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「……いや、なんでもない。ただの亀裂だ」
村のたたりと亀裂に関係があるのなら、夏羚の方がよほど詳しいはず。けれど亀裂という単語をだしても、夏羚は反応しなかった。
心当たりがないのだろう。
それに、たたりよりも自身の死因に関係している可能性の方が高い。それを、混同させるわけにもいかない。
「夏、首の紐は、どれくらい伸びる?」
沈黙から逃げるように窓際へふらりと近づいていく。
「あまり、遠くへは行けない」
「屋根にいる。寝台より寝心地がいいからな」
窓から身を乗り出し、軒先に手をかけた。
勢いよく両足を蹴り上げて、ひょい、と、宙返りをするように屋根の上に飛び乗る。
宿屋の一階は茶店を営む、女主人の店である。
気が利かない訳ではないけれど、愛想はない。
外衣に身を包んだ兪倩狼に対してもとくに詮索する気はないようだった。それがむしろ、口の堅い人という印象を抱かせた。
主人の声は堂々として良く届き、入れ違いのように夜食を届けに来たことも筒抜けに聞こえてくる。
「――食べろ」
簡単な会話が二、三かわされ、主人が立ち去ったあと。
夏羚から投げ寄越された饅頭を受け取っていた。
作りたてのあたたかな饅頭が手元に二つある。
「……お前の分は?」
「人間のものは、口にしてはならない」
「まさか、方士の戒律か?」
「……ああ」
職務の規則だけでなく、方士としての戒律まで遵守するつもりかと、口に含んだ饅頭の豊かな香味が、途端に砂の味に変わる。
その潔癖なほどの性格が、夏羚の容貌を研ぎ澄ませるらしい。
真面目なやつ。
「……戒律を守って食事を取らないというのなら、どうやって腹を満たすんだ?」
「非常食――」
「非常食?」
どういう意味だと聞き返す。
「――、」
耳を澄ますが、返事はない。
「夏?」
どうした、と、部屋を覗く。
脱いだ外衣と解いた組紐が机の上に綺麗に揃えられていた。
その机に向かったまま、背筋を凜とただし、少しも微動だにしない夏羚がいた。
「おい――、」
呼びかけるが、気づいていないようだ。
瞑想でもしているのかと、ふっと息を吹きかける。
鬱陶しそうに目を開けたら、人間らしいところもあるのだと、言ってやろうと思った。
だが、どうやら夏羚はそのまま寝入ったらしい。
歯切れが悪かったのも、眠気からか。
兪倩狼は軒先にぶら下がると、軽業師さながらに窓枠に足をかけた。
膝に寄りかかって座りながら、夏羚の顔を見つめる。
整った鼻筋と、理知的な薄い唇。
すっきりとした顔の輪郭を目でなぞり、更にその下へと視線はうつっていく……
蠱惑的な、喉の肉感。
その肌に暖かな火影が這い、陰影はまるで舐めるように揺れている。
唾をのみこんだかのような、艶めかしい動き。
それが、身じろぎをしたように思えて、兪倩狼は慌てて目を逸らした。
夏羚が目を醒ましたのだと思った。
襟の下の白い肌を想像させる、剥き出しの喉を見ていたことを、知られたくなかった。
「――夏、」
人が、これほど近くにいるのが、懐かしい。
生意気でかわいげはない。
だが、危ういほど、誠実――
「しばらくは、帛も我慢してやってもいい……」
つま先で鈴を転がしながら呟いていた。
――悪くはない。
尾の、左右に動く心地よさも、鈴の、少し籠もった冷たい響きも、雪の上を吹き抜けていく風の遊びさえ、気分が良い。
初夏の眺望を冬景色に染めていた雪雲が、やがてきれていた。
兪倩狼は白い月明かりに誘われるように屋根の上へ身軽に飛び上がる。
その、少し後だった。
戯れに揺れる紗の簾の向こう、そこに美しい人を見たような気がして、夏羚は目を覚ました。
春の花と、溢れるほど陽光の注ぐ夢だった。
引き留めかけた指先に、冬青の花が触れている。
まだ、夢の続きを見ている。
兪倩狼の香りを纏った、花――
確かめるように優しくとりあげて、微かに漂う残り香を、そっと胸に含む。
華奢な身体と、少年らしくない目つき。そのいびつさが目を惹くのだろうか。
心を狂わせるような切なさを身のうちにひそめた、人。
夏羚の手の中に、花は優しく包み込まれていた。
痛めないように、そっと。けれど、なくさないとするように、力強くもあった……
「……どれくらい歩く?」
茶店を出てしばらくたつ。
まだ、宵も間もないような薄暗さの中歩いている。
足元をうろつく雉の鬱陶しさに苛立ちながら、どんどん先へ行ってしまう夏羚を呼びかける。
しかし、その返答は、
「まだ、かかる」
朝か、昼頃か、具体的な目安が聞きたかったはず。
会話を弾ませるつもりもないらしい。
「……つまらない男だ」
それからしばらく黙って歩いていたが、やがて月のかかる黎明の空が明るくなりはじめる夜明けすぎ。
もう十分に歩いたのではないかと思われた頃、兪倩狼はいい加減歩き疲れていた。
「夏、後どれほど歩く?」
それでも変わらず、
「まだ、かかる」
と、淡泊な答えである。
取り付く島もない。
あの澄んだ容貌が少しはにっこりと笑えば、随分とっつきやすくもなるだろうに。
二十歳のかわいげも多少は磨かれるはず。
そう思うとほとんど同時に、兪倩狼は飛びかかるように夏羚の前に立ち塞がっていた。
「夏、会話の仕方を知らないなら、教えてやるよ。いいか、会話をするときはにっこり笑って人の目を見るんだ。こうやって――」
言いながら、夏羚の袖を引き、兪倩狼は彼の目を下から絡み取る。
にっと、悪戯な気を含んだ笑みを浮かべた。
「今日は暑い、無理せず休みながら行こうぜ。ほら、あの桑の木、実が沢山ついている。少し分けてもらおう」
そう言って桑の木を指し示す。
反応の薄さは、もうこの際どうだってよかった。
押し黙った理由よりも、偶然見つけてしまった桑の実の甘酸っぱさのほうが大事だ。
やみつきなるあの酸味が、口の中を唾液で満たしていく。
「どうだ、真似してみろ、ほら、目をみて、」
早く食べたくて仕方がない。急かすように夏羚の袖を引き、口角を上げるのだと、自らの口元を指す。
手応えをはない。けれど兪倩狼は、早く笑ってくれればこのやり取りも終えられると、そのことに夢中だった。
だからこそ、ほんの一瞬、息を詰まらせた夏羚に気づけなかった。
「……騒がしい」
「特訓のしがいの、あるやつだな、」
無愛想なやつだと、兪倩狼は息をもらす。




