2-1
罹患者というだけで命を奪うような方士でないのは、確かなようだが。
絡まった思考を解くように頭を掻いた。
心理戦は得意じゃない。
とくに夏羚は何一つ表情を変えず規則を持ち出すのだから。
――それなら、こいつは何になら気持ちをぐらつかせるのか。
つい、悪戯心が芽を出した。
「何が何でも、逃走させたくないみたいだな。……そんなに俺が、気になるのか?」
むきになって言い返すか?
――いや、まだ出会って間もないが、そんな簡単な男でない。
無視か、規則を並べるに決まっている。
見透かせるのは、こちらも同じなのだ。
「……調査に協力するなら、待遇を考え直してもいい」
「……なに?」
ほくそ笑んでいた。
思い通りになると踏んでいたのだから。
しかし待遇を考え直すと、夏羚は言ったらしい。
まさか、作戦が功を奏したとでもいうのか。
困惑している場合ではない。この機会を逃せばまたいつ主張できるかわからない。
やはり、二十歳の青年だ。案外扱いやすいのかもしれない。
「あたりまえだ。方士様には惜しまず協力するとも。待遇を考え直してくれるっていうんだろ? なら、こいつをどうにかしてくれ」
さあ、いつでも取ってくれと期待する。
だが、
「宿を取る」
間髪入れず、素っ気ない声だった。
もしや、待遇の向上とは宿を取る、たったその程度のことを言っているのではないだろうな。
宿などなくても、塒がある。帛以外に、寝場所の改善が重要だとでもいうのか。
そう思うのだが、どうしても夏羚相手では調子が崩される。
いっそのこと、大いに困らせてやろうか。
河豚のように顔を膨らませた夏羚を見れば、腹に据えかねたものも発散できそうだ。
「飯は、つけてくれるんだろうな?」
試しに兪倩狼は聞いてみる。
「ああ……」
答える夏羚は思いのほか、嫌な顔をしない。
素直だな、と、口元がゆるんだ。
ならばと、更に要求を突きつける。
「床では寝たくない」
「わかった……」
「寒いのもいやだ」
「対処する……」
「白湯がなければ、眠れない質で――」
「用意する」
まさか、全て受け入れるつもりか?
呆気にとられていた。
困った顔が見たかっただけだ。
これではどっちが我が儘かわからない。
それに、夏羚が要求が呑むとは思わなかったのだ。
今なら何を言ってもつけ込めそうではないか。
「……首輪が、痛い」
小さくこぼしていた。
嘘をつくのは卑怯だとは思ったが、試さずにはいられなかった。
見抜かれて嫌な顔を――、
しかし咄嗟に、夏羚が振り返る。
「傷、――」
「傷?」
困惑したような声に、兪倩狼も同じように戸惑った。
波色の瞳がわずかに揺れている。
「こすれて、痛むか……」
その囁くような声に即答できず、兪倩狼は言葉を失った。
首に傷があると思っているのだ。
「傷の有無は、気にするのか……」
規則に、懲罰以外での傷害を禁じているのかもしれない。
「……そう、こすれて、痛い。少しだけ緩めてほしい――」
「後で調整しよう」
もう少し渋ってもいいはずだ。
それなのにすんなりと受け入れた夏羚に、世間知らずな方士だと、むしろ兪倩狼は苛まれる。
五歳も年下の相手に、大人げない。
我に返って、冗談だと頭を振った。
「……真に受けるなよ」
「傷は、」
「そんなものはない」
「兪、虚偽の報告は――」
「規則か? 残念だが、俺は方士じゃない」
ひらひらと手を振りながら先を行く。
二言目には、規則と。
かわいげのない。
心の内で毒づきながら、しかし何か、あたたかなものが胸の内に広がっているのを感じていた。
絡まった糸の隙間をこぼれ落ちるような、その感情。
思いも寄らない優しさに、触れたせいである。
兪倩狼は身体を楽にさせていた。
牀の上で顎を上げ、夏羚の声に耳を傾ける。
実際には、その顎は夏羚の手によって支えられていた。
細く、すっきりとした親指が、顎の輪郭を捉え、痕を残さないよう優しく触れていく。
「……罹患したのは、十年前だと、そう言ったな」
震えそうになる触り方に堪え、兪倩狼は頷く。
「そう、」
開いていた股を、さりげなく胸に抱き寄せた。その理由も自分でわからず、けれど目の前で衣擦れを立てる夏羚が、やけに近かったのだ。
「村で、最初の罹患者がでたのは、昨年。その間感染は広がらなかった。だから、十年前に罹患した兪の影響で村が滅んだとは、考え難い」
揺れる燭の灯りを背に、ゆっくりと帛を解く夏羚の、翳った腕の動きを見つめていた。
擽ったくなるような小さな声を耳にして、瞼を伏せる。
ほの青く震える、痛みのような灯火が盛らずとも、胸の奥を灼き続けていた。その痛みが、すっと波を引いていくようだった。
――少しは、ましか。
しこりのように蟠っていた罪悪感である。
それが、僅かに軽くなる。
まだ多少の不安は残るが、それでも安易な慰めより胸を軽くした。
「……兪、たたりの発生源が判明するまで、協力してほしい。必ず自由にする」
「それでいい」
滲むような気持ちで応えていた。
ふと、顎に添えられていた手に促され、目を上げる。
真っ直ぐ、夏羚の眼差しが落ちていた。
その瞳は兪倩狼のたじろぐ身体の機微さえ気づかないほど、真剣だった。
雪の上では澄んだ波の色と思ったが、夜影の中では、沈んだ海の色に似ている。
寡黙な夏羚らしい瞳の色。
その瞳に注がれて、肌が焦がれていく感覚に気がつく。
手つきの優しさや眼差しは、骨董品の微かな欠けさえ見つけようとするほどにしなやかなのだ。
何をそこまで丁寧にしているのかと、落ち着かない。
適当に巻けばいいものを。
「――まずは、最初の罹患者から探ろう」
兪倩狼はいう。それにこたえて、夏羚が頷いた。
「県の報告によれば、最初の罹患者は村の人間ではない」
「村の人間でないことは、俺も知っている。それに、最初の罹患者についての情報を持っている……」
最初の罹患者――、
と、長ったらしい役職名を使い回すのは、鬱陶しいな。
「……仮にそいつを无名氏と名付けよう」
名無しを示す、无名という愛称だ。
すると夏羚が視線をよこした。
釘を刺されると思い、慌てて付け足す。
「……ちゃんと、真面目だ」
「同意する。无名氏と、彼をそう呼ぼう」
短く告げて、彼は微かに頷いた。
「おどかすなよ……」
帛をまき直した手がそっと離れていく。
規則主義者の夏羚らしい。
几帳面な性格なのだと、ぴったりと首に巻かれた帛に触れてそう思う。
皺がなく、きつすぎることもなければ、ゆるいわけでもない。
やけに慣れたてつきだと、苦笑を漏らしながら兪倩狼は続けた。
「俺が提供できることは、二つある。一つは、十年前に罹患してから、一度も无名氏とは接触したことがない」
「无名氏の感染経路は、お前ではないということか。彼がどこの出身か、わかるか」
「住んでいた村の水が干上がったと、人づてに聞いただけだ。俺も詳しいことは何も知らない」
夏羚の視線が逸らされた。
「……もう一つというのは」
「紫瑪瑙の、」
亀裂――、
言いながら、情報提供にしては稚拙すぎると口ごもる。




