速度の監督、トニー・スコット――最後まで止まらない映画を撮った男
トニー・スコットと聞いて、何を思い浮かべるだろう。
「トップガンの人」――たぶん、多くの人はそこで止まる。
それも仕方ない。『トップガン』(1986) は、トム・クルーズをスターに押し上げ、アメリカ映画の撮り方そのものを変えた映画だから。
でも、それだけじゃトニー・スコットは語れない。
俺にとって、トニー・スコットは「品行方正な巨匠」じゃない。「画面を燃やす職人」だ。
批評家には「スタイルが中身を食ってる」なんてけなされたけれど、画面から目が離せない。
目を閉じても、色と動きが網膜に残る。そういう監督だった。
そして2012年8月19日、彼はロサンゼルスのヴィンセント・トーマス橋から身を投げた。68歳。
このエッセイは、その生涯と最期を、事実ベースで掘り下げて、検証し、そして――正直に言えば――俺個人の推測と勝手な読みも交えて書く。
共感するかどうかは読んだあなた次第だ。
トニー・スコットという映画作家を、もう一度、俺自身の言葉で語り直したい。
理由は最後までわからないかもしれない。
でも、彼の映画は残っている。それだけで、話す価値はある。
画家になりたかった少年
1944年6月21日、トニー・スコットはイングランド北東部、ノーサンバーランド(現在のノース・タインサイド)に生まれた。
記録によって、タインマス、あるいはノース・シールズとされる。
父は英国陸軍の工兵隊に仕える軍人、母は映画を愛する人だった。
軍人だった父の転勤で家族はあちこちを転々とし、母は子どもたちに映画への愛を植え付けた。
トニーは三人兄弟の末っ子で、上の兄リドリーは7歳年上。
兄が1960年にロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)へ進んだあと、トニーも Sunderland Art School で美術を学び、West Hartlepool College of Art を経て、自身もRCAを目指した(最初の挑戦では不合格となったが、後に再挑戦して入学している)。
もともとは画家になりたかった。
映画を撮るなんて、最初は考えてもいなかった。
16歳のとき、トニーは兄リドリーの初監督作『少年と自転車』(Boy and Bicycle) に、学校をサボる少年役で出演している。
撮影自体は1960年代初頭、資金繰りの都合で完成・公開は1965年までずれ込んだ――つまり「16歳の出演」と「1965年公開」は同じ年の出来事ではない。
兄のカメラの前に立ったのが、トニーと映画の最初の出会いだった。
画家志望の若者は、RCA在学中に短編映画を一本撮る。
1969年の『One of the Missing』。
南北戦争を舞台に、倒壊した建物の下に閉じ込められた兵士が、脱出を諦め、自ら死を選ぼうとする――台詞はほとんどない、26分ほどの静かな物語だ。
のちにハリウッドで「速度と爆音」の監督になる男が、最初に撮った映画が「死に向かう男の静かな恐怖」だったという事実は、後で考えると、何か重いものを置いていかれる。
広告の世界、そして「フェラーリ」の約束
RCAを卒業しても、画家で食っていくのは難しかった。
そこで兄リドリーが声をかけた。
「BBCのドキュメンタリー部門へ行くのをやめて、まずは俺のところに来い。1年以内にフェラーリに乗せてやる」。
トニーは車が好きだった。兄の約束に釣られた。
そして本当に、フェラーリを手に入れた。
1973年に設立されたリドリーの会社 Ridley Scott Associates(RSA)で、トニーは何百本、いや数千本とも言われるテレビCMを撮った。
スウェーデンの自動車メーカーSAABのCM――SAABの乗用車と戦闘機ビゲンを並走させる――は、のちに『トップガン』を撮るきっかけになった。
この「車とジェット機を並べる」という発想が、そのまま映画の中の、トム・クルーズがバイクで滑走路を走り、背後で戦闘機が離陸する有名なシーンに生きている。
CMで鍛えられたのは「1秒で観客の目を掴む」技術だった。
1分に満たない世界で、印象に残り、心に残る映像を作る。
それがフィルムの長い物語に持ち込まれたとき、映画の文法そのものが変わる。
1980年代、平均的なショットの長さは大きく短縮されたと言われる。
