二十六
どれくらい経ったのか分からない。目が覚めたのは御手洗いに行きたくなったからだった。
「どうしよう……」
勿論その設備はない。
暫く我慢してみたが、尿意は消えず、寧ろ強まるばかりだ。
「……っ、もう無理っ」
急いで何も書いていない覚え書きを帳を破って、洞窟の端へ走った。
………
……
…
……なにかの一線を越えたような気がする。
鳩羽は複雑な表情で、荷物を置いていた場所へ歩み戻った。
固い保存食を噛みながら、洞窟を見渡す。相変わらず光の球で照らせる範囲以外は真っ暗だが、不思議と昨日よりは怖くない。昨日はだいぶ気が動転してたようだ。
昨日はうじうじしてしまったが、結局二択でしかないのだ。
進むか、進まないか。
進めば罠が張ってある。尚且、一週間以内に戻ることができなければ食事抜き。
進まなければ、一週間食事抜きは決定。罠にはあたらない。
考えれば簡単だった。
学校へ戻ろうとすれば、大変な目に合う可能性が高い。
早く出たいけれど、それよりも安全が第一。
洞窟の奥、白橡≪しろつるばみ≫が消えた場所。そこで待っていようと鳩羽は荷物を持って立ち上がった。すたすたと歩いて行く。
「……あれ?」
歩くことほんの僅か。もう辿り着いてしまった。思っていたより移動していなかったらしい。
「なんだ……」
寝床をつくりあげると鳩羽はころりとまた寝転がった。
●●●●
それから何日経ったのだろうか。
最初は何もせず、ぼんやりしていたがそれも段々飽きてきた。自分が割りと考えたり動いたりすることが好きなんだとこのとき初めて知った。
他にすることもないので持ってきていた覚え書き帳を開く。片手に光の球を発動させ、片手で頁を捲った。覚え書き帳には授業で習ったことや借りた本に載っていた術式などを書いている。覚え書きに
「自分で書いたにしても、術式って多いなぁ……」
術式の数はとても多い。光の球の術式から、火の発動、転移や治癒といったものまで様々だ。普通の生活で使うことができたらとても便利になると思うが、それは禁じられている。使う以前にその知識を一般に教えることもできないそうだ。破るととても厳しい処罰を受けるらしい。
暇な時間だけあった鳩羽は試しにどれか発動させてみようとした。まだ習ってはいないが、少しくらいいいだろう。そう思って、頁を捲っていた方の手で術式を描こうとしたとき――。
「ねぇ、何をしてるの?」
可愛い声が聞こえた。
「誰?」
びっくりして鳩羽は光の球を消してしまった。
「あ~、真っ暗じゃない」
思ったより近くから明かりが照らされて鳩羽は慌てて一歩引いた。
ふわりと浮いた光の球の下にいたのはふわふわした可愛い女の子。年齢は自分とあまり変わらない気がする。
「試験しにきたの」
「試験?」
「うん、私は一つ上の学年の帯組の桃。今の段階で鳩羽ちゃんがどれくらいの実力をもっているかの試験。私と戦ってもらってうの」
「え……」
いきなりの話に鳩羽は一歩後退りをする。どう返事すればいいのか解らない。首を横に振った。
「規定は簡単。私が血を流せば私の負け。私が鳩羽ちゃんのどこかをこの短刀で刺せば私の勝ち。制限時間は5分」
「は……?刺す?」
聞き間違えだろうか。そう思って問い返したが、返ってきたのは肯定の言葉だった。笑っている桃の表情が狂気じみて、鳥肌がたった。
「鳩羽ちゃんには有利な条件として、体力強化の術式をかけるね」
近づいてくる桃が悪魔に見えて、鳩羽は思わず逃げ出した。刺される自分を想像すると、恐怖が胸を支配する。
嫌だ!
けれども、逃げることはできなかった。がしりと身体を掴まれる。
「逃げるのはなしだ」
急に現れた第三者に鳩羽は短い悲鳴をあげた。それを聞いて桃がくすりと笑う。
「そんなに怯えるな。俺は簪組の猩々緋だ。この試合の監督役だ」
「っ、離してくださいっ!」
叫ぶように言っても猩々緋は鳩羽を捕まえたまま離さない。桃がゆっくりと歩み寄ってくる。
「ひっ……」
「落ち着けって。体力強化の術式は身体―胸―に触れないとできないんだ。俺がしたら犯罪だろ?」
「そうよ。大丈夫、猩々緋先輩がいるからズルはしないわよ」
桃色の綺麗な線で術式を描き、桃はそっと鳩羽の胸に手を遣った。どくり、と身体が熱くなる。
「終わったわ。ちょっとごめんね?」
桃がお腹を殴る。けれど全然痛くない。
「大丈夫だな、では離れて。今から始める」
「宜しくね、鳩羽ちゃん」
「はじめっ!」
次の瞬間衝撃が鳩羽を襲った。身構えていなかったため、後ろに吹き飛ぶ。
「っ!!げほっ!」
打ち付けた背中に痛みが走る。じんわりと視界が滲んできた。
「泣かないで、やりにくいじゃない。ちょっと怪我してもらうだけだから、ね」
「怪我って……」
刺されることはちょっとなのか。思わず顰めっ面になってしまった。
「術使になったら怪我は当たり前だし……逆に人を殺めたりするんだもの」
「……っ」
「だからこんなの可愛いもの」
「ほら、話す時間はないぞ!」
猩々緋に言われて、桃は短刀を構える。
「ごめんね、虐めるのは趣味じゃないんだけど」
そう言って、桃は地面を蹴った。