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「虚偽報告をしたのは、汝湾調査官、」

 兪倩狼は指先でちょいちょい、と、大きな円を描き、そこにひょろっとした一本の線を生やす。

胴体を象った線の先から、蟻の足のような短い鉤を枝分かれにのばし、腕のつもりらしい棒を付け足した。

 髭の生やした威厳のある人間と、顔に斜線をひいた无名氏らしき人物、そして絡子環の絵が並ぶ。

 たまらず、夏羚がたずねた。

「……これは?」

「上出来だろう。よく描いていたんだ」

「……一人で、描いていたのか」

「絵で、会話をしていたことがあったんだ。村の子供らが、たまに塒まで遊びに来きていたから。怖いものがすんでいるぞと脅したが、それが面白かったらしい。しばらくやり取りをしていて……」

 あの頃の思い出は少しだけ明るい。

 だが、その交流が終わった理由を口にしなければならないことに気がついてしまった。

 伝承の化け物の絵を描き、祠の中から恐ろしげな声を上げたりしたのだ。

 それでもこども達は甲高い声をあげて楽しげにやってきた。

 それから数日と経たず、願ってもいない静寂に苛まれる。

 子どもの好奇心など一瞬で移ろいで行く。だから、どうか、飽きただけであることを願った。

 村がたたりで滅び、誰もいなくなったことを、後から知ったのだ。

「……俺の事は、どうでもいい」

 自分の短絡的な判断が悲劇を招いたと信じていたし、その重みを、いつまで続くとも知れない永劫の時間の中で背負っていくことに、押しつぶされるような罪悪感にのみ込まれた。

 ――のみ込まれた、はずだった。

 その罪の重さが、夏羚によって半分も奪われてしまった。

 しかも、感染源を辿るといいながら、兪倩狼の潔白を証明しようとしている。

 ――夏、

 胸の内で自然と呼びかけていた。

 その声の、驚くほど悲痛な色に息を呑む。

 これは、何か別の病に違いない。

 だからこれほど、胸が苦しくなる。

 兪倩狼はまずいような顔をして、そわそわと動く尾を掴んだ。

「――汝湾に確認したいことは、三年前のたたりの収束のことと、无名氏に呪いを教えたか。そして无名氏の発症が昨年なら、感染経路はどこか。これらがわかれば、俺の潔白は証明される」

 直後、周囲を落ち着きなく動き回っていた鶏に声を上げる。

「あ、こら……!」

 折角描いた絵の上を駆け抜けていったのだ。

 文明史にも残る遺産的な作品だというのに、鶏にはその価値も分からないらしい。

 慌てて手を振って追い払い、戻ってこようとする鶏に立ち上がって威嚇した。

「兪、やめろ……、今夜の、家主だ……」

「何が、家主だ、ただの鶏だろうが」

 鶏を家主というからには、鶏小屋が今夜の宿である。

 蜘蛛の巣がすくい、傾きかけた鶏小屋だった。

 笹垣は穴だらけで、鶏はそこをくぐって自由に出入りしている。広大な野面をまるで庭のようにけたたましく駆け回っている。

 夏羚は事前に鶏小屋脇の廃屋を尋ね、無人であることを確認していた。

 今夜の夜食は苦労して狩りにいく必要もなさそうだ。

「身体を休めたら、出発しよう」

 夏羚が廃屋の方へ向かっていく。

 それを見かねて、意外と抜けているのだと、兪倩狼は苦笑いを零した。

 頭の耳と尾を、彼の目にさらした。

「夏、俺は罹患者だから、人の多いところへは行けない」

 ちらりと、頭の上の毛むくじゃらに視線がむけられる。

 その眼差しにたった少しでも変化があれば、兪倩狼は彼の言葉の大きさにも耐えられたのだ。

 けれど夏羚は薄い唇も、冷ややかな目つきにも、わずかな感情を交えず言ってしまった。

「帛を外す」

 冗談を言っているわけではない。

「私だけ境落へ入り、汝さんの居場所を突き止めに行ってくる」

 その真面目な目つきに、

 ――帛を外す?

 遅れて、言葉の意味を理解する。

 まさか、今まで外せと頼んでも外さなかったのに。

 どういう風の吹き回しか。

 けれど、村の発生源が特定できるまでは協力するという約束だ。

 どのみち逃げることはできない。

 しかし一体、規則主義者の夏羚の頭の中で何が起こったのかと、興味がわいていた。

 揶揄ってみるかと、にやりと笑う。

「逃げられるかもしれないな」

「……構わない」

 迷いのないその一言に、どきりと息を呑む。

 もしかして、約束を忘れたのだろうか。

 身の潔白を証明してくれる約束だ。忘れられては困る。

「……いいのか? 逃げてしまっても」

 夏羚の感情が読めない。

 握られていると思っていた首輪の紐が、いつの間にか宙ぶらりんになっていたことに、とてつもない不安を抱いたのだ。

 繋がれていたのが、それほど心地よかったのか。

 何を、考えている。

 その、妙な胸騒ぎに戸惑う。

「……なぜ急にそんなことを」

「逃げないだろう」

 その不安を断ち切るような声だった。

 逃走を企てた人間を、これほど真っ直ぐに信じてしまうほど愚直な青年。

 じっとして動かない夏羚が、顔にかかった松花色の髪を払いのける。

 そのちょっとした身振りにさえ、大きく心臓が飛び上がる。

 後退りながら、汗ばむほどの熱っぽさに次第に呼吸が乱れていた。

 逃げてやるぞと、ただ、揶揄っただけなのに。

 それなのに、いまのやり取りではまるで、引き留めてくれと言わんばかり。

 気づいて、羞恥にのぼせていた。

 落ちたのだ。

 あたたかな泡沫に包まれる気持ちよさと、そこに浸っていたいと焦がれるような思い。

 夏蔦のように絡まるその正体に触れかけた途端、

 ぞっとして、冷ややかに醒めていった。

 人の情にとらわれる苦しみほど、心が軋むものはない。

 もう二度と、あの失った絶望と戦慄きに打ち震え、一人取り残された恐ろしさを、味わいたくはない。

「……鶏小屋にいるから、後で来い……」

 美しい花芽をもいで捨てるように身を翻し、兪倩狼は窮屈に鶏小屋に身体を押し込んでいった。


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