声が出た
食事を終えると、胃に残った温もりが蒼井のまぶたを重くした。
何も言わずに立ち上がり、ベッドへ向かい、布団を引き寄せて横になる。
――寝ても、いいよね……?
――黙っていれば、彼はここにいてくれる?
「え――」
蒼井はもう目を閉じていた。
遅かった。
海斗は一瞬黙り込み、やがて小さく微笑んだ。
「眠いんだな……寝ていいよ」
起こさないように、声を落としてそう言う。
彼はしばらくその場に留まり、蒼井の呼吸が本当に整ったのを確認した。
どうして彼女が、同じ部屋に自分がいるのに、こんなにも無防備に眠れるのか――
海斗自身にも分からなかった。
たぶん……
それが、誰かを信じるということなのだろう。
――怒られていない。
――扉は、閉じられていない。
蒼井が眠ったのを確認してから、海斗は食器と残り物を片付けた。
家は再び静まり返る。
それから、彼は帰っていった。
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翌朝。
海斗はまた蒼井の家を訪れた。
インターホンを何度か押すが、返事はない。
――遅すぎた……?
けれど、それは珍しいことではなかった。
蒼井は、いつもそうだから。
案の定、少ししてからドアが開く。
蒼井はすでに出かける準備を終えていた。
道は、昨日の夕方の雨の名残でまだ濡れている。
海斗は歩きながら、ずっと話していた。
どうでもいいこと。
取るに足らないこと。
いつも通り、蒼井はそれを聞いているだけ。
――答えなくていい。
――黙っていれば、それでいい。
ロッカーの前に着くと、海斗はすぐに友人たちに囲まれた。
「よう、海斗。サボるかと思ったぞ」
誰かが肩を組む。
「まさか。俺、真面目だから」
海斗は軽く返す。
「じゃあ放課後、ファミレス行かね?」
「カラオケでもいいぞ」
「どっちも悪くないな。どうする、海斗?」
「どっちでもいいよ」
「決まり! ファミレス行って、そのあとカラオケな!」
笑い声が廊下に響く。
海斗は軽く手を振り、教室へ向かった。
蒼井だけが、ロッカー室に取り残される。
遠ざかっていく海斗の背中を、彼女はじっと見つめていた。
あの笑い声は、軽い。
あまりにも、軽すぎる。
――あそこには、行けない。
最初から分かっていた。
彼らは、違う世界に生きている。
海斗の周りには、たくさんの人がいる。
一方、蒼井には……海斗しかいない。
ロッカーを開けた瞬間、何かが床に落ちた。
一通の手紙。
――お願い、やめて。
こういうものには慣れている。
胸が痛くなる手紙。
それでも、彼女は読む。
けれど、今回は違った。
罵倒でも、嘲笑でもない。
恋文だった。
蒼井は、その紙を長い間見つめた。
――おかしい。
――きっと、私宛てじゃない。
誰が書いたのか分からない。
それ以上に――
なぜ、自分を好きになる人がいるのかが分からなかった。
――私は、何もしていない。
蒼井は手紙を折り畳み、ゴミ箱に捨てた。
――見なかったことにすれば……消えるよね。
そうして、教室へ向かう。
彼女は気づかなかった。
誰かが、その背中を見ていたことに。
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授業は、いつも通り進んだ。
昼休みになると、蒼井は屋上へ向かう。
階段で、足取りが遅くなる。
足音が……自分だけじゃない。
――私だけじゃ、ない。
嫌な感覚が、ゆっくりと這い上がる。
蒼井は足を速め、ほとんど走るようにして屋上へ出た。
座って弁当を開き、扉から目を離さずに食べる。
瞬きもしない。
――開かないで。
――お願い、開かないで。
しばらくして、扉の向こうに影が現れた。
誰かが、覗いている。
蒼井は、びくりと肩を揺らした。
――海斗……?
――それとも、あの手紙の人……?
――準備が、できてない。
答えを待たず、彼女は食べ終えるとすぐに屋上を後にした。
手紙の内容が、頭から離れない。
――放課後、校舎裏で待っています。
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放課後。
蒼井は意を決して、校舎裏へ向かった。
木の下で、立ち止まり、待つ。
――今なら、帰れる。
しばらくして、一人の生徒が近づいてきた。
「……こんにちは、蒼井さん」
蒼井は振り向き、わずかに目を見開いてから、すぐに俯いた。
――どうして、私の名前を。
「あ……自己紹介、してなかったですね」
彼は慌てたように言う。
「黒沢ヒロ、です」
蒼井は黙ったまま。
――話さない。
――黙って。
沈黙に、ヒロは落ち着かなくなる。
「その……怖がらせましたよね。ごめんなさい」
「ただ、話してみたくて……」
蒼井は、深く息を吸った。
――何か言わないと。
――言わないと、終わらない。
その日、初めて。
彼女は無理やり声を押し出した。
「……蒼井、神崎です」
小さな声。
消え入りそうなほど。
――出た。
言葉が出た瞬間、体が震える。
手のひらに、冷たい汗が滲む。
――言っちゃった。
――どうして、言ったの。
返事を待たず、蒼井は背を向けて歩き出した。
口を開くことは、
いつだって、怖い。
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ヒロは、木の下に一人残された。
短く、か細い言葉が、まだ空気に残っている。
――蒼井……神崎。
聞き間違いじゃないかと、心の中で繰り返す。
蒼井の足音は、もう聞こえない。
校舎裏は、何事もなかったかのように静かだった。
ヒロは俯き、無意識に拳を握る。
――あれは、知り合いになりたい人の声じゃない。
――追い詰められた人の声だ。
胸が、少し苦しくなった。
拒絶されたわけじゃない。
彼女は、何も拒んでいない。
それが、余計に分からなかった。
ヒロは、蒼井が去った方向を見る。
追いかけない。
呼び止めない。
なぜか、それは間違っている気がした。
――あと一歩でも近づいたら、
――壊れそうな何かが、本当に壊れてしまう。
やがて、彼は反対方向へ歩き出す。
手の中には、渡せなかった小さな紙切れ。
用意していた言葉。
ゆっくりと、それを握り潰した。
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蒼井は、目的もなく歩いていた。
足が速すぎる。
息が浅い。
――話した。
――本当に、話した。
その言葉が、足音よりも大きく頭の中で響く。
手が震え、袖の中に隠す。
――どうして、名前を言ったの。
――どうして、口が動いたの。
人のいない廊下の角で立ち止まり、壁に背中を預ける。
胸が、上下する。
――もう、嫌。
――これ以上、嫌。
でも、言葉はもう出てしまった。
取り消すことはできない。
蒼井は、目を閉じた。
その日、初めて――
彼女は願った。
――どうか、誰にも私の名前が残りませんように。