トニー・スコットは、その変化の最前列に立った男の一人だった。
『ハンガー』と、トップガン以前
最初の長編『ハンガー』(The Hunger, 1983) は、キャサリン・デヌーヴ、スーザン・サランドン、そしてデヴィッド・ボウイという奇跡のような顔合わせのヴァンパイア映画だった。
デヴィッド・ボウイは「彼は物語の筋書きより、一つの映像を次の映像にぶつけることに夢中だった」と振り返っている。
評判は良くなかった。
商業的にも失敗し、トニーは「ハリウッドを追放された」と後に語った。
けれど、この失敗作に目をつけたのが、ドン・シンプソンとジェリー・ブラッカイマーだった。
彼らはトニーに『トップガン』を託す。
最初は乗り気じゃなかったトニーも、最終的に監督を引き受けた。
『トップガン』が世界を変えた日
1986年5月16日、『トップガン』が公開された。
ハリウッドの映画は、それまで「ワイド、ミディアム、クローズアップ」の伝統的な撮り方が当たり前だった。
トニーはそれを壊した。
長焦点レンズを使い、浅い被写界深度を生み、煙と逆光で空気を可視化し、MTVのリズムでカットを重ねた。
サンセット・オレンジとブルーのフィルター、夕日を背にしたスローモーション――それらは、当時の若い観客の目に、衝撃として焼き付いた。
結果は歴史的事実だ。
1986年の全米興行収入トップ。
3億5000万ドル以上を稼ぎ、トム・クルーズをスターにした。
翌年にはアメリカ海軍の志願者が増えたという逸話まで語られるほど、社会現象になった。
批評家には「軍のリクルート広告だ」「中身が空っぽだ」と批判されたけれど、それはトニーにとって「批判する相手が違う」ということだったのかもしれない。
彼はアートを撮りたかったんじゃない。
観客の体感を撮りたかった。
『トップガン』はその後の商業映画のテンプレートになった。
マイケル・ベイの『トランスフォーマー』も、『ワイルド・スピード』も、『ボーン』シリーズも、トニー・スコットが切り開いた早いカットと視覚優先のスタイルなしには語れない――と多くの批評家が指摘している。
映画評論家ポーリン・ケイルは彼を「トニー・メイク・イット・グロー(光らせる男)・スコット」と呼んだ。最高のあだ名だと思う。
兄の影、でも兄の影じゃない
トニーのキャリアは、常に兄リドリーと比較された。
リドリーは『ブレードランナー』『エイリアン』『グラディエーター』を撮る「巨匠」。
トニーは『トップガン』『マイ・ボディガード』を撮る「職人」。
構図は似ている。光と色彩への執着は同じだ。
でも、向かった先は違った。
リドリーが壮大な叙事詩の監督なら、トニーは「速度」の監督だった。
彼自身、「俺は絵描きとして思考し続けている」と語った。
事実、トニーは画家だった。
映画のフレームをキャンバスとして、色と光と動きで絵を描いた。
だから彼の映画は、ストーリーの直線的な前進に還元されたときが一番輝く。
『エネミー・オブ・アメリカ』の追跡劇、『クリムゾン・タイド』の潜水艦内の往復する緊張、『マイ・ボディガード』の復讐譚――これらは、脚本が「一直線に走る」物語で、トニーの映像美学が最大限に生きた作品だ。
兄の影にいた、とだけ言うのは不正確だ。
彼は兄と同じ土壌から育ちながら、別の花を咲かせた。
広告という共通の言葉を持ちながら、トニーはリズムと輝きへ、リドリーは壮大さと重厚さへ向かった。
1995年、兄弟は揃ってBAFTAの「英国映画への傑出した貢献賞」を受賞している。
偏愛される作品たち
『トップガン』だけの人じゃない、と書いた。
トニーのフィルモグラフィは、偏愛する映画好きにとって宝の山だ。
『ビバリーヒルズ・コップ2』(1987)、
『デイズ・オブ・サンダー』(1990)、
『ラスト・ボーイスカウト』(1991)、
そして『トゥルー・ロマンス』(1993)。
この『トゥルー・ロマンス』は、クエンティン・タランティーノが脚本を書き、トニーが監督した。
タランティーノの言葉とトニーの映像がぶつかり合い、奇妙で愛すべき暴力と恋の映画が生まれた。
多くの映画ファンが、これをトニーの最高傑作だと呼ぶ。
90年代後半からは、デンゼル・ワシントンとのコンビが始まる。
『クリムゾン・タイド』(1995)、
『マイ・ボディガード』(2004)、
『デジャヴ』(2006)、
