3-2
法典に手足が生えて歩いているような男が、昨晩やっと少しは人間らしくなったと思ったが、今朝はそれも振り出しに戻ってしまった――、
思い返せば、茶店で一夜を明かしたときも彼は油断していたようだ。
あのときも夜ではなかったか。
どうやら夏羚は眠気が弱点のようだ。
「汝湾の居場所は、知れたのか?」
規則主義者の弱みを握ったのだ。少しくらい扱いが雑でも許してやるさと、夏羚の後を追う。
「外れに、邸宅を持っているらしい。県吏から金をもらって建てた邸宅だという。そこなら、人も多くはないから、お前も、つれて行ける」
「外れってことは、また歩くのか?」
「ああ」
すっかり日の昇った空を、疲弊したように仰ぎ見た。
「別に俺が同席しなくたって、話しは進むはずだよな」
道をてらす灼熱の日射しに手を翳し、鶏小屋を振り返る。
「暑いのは、苦手なんだよ。待っているから、昨日みたいに帛を解いてくれないか」
「……帛は、外せる回数が決まっている……」
すっと、夏羚が目を逸らす。
なんてわかりやすい。
生まれてから一度も嘘をついたことがないに違いない。
追い詰めれば、襤褸をだすぞ。
咳払いをし、兪倩狼は夏羚の視線の先に回り込む。
「俺を、信じているんじゃないのか?」
「逃走の心配をしているわけではない」
「じゃあ、何か別の心配か? 例えば、鶏を一匹残らず丸焼きにするとか。それとも、たたりが悪化して戻ってきた頃には死んでいるとか……」
「死なれるのは、困る」
「困る? だが、お前は俺を処罰する側の人間だろう」
夏羚は青白い涼しげな顔で無言を貫いた。
問いかけに答えるつもりはなさそうだ。
風の通る袖を翻し、颯爽と歩いている。
その歩幅の変化に兪倩狼は気づいていた。
今回は引きずっていくつもりはないようだ。
仕方がない。ついていってやるかと、兪倩狼は恩着せがましく思うのだ。
不正を行う調査官一人では、きっと心細いに違いない。
「夏、汝湾はどうやって邸宅を建てたんだと思う?」
「絡子環を、悪用したのだろう」
ふと、晏渢の言葉が蘇る。
「そういえば、晏渢はその絡子環を回収しろといっていたな」
うん――、と、夏羚が頷いた。
「汝湾というのは、どんな奴なんだ?」
夏羚と同じ堅物だろうか。
「……方士だ」
……、
まさか、一言で紹介を終えるつもりではないだろうなと、兪倩狼は眉をひそめる。
「方士なのは、知っている。顔付きとか、どんな性格とか、あるだろう」
「規律を重んじる」
まさか、それ以外に何もない?
「……晏渢は?」
試しに彼の部下の名前を出す。
真っ直ぐな目が兪倩狼を見た。
「……優秀な部下」
個人的な感情はないのかと、絶句した。
「夏、俺の事も何か言ってみろ」
「お前は、部下ではない」
「交友関係の狭いやつだな。部下か上司でしか判断できないのか?」
「何を言わせたい」
冷静な夏羚の声ににやりと笑う。
段々と、彼の扱いにも慣れてきた。
「一緒にいて、しばらく経つだろ。俺といるのは楽しいか?」
正直に答えさせたいわけではない。
夏羚の肝を抜ければ、それで十分。毎回驚かされっぱなしでは、年長の体裁も保てない。
戸惑うだろうか。馬鹿なやつだと、白い目を向けるか。
すると、夏羚の唇が何か躊躇ったように息を呑み、その瞳が僅かに、見開かれていた。
静かに伏せられた瞼が、ほのかな桃色に色づいていく。
その姿だけで、十分過ぎるほど兪倩狼は眩んでしまっていた。
「――うん、」
と、かすかな頷き。
一拍の余韻に思いがけず、言葉を失ったのは、兪倩狼の方であった。
楼閣は紫陽花の花に埋もれていた。
湖のように広大な池と竹林が続き、その奥にひっそりと件の楼閣が佇んでいる。
太陽の日射を浴びた金色の笹が風に揉まれる音の美しさ。
その風の音と竹のしなり、影の揺らぎに紛れて、複数の人の気配が綿密に絡みあっていた。
「……誰か、いるようだが」
乱立する竹叢の影に身を隠し、誰かがこちらを隙なく伺っているのはわかる。
だが、その位置までは掴めなかった。まるで擬態した捕食者に睨まれているような、危うい気配。
油断して背を向けた瞬間、その影へと引きずりこまれるようだ。
慎重に進む兪倩狼の耳は、突如と、滑空する鋭い音を拾う。
「夏……!」
無意識に、先を行く夏羚の腕を捕まえていた。
「……っ、」
引き寄せたその胸元を、
ヒュッ――、
と白い矢が貫く。
竹に突き刺さる矢を即座に掴んで引き抜き、兪倩狼は弓を引いた位置を割りだした。
「……歓迎されていないようだな――」
と、振り抜くように投げ返し、靄のように揺れる竹影の向こう、そこに潜む人影を捉える。
「あいつだ」
殴りかかりに行こうとして、
「夏羚――」
その、空気を凍らせるような鈴の音と、物腰の柔らかな声に思わず振り返っていた。
「何年ぶりだろうね」
目を細めた、柔和な男。
竹林に満ちる気配に気を取られ、男の存在に気づかなかった。
肌を逆なでするようなこの殺気は、この男の存在を隠すためか。
しかし、柔和とは言え男が姿を現したのは、殴りかかりに行こうとした瞬間だった。
どうやら殺気の主を守ろうとしたに違いない。
随分と段取りの良い連中だ。
姿を見せない相手もこの方士も、どちらも、いけ好かない。
兪倩狼は構わず影の存在を捉えに行くことにして、男の手首に鱗が這っているのに気づく。
獣の象徴……。
罹患者だ――、
「若汐、出てきなさい」
低く、けれどよく通る声で汝湾はいう。
僅かに間があってから、見つめていた竹影から青年が姿を見せた。
弓を肩に背負い、華やかな鳩尾の板を身につけた、鰐の尾の青年。
濡れ烏の髪の色と、鈍い墨色の瞳は殺伐として、こちらを見据えるその眼差しは鋭い。
十八ほどの青年に見える。
「彼は若汐。私を支えてくれている。……失礼を、働いたかな」
まるで、汝湾の命令を無視し、勝手なことをしたとでも言うようだ。




