嫌っ!!」
もちろん、頷くわけにはいかない。頷けば刺されると思うと、拒否する言葉は大きくなった。
「もお、お願いって言ってるのに」と桃は頬を膨らませる。余裕があるのだろう。どこか楽しそうにさえしている。
「あと二分!」
「もう時間ないし、ごめんね」
桃が片手の人差し指を構える。桃色の明るい色が素早く術式を描き出した。
「負けたら私、両手両足刺されるんだ。それはやっぱり嫌なの」
両手両足!? 驚いて鳩羽は目を見開いた。
そのたった数秒のやりとりで桃は術式を完成させ――
「きゃああああっ!!」
全身に衝撃が走る。何が何だか分からない。身体が、頭がびりびりと痺れる。味わったことのない衝撃に鳩羽は倒れこんで動けなくなった。
うつ伏せに倒れた鳩羽を桃が覗き込む。桃は眩いばかりの笑顔をしている。明るく屈託ない表情。
「よかった~、勝てて」と肩の力を抜いている。そして短刀を構えた。
短刀が振り下ろされるのをどこか他人事のように鳩羽は呆けたまま見て――。
ぐしゃり。
そんな音が身体の内側から聞こえ、鳩羽は意識を失った。
****
鳩羽が目覚めたのは薬品の臭いがする部屋だった。窓掛けが風で揺れていて、柔らかい日差しが入ってきている。
「おはよう、目覚めたみたいだね」
特徴のない声に寝台から視線だけ動かすと、予想した通り、その声の主――白橡≪しろつるばみ≫が立っていた。気分はどうかと聞かれ、掠れた声で鳩羽は返事をした。どれくらい寝ていたのか、喉がからからだ。
「あぁ、ちょっと待って。ほら、水。上半身ゆっくりでいいから起こして。そう」
「私……」
「うん、刺されたんだよ」
白橡は腰を指した。
鳩羽は寝間着の上からそっと腰に触った。全身が痛いため、腰に刺し傷があるという感覚がない。だが、包帯の感触から白橡が言ったことが本当だとわかる。
「試験は不合格だよ?」
「……すみません」
「まったく……不合格だけど、試験は結局十人受けて君は三位だよ」
思ってもみなかった順位に鳩羽は白橡を凝視した。
「洞窟を戻ってくることが試験だったけど二人しか戻ってくることはできなかった。だから、総合的に点数をつけることにしたんだよ。君の負け方はみっともなかった。だけど、事前の情報分析が大きな評価につながった。君だけだったんだよ? 推測していたのは。――もう一人いたけど、その子は「友達がそう言った」と言っていた」
「ただね……」と白橡は一息吸って言葉を続けた。
鳩羽に向ける視線が急に冷えたものになっている。
「試験内容は覚えている?」
「学校へ戻ること、でした」
「うん、そうだね。でも君は洞窟から動かなかった。それって試験――任務――放棄だよ? 」
白橡が鳩羽の上に乗る。
「あ……の……んっ!」
大きい掌で口を塞がれてしまう。
「任務放棄は重罪だ。まぁ、今回は試験だし、初めてだからこれで許してあげる」
そう言うと白橡は鳩羽の腰の部分を摩った。何を……と思った瞬間、ぐっと腰を押された。
――!!
あまりの痛さに鳩羽の目から涙が溢れる。抵抗することもできない。それは怖くてなのか、苦しくてからなのかわからない。
力の加減を変えられて、ぐっと何回も押される。
「あぁ、泣かないで……自業自得なんだから」
その台詞を言った白橡の声は低くてとても優しい。
印象を持ちにくい声が常だったから、今出されているこの穏やかな声が余計に怖い。ぶるりと震えた鳩羽に笑顔すら見せる。
「試験日を予測したのは素晴らしかった。でもね、それは試験――をきちんとこなして初めて評価されるものだ。今回が特別と思っておいた方がいい」
口を覆っていた手がゆっくりと離された。鳩羽は大きく息を吸って、涙を流したまま白橡を見上げた。
「うん、今叫ばなかったのはいいね。いい? 試験や任務は成し遂げることが最優先だ」
鳩羽は手で涙を拭いながら頷いた。返事をしないとまた何かされそうで怖くて頷いたというのが本音だ。それでもその返事に白橡は満足したのか、鳩羽の頭をぽんぽんと軽くたたいた。
「血がまた出ているだろうから手当するよ」
白橡が布団をばさりと捲る。言った通り寝間着にじんわりと血が滲み、それは布団にもついていた。
「あぁ、怒られるなぁ」
布団の血は落ちないんだよね、と白橡はどうしようかと首を傾げた。そして諦めたのか布団をベッドの下へと落とす。
「まぁいいか。手当するよ。ちょっとごめん、直接しないと効かないんだ」
包帯をするするとほどいていく音がする。怖くて動けない鳩羽を気にすることもなく、白橡は面倒くさそうに術式を描いていく。複雑な模様を必要とする治癒の術式はとても難易度が高い術式だが、今の鳩羽はそれを知る由も気にする余裕もない。
「少し歪にしてあるよ。完全に治してしまったら君のためにならないから」
血は止まったが痛みは治まっていない。
「歪な術式はどうなるかわからないんだよね。どう?」
「痛……い、です」
肩を震わせてしゃくりあげならが鳩羽は答えた。
「そう。後から鉄紺先生が来るからそう言って。じゃあ僕は帰るから」
白橡が出て行き、鳩羽は一人になった。
精神的にも身体的にも傷を負った彼女は目を閉じる。
もう何も感じたくない。痛みなんか感じない身体だったら良かったのに。怖さとか、そういうのも全部感じなければよかったのに。
鉄紺が来ると言われたのに、鳩羽はそのまま深い暗い眠りについた。