『サブウェイ123 激突』(2009)、
そして遺作『アンストッパブル』(2010)――トニーはデンゼルと5度組んだ。
デンゼルは「ナイン・カメラのトニー、彼は本当のアーティストだ」と彼を呼んだ。
一つのシーンに9台のカメラを立て、同時に回す。
編集で繋ぐのではなく、現場で「速度」を作る。
それがトニーのやり方だった。
晩年、そして最期
2010年の『アンストッパブル』は、暴走する無人列車を止めようとする男たちの物語だ。
トニー最後の監督作。
逃走する列車が、現実にはありえないほど多様な地域と天候を次々に駆け抜ける――「緑の風景から雪景色まで一気に行くんだ。まだ誰も気づいてないよ!」とトニーは笑ったという。
連続性を犠牲にしてでも、映像の興奮を優先する。
それが彼の美学の最後まで一貫した姿だった。
そして2012年8月19日、日曜日の午後12時30分頃。
ロサンゼルス、サンペドロ港。ヴィンセント・トーマス橋。
その橋はサンペドロとターミナル島を結ぶ、全長約1,500メートルの吊り橋で、水面から185フィート(約56メートル)の高さがある。
ロサンゼルス港で知られる「飛び降りの場所」だった。
目撃者の証言によれば、トニーは車を停め、橋の欄干をよじ登り、一度足を止めて、それから身を投げた。
「あいつは死んだ」と、その目撃者は直感したという。
数時間後、遺体が港の水面から回収された。68歳だった。
死の噂と、事実の検証
ここを曖昧にすると危ないので、事実を整理する。
死の直後、ABCニュースが「匿名の情報源による、トニー・スコットは手術不能の脳腫瘍を患っていた」と報じた。
これが「脳腫瘍で苦しみ、自ら死を選んだ」という噂の源だった。
広まった噂をネット上でも、多くの人がそう信じた。
けれど、これは事実ではない。
まず家族が否定した。
妻ドナ・ウィルソン・スコットは「完全に誤りだ」と否定。
検視当局のクレイグ・ハーヴィーも「家族は『手術不能の脳腫瘍』というのは不正確だと伝えてきた」と述べた。
2012年10月22日、ロサンゼルス郡検視局が最終報告を発表した。
死因は「多発性鈍的外傷」、副次的要因として「溺水」。死の様態は「自殺」。
橋から海へ飛び降りた、という事実確認だった。
トキシコロジー報告では、抗うつ薬ミルタザピン(レメロン)と睡眠薬エスゾピクロン(ルネスタ)が検出された。
血中濃度はいずれも過剰摂取を示す値ではなかった――少なくとも、これらの薬物が致死的な過量摂取の原因になったことを示す結果ではなかった。
抗うつ薬や睡眠薬を服用していたこと自体は確認されている。
しかし、それが彼の精神状態や自殺の動機を直接説明するものではない。
そして「解剖学的に、腫瘍(neoplasia)の証拠は認められなかった」。
検視当局は「深刻な基礎疾患はなかった」と明記した。
少なくとも、検視では脳腫瘍を示す所見は認められなかった。
ABCニュースは報道を正式に撤回し、遺族に謝罪した。
橋に残された車の中と、彼のオフィスに、それぞれメモが残されていた。
車の中のメモには連絡先が記され、オフィスのメモは家族宛てだったと報じられている。
けれど、その内容は公開されておらず、動機を説明するものではなかった。
つまり――動機は、いまもって不明である。
家族は公に説明していないし、遺書からも理由は読み取れない。
検視報告は「なぜ」ではなく「何が」を語るにとどまった。
考察:映画と最期を重ねる、という個人的な読み
ここから先は事実ではなく、俺個人の勝手な読みだと断っておく。
あくまで一つの解釈であって、押し付けるつもりはない。
トニー・スコットの映画には、一貫して「速度」と「制御不能」があった。
ジェット機、暴走列車、止まらない追跡。
『トップガン』の離陸、『アンストッパブル』の誰も止められない列車、『マイ・ボディガード』の自ら破滅へ向かう男――どれも「止まれない男たち」の物語だ。
そして彼の最初の短編『One of the Missing』は、動けなくなった兵士が脱出を諦め、自ら死を選ぶ物語だった。
彼が映画を始めた最初の物語に、すでに「動けなくなり、死を選ぶ男」が描かれていたのは、事実として興味深い符合ではある。
これを無理に人生と結びつけるのは危うい。
映画は映画、人生は人生だ。
ただ、抗うつ薬と睡眠薬が「治療量」だったという事実は、彼が何かと闘っていたことを示唆している。
