2-4
日が暮れる前には終わらせてしまおうと進み出す兪倩狼に、
「……无名氏の痕跡を辿る」
と、夏羚の返答に足が縺れた。
痕跡を辿る――?
躓きかけた身体を立て直しながら、夏羚の意図を読もうと振り返る。
无名氏は姿形さえ曖昧な人物である。
その痕跡を辿るだと?
父老の屋敷で資料を漁っていた方が、はるかにましではないか。
高みの見物をしながら、気の遠くなるようなおぞましい方法でこき使うつもりかもしれない。
夏羚ならありえる。
青い顔が忽ち赤くなり、一人百面相をする兪倩狼に冷ややかな視線が注がれる。
その目つきに、あっ、と思い出す。
忘れていた。
夏羚は戸籍情報を全て暗記しているのだった。
「……无名氏の戸籍情報も、頭の中か?」
「後尾に新しく特徴が追加されていた。名前の記載はなかった。だが、彼が昨年、村にたたりを持ち込んだ无名氏とみて、間違いない」
――彼、
人物、ではなく性別を断言した夏羚に眉をひそめる。
「男だと、なぜ言い切れる?」
氏名がわかれば男女の手がかりにはなるが、今はそれさえない。
夏羚が断言するのだから、よほどの根拠があるには違いないのだろうが、その確証が兪倩狼にはわからない。
一体何なのだと、落ち着いた夏羚とは対照的に、抱き込んだ腕に忙しなく指先を叩きつけていた。
「男でしかあり得ない特徴の一部が、失われている」
焦らされて苛立っていた尾が、途端に凍り付く。
「それは……、」
まるで剃刀の刃を繊細なところに押しあてられたような、ぞわりとする思いだった。
「――なるほど、女でないのは、確かなようだ……」
「手の傷についての記載もあった。もし農村で切り落とされたのなら、必ずその痕跡がある。使い古した包帯や、薬草、欠けた指での生活痕……」
「その前提が崩れたら、振り出しだな」
「それまでには、晏渢が新しい情報を持ってくる。おそらく、……无名氏は地位が低い。なんらかの制裁を受けたと考えている」
「なるほど、」
筋は通る。
制裁を与えられた側の人間なら、与える人間がいる。それは農村でも権力を持つ、父老の他にない。
「やはり、父老の屋敷だな。地位が低いなら、使用人として雇われていたかもしれない」
「……ああ」
无名氏の痕跡などわかるはずもない。
無謀だと思っていた。
それなのに、夏羚は人を導く力があるらしい。
二十歳にしては、中々鋭い。
「頼りにしているぞ、夏」
尾も嬉しそうに動くその隣で、夏羚の目元がほんのわずかにやわらいだことを、兪倩狼は知らなかった。
それが、微笑――、
と、後になって気づく。
伏せた瞼の下の、薄い雲の影を帯びた目元に滲む、薄彩みの淡い光のような優しさ。
そのほんのかすかな感性が、そこに宿っているように思われたのだ。
……珍しい、
日だまりのようだった。
あたたかな笑みは、束の間、いつもの冷たい顔つきに戻っている。
兪倩狼はもう一度、あの甘い幻想のような、その微笑みをと、知らないうちに慕っていた。
咽せるほどのかびのにおい。
蒸れた草いきれの青臭さが、庭院から吹き流れてきていた。
鮮やかな菖蒲の花の青さもかすむほど、湿気にけぶる父老の屋敷である。
物置のように粗末な使用人部屋は、採光のための窓以外、何一つ残っていない。
家具や道具の一切が見当たらなかった。
兪倩狼は泥壁のくすみを指先でなぞって歩く。
縦横無尽に部屋中を踏み荒らす泥まみれの足跡を、不愉快に追っていた。
どうやら、盗賊が押し入ったらしい。
これでは、无名氏の痕跡も持ち去られている可能性がある。
まるで豺狼のごとき欲深い連中だ。
