第2章 :二つの才能とのめぐり逢い
高校生になった僕は、書道でも定評がある先生に憧れ真っ先に書道部へ入部した。
書道部として生活を始め数日たったある日、体育の授業でバスケをやったことで監督からスカウトされる。
それがきっかけで足の痛みもなかったことから、再びバスケを始める決心をする。
書道部とバスケ部、二つの部活を兼部するという無謀な挑戦が僕の高校生活の始まりだった。
この頃も吃音は相変わらず悪く目立ったのだが、バスケと書道で実力を認められ、気持ちにもゆとりが生まれたことで吃音は少し緩和され、詰まっても言葉の置き換えによってスムーズなコミュニケーションが取れるようになってきた。
新聞配達の朝刊に加え、部活がない時はケンタッキーとコンビニでアルバイトもした。
習字教室の先生から「高校の書道は習字と違うし、通う時間もないだろう」と一時的に破門になった。
先生は僕を信じて、広い世界へ送り出してくれたのだ。
高校では書道で様々な賞を受賞した。
初めての大会では臨書と創作、二つの作品が全国大会の候補に上がる。
しかし、出品できるのはどちらか一点のみ。僕は迷わず創作を出品した。
人生初の創作書道、固定概念を取り払った自信作だった。
自分の想いを込めた作品、良いか悪いかなんて比較対象も無かったから全然分からなかったが、創作は純粋に楽しかった。
それから毎年、選抜の大会に出場するようになった。
短大では書道個展の他にYOSAKOIを始めた。
十勝のYOSAKOI大会では看板を書くなど、書道でも活躍した。
短大で介護を学び、そこでさらにコミュニケーション技術が増し、言葉も相当覚え、吃音はほぼ目立たなくなった。
介護の勉強では、人々の生活を支えることの尊さや、利用者主体のサービスという理想を学んだ。しかし、実習で直面したのは、その理想とはかけ離れた現実だった。
「利用者主体の介護サービス」という理念を掲げていながら、実際には職員の都合を優先した画一的な作業が展開されていたからだ。利用者の尊厳が置き去りにされていると感じ、僕は大きなショックを受けた。
この経験が、僕の心に一つの決意を芽生えさせた。いつか自分が介護の現場に立つならば、必ず利用者が主体となる真のサービスを提供できる職員になろうと心に誓った。
介護福祉士の資格を取り、理想を胸に福祉の仕事に就いた。しかし、この後の人生は再び闇へと傾いていく。