処方された量を、きちんと飲んでいた。
それでも止まれなかった何か――それが何だったのかは、誰にもわからない。
その先に踏み込むのは、遺族の領域への土足になる。だから、ここで止める。
断定できるのはただ一つ――動機は不明であり、脳腫瘍説は否定された、ということだけだ。
トニー・スコットがなぜ死を選んだか、恐らくほとんどの人たちは知らない。
遺書は理由を語らず、検死報告は「何が起きたか」を語るにとどまった。
家族は沈黙を選んだ。それは、彼らのものだ。俺が踏み込んでいい領域じゃない。
けれど、残っているものがある。映画だ。
『トップガン』の、夕日を背にバイクを走らせるトム・クルーズ。
『トゥルー・ロマンス』の、逃げ続ける二人。
『クリムゾン・タイド』の潜水艦の中で噴き上がる緊張。
『マイ・ボディガード』の「復讐は創造的でなければならない」。
『アンストッパブル』の、止まらない列車。
どれも、今見ると「生き急いでいる」ように感じる。
画面が、息をするみたいに、速く速く動いている。
トニー・スコットは「スタイルが中身を食っている」と批判された。
でも、その「スタイル」こそが中身だった。
彼は絵描きで、映画のフレームをキャンバスに、色と光と速度で絵を描いた。
批評家が「深みがない」と言ったものは、実は「体感」という、もっと原始的で強い深みだったのかもしれない。
目と、胃と、腹の底に来る映画。それが彼の映画だ。
兄リドリーは今も映画を撮っている。
兄の影に見られがちだった弟は、しかし、ハリウッドの商業映画の文法そのものを書き換えた。
『トップガン』がなければ、マイケル・ベイも、『ワイルド・スピード』も、『ボーン』も、今の形ではなかっただろう。
今、映画館に足を運ぶ観客の多くは、知らず知らずのうちに、トニー・スコットの作った文法で映画を観ている。
最期の橋について、これ以上詮索するつもりはない。
ただ、一つだけ言わせてほしい。
彼は最後まで、止まらない映画を撮った。
そして、最期もまた、止まらなかった。それが、彼の映画だった。
そう思うと、また一本、彼の映画を観たくなる。
『トゥルー・ロマンス』でもいいし、『アンストッパブル』でもいい。
夜が更けた部屋で、彼の映した「速度」と「色」に、もう一度身を任せたくなる。
トニー・スコットという監督がいたこと。
彼が画面を燃やし続けたこと。
それを、俺は忘れない。
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主な出典
Tony Scott - Wikipedia
Tony Scott had no illness at time of suicide, coroner finds - LA Times
Tony Scott's death confirmed suicide - BBC
Tony Scott had antidepressant in system but no cancer - The Guardian
Coroner says Tony Scott's family ruled out cancer in his suicide - Reuters
ABC Formally Retracts Tony Scott Brain Cancer Story - Adweek
Motive for director Tony Scott's suicide still a mystery - LA Times
Man on fire: Tony Scott - BFI Sight and Sound
Scott, Tony - Senses of Cinema
Tony Scott's films: still glowing after all these years - The Guardian
Remembering 'Top Gun' Director Tony Scott - NPR
Tony Scott: British director of slick, frenetic action thrillers - The Independent
Boy and Bicycle - Wikipedia
One of the Missing - IMDb