憤然とする中、夏羚はさっと目を通しただけですぐに踵を返していた。
そのあっさりとした調査に拍子抜けする。
「もう、いいのか?」
「兪、向かいの部屋を」
そう言って、夏羚はゆっくりと庭を眺める。何か探っているような目つきである。
夏羚が庭を探るのなら、建物の中は兪倩狼の担当ということらしい。
……別に、構いはしない。
しかし、顎で使われるのが、少し気に食わないだけなのだ。
父老の屋敷に无名氏の痕跡がなければ、次は村の境へ行ってみるべきかな――、
段取りを考えながらも、引っかかっていることがある。
どうも、つじつまが合わないのだ。
「……夏、仮に、无名氏が農村の人間だとして、たたりがおさまったのは、三年前だよな。なのに、无名氏の罹患は、昨年だった」
「ああ」
「无名氏だけ後から発症するものか? しかも、たたり収束後、農村は干ばつが起こったんだろう。その空白の間、无名氏はどこに? 感染するなら、一体どこで」
庭を横切り、向かいの建物へ移ろうとする。
その兪倩狼に、夏羚が重たげに口を開く。
「……被処罰者の記入がない場合、罹患者の処罰は、正しく行われなかったことを意味する。おそらく、報告書の情報はほとんどが信用ならない」
「たたりの収束と、干ばつによる衰退は嘘の可能性があると」
「父老が罹患者を庇ったとみている」
どこの村でも、権力者は身内を庇いたがる。
兪倩狼は短く息を吐き捨てた。
「父老が圧力をかけたのなら、本当の罹患者っていうのは、」
「父老の、親族の可能性が高い」
対になるように建てられた、使用人部屋であった。
盗賊の被害があった使用人部屋の、その向かいに建てられた部屋。
その戸を前にしたとき、兪倩狼は思わず身体が固まった。
戸が、半分ほど開いている。
中には誰もいないはず。そう思いながらも、慎重に近づいていく。
罹患者が、まだ潜んでいてもおかしくはない。
夏羚は魔除けの鈴を帯びているが、この瘴気と臭気では、あまり長くはいられないだろう。
怯んでもたもたしている暇はない。
さっさと无名氏の痕跡を見つけてしまおうと、取っ手のつまみに指を引っかけたとき、指先に微かなざらつきが触れた。
「錆び……?」
雨で錆びたか。
赤錆びである。
それをなぞるように何度か擦っているうちに、取っ手を握る、丁度、ある指の付け根と重なることに気づく。
――血、
まさかと、肌の粟立つ感覚に手を放す。
すぐさま鬱蒼と生い茂る草の間を掻き分けた。
无名氏が当時使っていた道具が、地面を覆う葉や蔦の下に埋まっているのではないかと思ったのだ。
その鬱蒼とした草の中から鈍い光が閃いた。
包丁と鉈の刃だ。
どちらの柄にも、つまみと同じように赤黒い染みが滲んでいる。
无名氏が使っていたもの。
兪倩狼は弾かれたように立ち上がった。
疑いようもない。僅かに開いた戸の隙間から、覗きこむように身体を傾ける。
戸に指先をあて、ゆっくりおし開けた。
薄暗い室内の、使用人部屋――
他と同様、盗賊が運び出して何もない部屋だと、最初はそう思っていた。
かびの臭いが籠もった、憂鬱な部屋だと。
しかし、戸を開け放つと同時に、目の前に飛び込んできたのは、血まみれの女――
吊されている、
呼吸を忘れて咄嗟に飛び退き、
――違う、
ただの、女物の衣服だ。
粗末なその衣服が、壁に打ち付けられていた。吊されていたのだ。
それを、天井からまさか、体がぶら下がっているのだと見間違えた。
錯覚とわかりながらも、一瞬想像したゾッとするような姿に、思わず身体が震えだす。
「――夏、きてくれ」
衝撃が拭いきれず、呼びよせる声は掠れていた。




