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Silent Girl・人として生きることを教えてくれた少年  作者: Gabimaruu


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3/5

壊してしまった声

■ 激しい雨の午後


激しい雨が降る午後。

蒼井はひとり、歩いていた。


制服は雨に濡れ、身体に張り付いている。

手にしている傘は壊れていて、一本の骨が曲がり、もう雨を防ぐ役目を果たしていなかった。


髪の先から落ちた雫が、アスファルトの水たまりに落ちる。

蒼井は俯き、波紋で歪んだ自分の姿を見つめる。


蒼井は、学校生活を美しい思い出として覚えていない。

残したい笑顔もない。

もう一度やり直したい日もなかった。


孤独は、彼女にとって特別なものではない。

寂しさも、恐れるものではなかった。


彼女は、あの家にひとりで暮らしている。

父は、もうずっと帰ってきていない。

それでも毎月、決まった金額の送金だけは届く——

それは、かつて母と一緒にいた男からのものだった。


蒼井は歩き続ける。


――どうして、私の人生はこうなったんだろう……


雨脚が強まり、足取りが自然と遅くなる。


――もしかして……

あの時、あんなことを言わなければ……

全部、うまくいっていたのかな。


――


あの頃、蒼井は七歳だった。


明るくて、おしゃべりな子どもだった。

思ったことは、何でも口にしてしまう。

迷いも、恐れも、知らなかった。


その日、母はいつもより遅く帰ってきた。

そして、ひとりではなかった。


「おかえり、お母さん」


蒼井は笑顔で迎えた。


母は微笑んだが、その後ろには見知らぬ男が立っていた。


「お母さん……その人、だれ?」


蒼井が尋ねると、母は少し間を置いて答えた。


「ああ……お母さんの友だちよ」


「こんにちは」

男は微笑んだ。

「君が蒼井ちゃんだね」


蒼井は小さく頷いた。


母と男は家の中へ入っていく。

蒼井は急いで台所へ向かい、コップを用意し、丁寧に飲み物を注いだ。

いつも通り、手伝いたかっただけだった。


居間に戻ると、母の姿はなかった。


「あれ……?」

蒼井は周囲を見回す。

「お母さん?」


母の寝室の方から、声が聞こえた。


蒼井はコップを机に置き、そっとその部屋へ向かう。


ドアは少し開いていた。

部屋の明かりは、ついていない。


「お母さん……?」

蒼井は入り口に立った。

「電気つけないと、目が痛くなるよ……」


スイッチに手を伸ばそうとした、その時。


「あっ——だめ、蒼井」


母の声は、どこか慌てていた。


「大丈夫だから。

そのままでいいの」


蒼井は動きを止める。


「蒼井は、自分の部屋で待ってて」


蒼井は、よく分からなかった。

それでも、小さく頷いて従った。


自分の部屋へ戻る。


外は、だんだん暗くなっていった。

やがて、その男は帰っていった。


――


太陽が沈み、月が昇る。


居間の明かりは、薄暗く灯っていた。

蒼井は母の隣に座り、背中をソファに預けていた。

手には、少し古くなった絵本が開かれている。


「ねえ、お母さん」


蒼井は、絵本の中の絵を指さす。


「鳥さんが遠くへ行っちゃったら、また帰ってこれる?」


母は一瞬だけこちらを見て、蒼井の髪を優しく撫でた。


「帰れるよ」

静かに、そう言った。

「道を覚えていればね」


「……そっか」


蒼井は小さく頷いた。


読み聞かせを続ける。

言葉につまると、母は何も言わず、ただ本の角度を直してくれた。


外では、雨はもう止んでいた。

それでも、屋根から落ちる水滴の音だけが残っている。


「お母さん……」

蒼井は、また声を出した。

「今日、お父さん遅い?」


母は少し黙ってから答えた。


「ちょっとね。

でも、お父さんはちゃんと帰ってくるわ」


蒼井は頷いた。


絵本を閉じ、母の腕に頭を預ける。


母の心臓の音が、ゆっくりと伝わってくる。

あたたかくて、安心できた。


蒼井は、それが好きだった。


その夜が、

何も知らず、

何も疑わず、

何も後悔しなくていい、

数少ない夜のひとつだということを——

蒼井は、まだ知らなかった。


――


玄関の扉が開く音がした。


「お父さん! おかえりなさい!」


蒼井は駆け寄った。


父は疲れた笑顔を浮かべる。

「ああ……ただいま」


蒼井は父の服の裾を掴んだ。


「ねえ、お父さん。

今日、お母さんの友だちが来てたよ」


「……そうか」


短い返事だった。


それを聞いた母が、慌ててこちらを向く。


「蒼井ちゃん——」


「でもね」

蒼井は続けてしまった。

「お母さんとその人、部屋で寝てた」


父の表情が変わる。

疲労の色が消え、別の何かが滲んだ。


「……何を言ってるんだ、蒼井」


声が震えていた。


「わからない」

蒼井は正直に答えた。

「暗くて、何も見えなかった。

電気、つけちゃだめって言われた」


父は、それ以上何も言わなかった。


母を見つめ、手首を掴み、寝室へと引いていく。


蒼井は、その場に立ち尽くした。


「……お父さん?」


何が起きているのか、分からなかった。

自分が、何か悪いことを言ったのかも、分からなかった。


その夜、言い争う声が、ずっと聞こえていた。

蒼井は布団の中で耳を塞いだが、眠ることはできなかった。


――


翌朝。


父はスーツケースを持って、蒼井の部屋に入ってきた。


「蒼井……蒼井……」


小さな身体を揺らす。


蒼井は、ゆっくり目を開けた。


「お父さん……どうしたの?」


「お父さん、海外で仕事をすることになった」

静かに言った。

「お母さんと一緒に、ちゃんと過ごすんだよ」


蒼井は言葉を失う。


「え……?

どうして……急に……」


目に涙が溜まる。


父は答えなかった。

背を向け、そのまま出ていく。


「お父さん!」


蒼井は布団を抜け出し、追いかけようとした。


しかし、扉の前で、誰かに抱きとめられた。


「大丈夫よ、蒼井」


母の声。


「お父さんは、きっと帰ってくるから」


蒼井は、その日、泣いた。

理由も分からないまま、長く、長く。


蒼井は、まだ気づいていなかった。


あの日から——

声を出すことは、とても痛いものになった。


だから、

蒼井は、

黙ることを選んだ。

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