あまりにも静かだった
蒼い夕方、雨はまだ降り続いていた。
蒼井は、目的もなく歩いていた。
帰り道はわかっている。
それなのに、足取りだけが、いつもより重い。
手にしている傘は壊れていた。
雨粒は肩に落ち続けているのに、直そうともしない。
……ああ、そうだ。
全部、壊れている。
いつもそうだ。
考えたくないことばかりが、勝手に浮かんでくる。
あの日のこと。学校のこと。
理由もわからないまま、胸に沈んでくる悲しさ。
そのとき——
雨が、止んだ気がした。
(……え?)
蒼井は顔を上げる。
困惑したまま、振り返る。
そこにいたのは、傘を差した海斗だった。
雨から、蒼井を覆うように立っている。
どうして……ここに?
みんなと一緒に帰ったんじゃ、なかったの?
「蒼井、どうして先に帰ったの?」
いつもの笑顔。
疲れも、不機嫌さも、どこにも見えない。
(この人は……誰にでも、こうなの?
それとも——私にだけ?)
「その傘、壊れてるじゃん」
蒼井は答えなかった。
答えたくないわけじゃない。
どう答えればいいのか、わからなかっただけ。
「大丈夫」と言えば、信じてくれない。
「忘れた」と言えば、嘘になる。
「捨てちゃおう。一緒に使えばいい」
軽い声。
まるで、当たり前のことのように。
蒼井は少し迷ってから、傘を手放した。
そして、海斗の後ろを歩く。
本当は、隣を歩くべきなのに。
でも——近すぎるのが、怖かった。
(あまり、頼っちゃいけない
慣れたら……一人でいられなくなる)
「蒼井? どうして後ろなの? こっち来なよ」
それでも、蒼井は動かない。
次の瞬間、海斗の手が蒼井の手を引いた。
小さく、蒼井は息を呑む。
拒む暇もなく、隣に立たされていた。
(……ああ、私、弱いな
いつも、こうだ)
「家に着いたら、あったかいお風呂入ってね」
蒼井の顔を、海斗が覗き込む。
その視線が優しすぎて、目を逸らしたくなる。
「蒼井さ、俺、よく一人で喋ってるけど
君のこと、迷惑だなんて思ったことないよ」
彼は蒼井を見ず、雨を見ていた。
(じゃあ、どうして……
こんなに、苦しいんだろう)
(どうして、私は
誰かの重荷になってる気がしてしまうんだろう)
蒼井は、海斗の横顔を盗み見る。
明るい。あまりにも。
(普通に話せたらいいのに
ありがとうも、ごめんなさいも
怖がらずに言えたら……)
家に着き、蒼井は風呂に入った。
海斗の言葉を、無言の命令のように守って。
温かい水の中でも、思考は静まらない。
(きっと、私は何度も迷惑をかけてる
彼が優しいだけで……)
海斗がそばにいてくれることは、幸運だ。
でも、幸運は永遠じゃない。
(いつか……きっと、いなくなる)
その考えが、ふいに浮かぶ。
(もし海斗がいなくなったら
……私は、大丈夫なんだろうか)
答えは、怖かった。
私はもう、彼に頼りすぎている。
彼以外……誰もいないのに。
そのとき、インターホンが鳴った。
蒼井はびくりと肩を揺らす。
心臓が、少しだけ早く打つ。
扉を開けると、そこに海斗が立っていた。
食べ物を抱えて。
「入っても、いい?」
また、その笑顔。
(どうして……
私が離れを考えるときに限って、来るんだろう)
二人は、蒼井の部屋でカレーを食べた。
ふと、海斗の視線が一枚の写真に止まる。
幼い蒼井と、母親。
そして——
空気は、静かに過去へと沈んでいった。
---
その頃、海斗は十歳だった。
引っ越してきたばかりの、小さな家。
知らない匂い。知らない声。
自分の部屋の窓の向こうに、隣の家が見えた。
そこで、海斗は初めて蒼井を見た。
窓の奥に立つ、少女。
動かない。
表情もなく、外を見つめている。
十歳の子どもの過ごし方には、見えなかった。
誰かを待っているのか。
それとも——最初から、誰もいないのか。
胸が、少しだけ苦しくなった。
それからも、その光景は続いた。
蒼井は、いつもそこにいた。
立って、見つめて、動かない。
ある日の夕方、海斗はついに近づいた。
窓を、軽く叩く。
蒼井はびくりと肩を震わせた。
