2-5
床を確かめるように夏羚はゆっくりと入ってくる。吊された衣服に目を留め、すぐさま向けられたその眼差しに、兪倩狼は動揺を悟られまいとした。
「……どうやら、无名氏は相当訴えたいことがあるらしい」
「処罰されたのは、この衣服の持ち主か」
襟元からは今も鮮血が滴るような染みがある。
彼女が罹患者として正しく処罰が行われたのなら、衣服を釘で打ち込むような真似をするだろうか。
これではまるで、不正義を訴えるようである。
牀の上の黒ずんだ包帯の塊や、乾燥した薬草の破片は无名氏が用意したに違いない。
夏羚の推測どおり、无名氏を示す痕跡である。
「兪、この部屋だ」
「そうみたいだな」
その、視線のやり取りだった。
「処罰された女は、无名氏の身内か」
それほどの怒りを、あの釘打ちされた衣服から感じていた。
罹患者の隠蔽はよくあることとはいえ、无名氏と名付けたせいか、心に一点の曇りが覆っていく。
「罹患者が処罰を逃れたのなら、たたりの収束は嘘ということになるな。偽りの処罰に、偽りの報告……夏、方士として、どう対処するんだ?」
この結末はあまりにも酷たらしいのだから、夏羚でさえ身体を震わせているに違いない。
むしろ、そうあってほしかった。
「……規則に、従うだけだ」
しかし、変わらず冷たい態度を崩さない。
――規則
そのたった一言が、妙に癪にさわったらしい。
怒るほどのことではない。夏羚はそういう人間だ。しかし、その冷静さとは別に兪倩狼はまくし立てていた。
「无名氏のこの訴えを前にしても、まだ規則を持ち出せるのか? 規則が誰を守って、誰を殺したか、何も見えていないのか?」
「私の役目は、方士としての職務を全うすること。でなければ、誰がこれを対処する」
「仲間の尻拭いも、喜んで引き受けると」
直前まで、同じ物を見ていたはずだ。
情報を共有し、推測も立ててきた。それなのに、ようやく通じ合えたと思ったのは間違いだったらしい。
「なぜ、そこまで職務に拘る」
「たたりの収束のために派遣された。その方士として感染源を特定し、勤めを果たすだけ」
「忠実に、国家の命令に従うって? 国家のいうことは、全て正しいのか?」
束の間の沈黙のあと、夏羚の鋭い眼差しだった。
「……やけに、やかましいな」
「……やかましい?」
静かに詰められて、兪倩狼は内心の苛立ちを自覚する。
感情を露わにしてほしいと思ったその理由……
村の感染源が特定できてしまえば、罹患者である自分は処罰される。
それが、見えている。
だからこそ無性に苛立っていた。
夏羚は方士として正しいことをするだけだ。それを裏切りだとも、非情で冷酷な人間だと非難するつもりはない。
ただいずれ、やがてその状況を迎えたとき、想像よりもはるかに残酷で、一時の時間を共有した夏羚の冷静さが、あまりにも辛いもののように思えたのだ。
「もし、俺が方士で、お前が罹患者なら、どうする」
それでも僅かな希望に縋ろうとする惨めさに苦笑う。
「私が罹患者の立場なら、お前に殺せというだろう」
やはり、夏羚は潔癖すぎる。
「……俺は規則には従わない。鯉はどのみち、泥の中でしか生きられない」
「……兪、お前は鯉ではない」
「例えばの、話しだ」
つい笑いがもれる。
冗談の通じない男だと、忘れていた。
処罰の直前にでも、彼の解れるような感情を目にできたら、そのときは冥土の土産になるだろう。
せめて少しは、彼の記憶に残り続けられたら――
まずは、无名氏が罹患した経路について探らなければならない。
故郷を滅ぼしていないと証明するためにも。
无名氏は父老の下働きとして毎日休みなく農作業に追い立てられ、字の習得は二の次だったはず。
名を上げたいなどと、大層な目標など考える余裕もなかったはずだ。
けれど、混沌と、噴き上がる恨みと憤りを押さえ込むには、あまりにも胸が張り裂ける思いだったに違いない。
その激憤を書き殴ることができないからこそ、女の衣服を釘で打ち付けたのだ。
衣服の持ち主は、无名氏が激憤を覚えるほど大切にしていた相手。
兪倩狼はその衣服の持ち主を探ろうとした。
娘、もしくは、恋におちて間もない間柄、契りを結んだ相手かもしれない……、
裾をめくり上げようとして、
「兪、それに触るな――」
直後に聞こえた夏羚の制止の声だった。
めくり上げた衣服の下に、欠けた隙間から細い日射しが射しているのだと思った。
真珠のような輝きに目を細めた、一瞬のこと。
裾をまくった手に痛みが走る。
肌に走る烈火を払おうとして、身体は意図せず背後に押し出されていた。
天井も床も縺れるような視界に混乱し、打ちつけた背中の痛みに耐えて身を起こす。
さっきまで、兪倩狼が立っていたところに夏羚がいた。
「夏――、」
何が起きたのだと、夢中で呼びかける。
その夏羚が呼吸を乱しているのだから、よほどのこと。
衣服の下の小さな真珠を引きずり出し、燃え尽きた衣服の欠片とともに帛に包む。
それを兪倩狼の目に触れさせまいと素早くしまい込んだ。
一拍の間のあと、ふ、と息を整えた夏羚がようやく振り向く。
「怪我は――」
焦りと困惑に脈打つ兪倩狼とは反対に、静かな容貌と声だった。
まるで何事もなかったかのように平然としている。
その冷静さに、緊張でぶわりと逆立った毛が、心なしか落ち着いていく。
「……ない」
皮膚が裂けた手の甲から、血が滴っていた。
それを知りながらも、兪倩狼は後ろに隠す。
元々死んでいる身なのだから、腕一本吹き飛んだところで惜しくはない。
それに、夏羚に庇われるとは思わなかったのだ。
その混乱が後を引いていた。
協力者は無傷に保護すべきと、規則にでも書いてあるのだろう。
庇った動機が規則なのは気に食わないが、それでも夏羚らしいと思えば、もはや、仕方がないと納得してしまっていた。




