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3-1

 ――来ない。

 後で来いと、確かにそう言った。

 あれから夜が更けても一向に夏羚は尋ねてこない。

 浅いところで輝いていた月も、すでに木々の上で眩しく光を放っている。

 どれだけ待たせるつもりだと、ついに痺れを切らし、

「おい、」

 とん――、

 と、廃屋の戸を開けて、よりかかる。

 月の光が青く射しこむ廃屋の、その埃まみれの床に書物を広げる夏羚がいた。

 松花色の髪も、その綿毛のような睫も冷たい月色に輝いて、瞼の下から、たっぷりと雫を湛えた海のような瞳が開いていく。

 組紐を解き、背に垂らした髪が胸元へ流れ落ちる、その一瞬の美しさにたじろいだ。

 無防備な姿に、寝ていたのかと、さらに居心地が悪くなる。

 けれど、兪倩狼は挫けず帛を指さす。

「……約束だろ。こいつをほどけ。それで、境落へ行くんだろ」

「……犬を、手懐けたことはあるか」

 まだ、どこか夢の中を漂っているような、ぼんやりとした声。

 なぜ、犬の話しがでてくるのかと、その唐突さに、

「犬……?」

 と、固まった。

 近くへ来いというような視線に従う。

「寝ぼけているのか」

 苦笑いを零して向かいにしゃがむ。

「犬を手懐ける夢でも、見たのか?」

 しっかりしているが、まだ二十歳。あれだけ頭を働かせれば、眠くもなる。

 どんな夢を見ていたのだと、顔を覗き込む。その首筋に、白い手がふれていた。

 顎を捉える冷たい指先が、口の端を持ち上げている。

 振りほどく間もなかった。

 唇をやわく押しあげていく親指が、剥き出しになった八重歯を撫でているのを感じ、

 ――何を、しているんだ、

 ようやく我に返る。

「は、はなせ……!」

 口の中に押し込まれた指が犬歯をいじっているのだ。

 どういうつもりだと強気に言い放つ。

 だが、夏羚の指は舌を絡め、出てくる言葉は明瞭としない歯抜けたような声だった。

 ――わざとだ。

 後で、抵抗する言葉など聞こえなかったというつもりなのだ。

「突き飛ばせばいい」

 その冷静な夏羚の言葉に、うぐ、と、兪倩狼はもどかしく狼狽えた。

「……できない。触れることは……」

 なんとかして言い返そうとするが、夏羚は八重歯から少しずつ唇へ指を這わせていく。

 もごもごと反論を並べていたその唇が、なぞられてふと、震えた。

 一瞬でも、好さを感じて反応してしまったことに顔が赤らんでいく。

 ――どうしたら、振り払える、

 空を握ったままそう思いはするが、夏羚を押しのけることも出来なかった。

 距離をとろうとみじろげば、夏羚の指は更に敏感なところへ伸びていく。

 その葛藤をまるで見抜いたように、夏羚が囁く。

「触れて、私に感染させてしまうのが、怖いか」

「……う、」

 急所を押されたような痛みに、答えられなかった。

 海の色の、美しい瞳がどこか浮かれたように弛んでいる。

 その、食いこむような眼差しに見つめられると、どうしても威勢が保てなくなる。

「そんなんじゃ――」

 突っぱねようとしたが、耳は怯えたように伏せっていた。

 夏羚には丸見えなのだ。

 それが悔しい。

「口は常に、雄弁だが、身体だけが、本音を語るらしい」

 変な言い方をするなと睨む。

 だが、少しとその牽制も続かず、身体は小さくせぐくまっていく。

 夏羚に突きつけられた事実に、耳が痛かった。

 本当は自分が罹患者だということを恐れていた。

「……感染させてしまうかもしれない」

「私はたたられない」

 随分ときっぱりいう。

 どこか普段の夏羚らしくない口ぶりに、兪倩狼は笑った。

「自信があるんだな」

「私は、強いから」

 月の光が降るように静かな声。けれど、ほんのりとあたたかさを含んだ声だった。

 その口元に、綻ぶような笑みが浮かんでいる。

 日だまりのような、あの、あたたかな微笑み。

 思わず、顔中の力がゆるんでいく。

 つられているのだと気づき、たまらず、口元を隠した。

 臀をすって後ろへ下がる兪倩狼に、夏羚の身体が重なるように追った。

 冷たい指先が顎を持ち上げるのを、もう拒むことができない。

 唾をのむ、その喉の動き一つが、これほど羞恥を催すとは知らなかった。

 自然と震える身体をこらえながら、首に伝う夏羚の指づかいに、甘く吐息がもれかける。

「……兪、汝さんの居場所を突き止めたら、戻ってくる」

 耳元にすくう声の低さに身体が痺れる。

 わずかに、躊躇ったような吐息が首元にかかった。

 何を躊躇ったのかと尋ねるより先に、帛はゆっくりと解かれてしまった。

 これ以上触れあう理由も、ない。

 ただ帛を取るだけだったのだから。

 この暗やみの緊張感が、変な気を起こさせるのだ。

 身体の微熱が、まだひいていない。

「……さっさと、行ってこい」

 ほら、と、書物の隣から組紐を掴んで差し出す。

 総についた鈴を握りながら、夏羚は何も言わず受け取った。

「ああ――」

 部屋を出て行くその姿を目の端でしばらく見送り、気配が遠のいてようやく、つめていた息を吐きだす。

 今から境落へ向かうのなら、どのみち帰ってくるのは、夕方、もしくは、丸一日かかるだろう。

 その間鶏でも抱きながら、久しぶりにゆっくり寝て待っていてやろうと、兪倩狼は鶏小屋へガサガサと戻っていった。






 その一人きりの睡眠を満喫するつもりだった。

 そのはずが、

「――来い」

 と、冷ややかな声を耳にして、出会ったばかりの頃を一瞬、夢に見ているのだと思った。

 思いもよらず早い帰還ではないか。

 目覚める前から、まるでバクバクと心臓が跳ねていたらしい。

 飛び起きながらも兪倩狼は焦っていた。

 髪や前が乱れるほど寝相は悪くないつもりだった。

 それなのに、胸の蕾は血を帯びたように赤く熟れ、僅かにずれた下穿きの違和感に慌てる。

 いつ巻き直されたのか、首にはすでに帛が巻かれていた。

 開けた衣服を整え、この姿を見られたのではないかと思ったのだ。

 鶏の慌ただしい鳴き声を聞きながら寝入ったせいで、夏羚が入ってきたことに気づかなかった。

 ――声をかけるまで、ただ黙って見ていたわけではないだろうな?

 ふと、そんな疑問が頭を過る。

 それにしても、「来い」と、たった一言、鶏小屋の前で呼びつける夏羚の、なんて不躾な態度か。


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