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月影の約束 ~消えゆく影と、残るぬくもり~

作者:
掲載日:2026/04/07

満ちる月の夜にだけ、現れるものがある。


触れられなくても、見えなくても。

それでも確かに、そこに在る想い。


これは――

ひとつの約束と、やさしい別れの物語。



月が満ちる夜だけ、その子は現れる。

誰もいないはずの廊下。風もないのに、襖がわずかに揺れた。

「……見つけた」

小さな声が、闇に溶ける。

覗いているのは、ひとりの少女。いや――人ではない。

白い髪に、獣の耳。紅い瞳は月の光を映し、頬には朱の紋様が揺れている。

幼い狐の妖。

彼女はずっと、ここにいた。人の住まなくなったこの屋敷で、ただ静かに、何かを待っている。

「また来てくれたの?」

そう言って、誰もいない廊下へ問いかける。

答えはない。けれど彼女は微笑む。

人には見えない“それ”が、確かにいると知っているから。

足音がひとつ、近づく。

コツ、コツ、と。

それは生者のものではない。けれど怖くはない。むしろ、懐かしい。

「遅いよ……」

少女は襖の影から一歩だけ顔を出す。

その瞬間、月明かりが強く差し込み、彼女の姿を照らした。

しかし――

次の瞬間には、もういない。

ただ、ほんの少しだけ温もりが残る。

そして、微かな声。

「今度は、ちゃんと見つけてね」

月は静かに、すべてを見ていた。



それから何度、月が満ちただろう。

屋敷は変わらず静かで、人の気配はもう、ずっと昔に消えていた。

けれど――

「……来た」

少女は、わかる。

月の光が障子を透かす夜。ほんのわずかに、空気が揺れるとき。

あの“足音”が戻ってくる。

コツ、コツ、と。

「ねえ、今日は……ちゃんと見える?」

襖の隙間から、そっと覗く。

けれどそこにあるのは、やはり何もない空間。

触れられない。姿も見えない。

ただ、確かに“そこにいる”だけ。

「……また、だめか」

小さく息を吐く。

その声は、どこか寂しげで、けれど少しだけ慣れてしまった響きだった。

――昔は、違ったのに。

「覚えてるよ」

少女は、誰にともなく語りかける。

「ちゃんと、名前も呼んでくれた」

幼い日の記憶。この屋敷に、人がまだ住んでいた頃。

彼だけが、この姿を見てくれた。

怖がりながらも、逃げずに。何度も、何度も。

「“また来る”って、言ったでしょ」

あの日、約束した。

月の夜に、また会おうと。

けれど――

その約束が、どんな形で果たされているのか。少女は、もう気づいている。

コツ、コツ。

足音が、すぐそばで止まる。

「……ねえ」

少女は、そっと手を伸ばす。

触れられないとわかっていても。

「ここにいるよ」

すると――

ほんの一瞬だけ。

冷たい空気が、やわらかく揺れた。

まるで、誰かが同じように手を伸ばしたみたいに。

「……ふふ」

少女は、少しだけ笑う。

涙はこぼれない。その代わりに、月を見上げた。

「ちゃんと、来てくれてるんだね」

たとえ姿が見えなくても。声が届かなくても。

約束は、まだここにある。

でも――

「次は、ちゃんと……見つけてね」

その願いだけが、少しだけ切なかった。

月は、何も答えない。

ただ静かに、ひとりと、ひとつの影を照らしていた。



その夜は、少し違っていた。

月が、やけに近い。まるで、すべてを見届けるために降りてきたみたいに。

コツ、コツ。

いつもの足音。けれど――どこか、はっきりしている。

「……え?」

少女は、思わず息をのむ。

襖の向こう。そこに“影”があった。

ぼんやりとした輪郭。けれど確かに、人の形。

「……やっと、見つけた」

声が、聞こえた。

はじめて。ずっと待っていた声。

少女の瞳が大きく揺れる。

「……ほんとに?」

一歩、踏み出す。

逃げたら消えてしまいそうで、でも近づかなければ、また届かない気がして。

「うん。遅くなって、ごめん」

影は、ゆっくりと形を持つ。

懐かしい顔。少しだけ大人になった、あの日の少年。

「……遅いよ」

少女は笑う。けれどその声は、少しだけ震えていた。

「ずっと、待ってたんだから」

「知ってる」

少年も、微笑む。

「ずっとここに来てた。けど……見えなかった」

「うん」

「でも、今日だけは違う気がしたんだ」

月が、ふたりを照らす。

まるで、許された時間みたいに。

少女は、ゆっくりと手を伸ばす。

今度こそ――

触れた。

ほんのわずか。けれど確かに、温もりがあった。

「……あったかい」

その一言に、すべてが詰まっていた。

少年は、少しだけ目を伏せる。

「長くはいられない」

その言葉に、少女の耳がぴくりと動く。

「……うん。わかってる」

不思議と、泣きはしなかった。

もう、知っていたから。

この再会が、終わりでもあることを。

「最後に、ちゃんと会えてよかった」

少年はそう言って、少女の頭にそっと手を乗せる。

昔と同じ、やさしい仕草。

「約束、守れたね」

少女は小さくうなずく。

「うん。ちゃんと……見つけてくれた」

静かな時間が流れる。

言葉はいらない。ただ、その一瞬を刻むように。

やがて――

少年の姿が、少しずつ透けていく。

「……もう、行くね」

「うん」

少女は、微笑んだまま答える。

「またね、って言わないの?」

少年が少しだけ困ったように笑う。

少女は、首を横に振った。

「ううん。もう大丈夫」

そして、まっすぐ見つめる。

「ちゃんと来てくれたから」

その言葉に、少年は静かにうなずく。

「……ありがとう」

最後の声。

次の瞬間、姿は消えた。

静寂が戻る。

けれど――

もう、寂しくはなかった。

少女は、ゆっくりと襖にもたれかかる。

「……またね、じゃなくていいんだよ」

月を見上げて、小さくつぶやく。

「ちゃんと、終われたから」

風が、やさしく通り抜ける。

その夜を境に。

月の満ちる夜でも、足音はもう、聞こえなくなった。

けれど――

少女は時々、笑う。

まるで、あの温もりを思い出すように。

月は今日も、静かに照らしている。

ひとりの妖と、ひとつの優しい約束の終わりを。



※この物語には、もうひとつの視点があります。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


月の下で交わされた約束は、形を変えながらも確かに続いていました。

そして最後に、ふたりはちゃんと出会い、終わることができました。


残ったのは、悲しみではなく“ぬくもり”。


そんな余韻が、少しでも心に残れば嬉しいです。

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