無表情だった顔に、困惑が浮かぶ。
「ねえ」
まるで前から知っているかのように、海斗は言った。
「一緒に遊ばない? 虫取りしようよ」
考えなしの誘い。
理由も、計画もない。
(外に出たら……
あの目を、しなくなるかもしれない)
蒼井は少し黙り、
やがて、窓の奥から姿を消した。
しばらくして、玄関の扉が開く。
言葉もなく、二人は近くの小さな公園へ走った。
伸びた草。湿った土。
葉の隙間に潜む虫の音。
並んで走る。
話さない。
それなのに、不思議と居心地が悪くなかった。
(変だな
まだ、名前も知らないのに)
「俺、千垣海斗」
手を差し出す。
「君は?」
蒼井は、その手を見る。
黙ったまま。
小さな手が、わずかに震えている。
嫌なのか。
それとも——
「え? どうしたの?」
頭をかく。
「あ……もしかして、喋れない?」
思いついただけの言葉。
でも、海斗はそれを当然のように受け入れた。
「いいよ」
「一緒に遊べれば、それで」
彼は、ただ友達が欲しかった。
日が傾くまで遊び、
空がオレンジに染まり、
大人たちの声が聞こえ始めた。
帰り道、二人の歩幅は自然と遅くなる。
そのとき——
蒼井が、初めて口を開いた。
「……蒼井、神崎」
風に溶けそうな、小さな声。
海斗は立ち止まり、振り返る。
「え?」
「喋れるの?」
蒼井は、小さく頷いた。
海斗の顔が、一気に明るくなる。
「蒼井って言うんだ!」
「じゃあ……友達になろう」
計算のない、まっすぐな笑顔。
その笑顔が、少しずつ
蒼井を、暗い縁から引き離していくことを
二人は、まだ知らなかった。
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しばらくして、蒼井は家から出なくなった。
最初、海斗は気にしなかった。
子どもなら、よくあることだ。
でも、日が過ぎても蒼井は現れない。
窓辺にも、いない。
外を見つめる、小さな影もない。
おかしい。
海斗は何度も窓を叩いた。
返事はない。
名前を呼んでも、静寂だけ。
胸の奥が、ざわつく。
「父さん……」
「蒼井、ずっと出てこないんだ」
父は少し考え、頷いた。
二人は蒼井の家の前に立つ。
インターホンを何度押しても、反応はない。
まるで、空き家のようだった。
扉は、鍵がかかっていなかった。
中は暗い。
昼間なのに、カーテンは閉め切られ、
湿った空気と、薬の匂いが混じっている。
「蒼井?」
「いるのか?」
返事はない。
——そのとき。
「……蒼井?」
小さな姿が、扉の影から現れた。
海斗は息を呑む。
「蒼井……いたんだ」
近づこうとして、止まる。
部屋の奥。
布団に横たわる、一人の女性。
青白い顔。荒い息。
力なく伸びた手。
……ああ。
父がすぐに状態を確認し、表情を曇らせた。
「重いな……」
「ずっと、こんな状態だったのか」
蒼井は、答えない。
ただ、そこに立っている。
毎日、それを見てきた人のように。
蒼井は後になって知る。
自分はただ、母の額を冷やすことしか
できていなかったのだと。
母の手が、かすかに動く。
海斗の手を、掴んだ。
「……あなたが、海斗くん……」
弱い声。
「蒼井と……友達でいてあげて」
無理に作った、壊れそうな笑顔。
「……きっと、いい子だから」
海斗は、ただ頷いた。
意味は、まだわからなかった。
それが、最後の言葉だとも。
数か月後、
病院は、母の死を告げた。
蒼井は、一人になった。
海斗は、そばにいた。
食べ物を持ってきて、
隣に座り、話しかけ続けた。
けれど——
一つだけ、怖いことがあった。
蒼井は、泣かなかった。
叫ばない。
誰にも縋らない。
理由を、問わない。
ただ、静かだった。
悲しむことすら、忘れてしまった人のように。
海斗は知らない。
そして蒼井自身も——
その日から、
「誰もいないまま生きる方法」を
覚えてしまったことを。
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