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2-3

 すぐに歩き出す夏羚を追いながら、路傍の雪さながらに溶けてしまいそうだと汗を拭う。

 足を緩めた途端、嫌でも引っ張られるのだから呼吸を整える間もない。

 日が昇るにつれて雪は融けて流れ出し、清水は渓流の川のごとく勢い駆け巡っていた。

 初夏らしい、蒸すような暑気が身体にまとわりつく。

 夏羚はそのうねるような陽炎の中を、十歩も二十歩も先を行っている。

 耳と尾を隠す外衣の下は汗だくであった。

 その身体が十五才のまま腐らないのは、天に養われているためである。

 天が人を食べるために大地や空気という恵みが与えられている。

 だから、死ぬということは天に食わるということ。

 生き返ってしまったから、この身体は滋味に乏しいと吐き出されたようなものだ。

 なのだから、作物の恵みは、天からの恵み……、

 人間は養われているのだから、他人の桑林へふらりと寄って、こっそり実を食べるのも、許されるに違いない。

「兪、」

 と、叱責するような夏羚の声が届いたとき、兪倩狼は桑の実を口いっぱいに頬張っていた。

 来いというような、夏羚の首の動きが陽炎のなかで見て取れた。

 その向かいに、どうやら人影がある。

 資料を携えた晏渢が、雨青から戻ってきていた。

「該当の村と他村とでは感染時期は一致しませんでした」

 同時期にたたりが発生していれば、そこから感染経路が追えると夏羚は考えていたようだ。

 ところが晏渢の情報では、それも難しいようだ。

「それから、村の最初の罹患者は、氏名と生まれ、どちらも判明しませんでした」

「――无名氏(ウーミンし)だ」

 外衣に日射しを漉しながら、すかさず兪倩狼は訂正する。

 鈴の音とともに頭上から降ってきた晏渢は、頭から外衣を被った兪倩狼に「暑苦しいな」、と一瞥し、すぐさま神妙な顔付きになった。

「なんだ、それは――」

 无名氏とはなんのことだと、重ねて詰め寄ろうとして、

「――晏渢、直近でたたりが起こった地域はあるか」

 夏羚の声にはっと背筋をただす。

「直近では、三年前、農村と城下の街でたたりが発生していました」

「干ばつが起こっているはず」

「干ばつが起こったのは、農村です」

「なら、无名氏の出身地は農村の可能性が高い」

 夏羚の口からも、无名氏――と、晏渢は若干戸惑った顔色を隠さない。

 夏羚と似て感情の起伏は平らだが、夏羚と違って心の声が目元に漏れる。

 わかりやすい少年だ。

「晏渢も、无名氏と呼べよ」

 ようやく少し休めると、木陰に腰を下ろし、揶揄うように呼びかけた。

「だから、なんだ、无名氏とは」

 夏羚の耳に入らないよう、声を落とす晏渢の口調が、途端に粗っぽくなる。

 晏渢はこの瞬間、一旦職務を脇へ置くことにしたらしい。

 无名氏と、兪倩狼が言うのはまだしも、夏羚さえその呼び名に従ったことが衝撃だったらしい。

 二人の間で名付けが決まったいきさつについて、探求心が放っておかないのだ。

「野暮だぜ、晏渢」

「茶化すな兪倩狼」

 いがみかかる晏渢に喉で笑いながら、久しぶりの手応えに愉快だった。

 すると夏羚が静かに口を開く。

「村の最初の罹患者と呼ぶのでは長い。无名氏と呼ぶ方が、都合が良い」

 はからず、上司から答えを聞き、晏渢はばつが悪そうに顔をしかめた。

「兪倩狼の、影響ですか?」

「……農村についての、報告を」

 晏渢の疑問に一瞬、夏羚の唇が閉ざされる。

 視線が僅かに逸れたのを、二人は見逃さなかった。

 ――図星だ、と、晏渢が見抜くと同時に、

 ――図星らしい、と兪倩狼は密かに笑った。

 そのあからさまに笑う兪倩狼の肘を捻りつつ、晏渢は咳払いをして続ける。

「三年前、確かに農村ではたたりが発生したようですが、処罰後に収束をみせたようです。しかし、直後に干ばつにより衰退。現在居住者はいません。最後の住民は飢餓で亡くなっています」

「被処罰者数と、その氏名は」

「記載が漏れて不明です」

「記載漏れは、父老の関与が疑われる。村の父老と、当時対応に当たった調査官を調べ直せ」

「はい」

「――それと、十年前のことについて、何かわかったことは」

 若い身体を翻らせ、すぐさま調査に戻ろうとした晏渢は、夏羚の呼びかけに立ち止まった。

「まだ、調査中です。進展があり次第報告します」

 うん――、

 と、頷くのをみてから、降ってわいた時と同様に、今度こそ空へ高く飛び上がっていく。

 兪倩狼はゆっくりと腰を上げた。

 どうやら、向かう先は決まったようだ。

(シア)、」

 農村へ行くのだろ、と、兪倩狼は進み出す。





 群青の、菖蒲の花の風情はひっそりとし、うそぶく獣の声が通り抜けていく物寂しい農村であった。

 思わず顔を背けたくなるほどの臭気が、村に近づくにつれてきつくなっていく。

 乾ききった大地のあかぎれから、しみこんだ臭いでもふき上がってくるようだった。

 晏渢の報告では、たたりは三年前に収束したという。

 そのわりには、

「酷いにおいだな……」

 腐敗と、蜂蜜の饐えたような独特な臭気。

 そのすさまじさに、兪倩狼は思わず踏みとどまっていた。

 泥っぽく重たげな風の湿り気に拭われながら、草の根を踏み分けていく。

 たたりは収束したはず。

 しかしこれでは、まるで最近まで罹患者がいたような気配だ。

 その困惑に、夏羚の賛同するような視線と結びついた。

「罹患者を絶ちながら、再びたたりが蔓延することは、ありえるのか?」

「……村外からの往来が激しければ、考えられる」

「ここは、僻地の農村で、人の出入りも激しくはなさそうだが」

 雪で折れた(すすき)の上を風が渡る度、褪せた花穂の乾いた音が波を打っていく。

 そのないだ薄の向こう。

 庭院を擁した屋敷が、浮かない顔で佇んでいた。

 草臥れた二階建ての、父老の屋敷だった。

「また、父老の家を調べるのか?」

 前回は大勢の方士がいたが、今回は夏羚と兪倩狼の二人だけ。膨大な資料から手がかりを探すには骨が折れそうだが、やれというのなら仕方がない。


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