エピローグ④
ビクリ――
自分でも思いがけず大きく肩が跳ねた。
「や……あ、あの」
すぐ目の前で止まっている彼の手を見ながら何か言わなければと口を開いたものの、言葉が出てこない。
(どうしたら……なんて言ったらいいの……?)
途方に暮れかけたその時、その手が目の前からフッと消え、頭の上をポンポンと軽く叩かれた。
顔を上げると、困ったように微笑んでいる高柳さんと目が合った。
「そんなに怖がらなくて大丈夫だ。雪華が心配しているようなことは何もしない」
頭を撫でながら彼が言った言葉に、私は「え?」と目を見張った。
「ホテルの部屋を取ったのは、明日このまま横浜を一緒に見て回ろうと思ったからで、ほかに深い意味はない。そうだ、明日朝起きたら一緒に海を見ながら散歩をしてみないか? 昼は中華街で食べるのもいいな」
最後の方は努めて明るい口調で言った彼は、そのあとはじっと私の反応を伺うように見つめていた。けれど、彼の顔を見上げたまま息を詰めている私を見ると、ふぅっと短く息をつき、眉を下げて困った顔をした。
「今日は疲れただろう? 明日に備えて今夜はしっかり眠ろう、な?」
彼の瞳の奥がどこか頼りなげに揺れている。それは、仕事でもプライベートでもいつも迷いがない彼の、これまで見たことのない姿だった。
(もしかして緊張していて変な態度をとったのが、そうなるのを嫌がってるように見えてたの…?)
今日だけで何度も見た、困ったような微苦笑――
あれは私の心境を伺うものだったのだ。
「もう寝るか」
高柳さんはそう言うと、私にくるりと背を向けた。そしてベッドの方へと足を一歩踏み出しそうとしたその瞬間――
「貰ってくださいっ!」
ソファーの上に転がっていた箱を素早く掴み、私はそれを彼に向って突き出した。
小箱を持った両手が小刻みに震える。それを突き出すと同時に下げた頭を上げることが出来ずに、ただ彼の反応を待った。
ドクドクドクドク――
心音が加速していく。
八年前のあの時よりも、今の方がずっと緊張している。若さゆえに突っ走れたあの頃と今の自分は違う。自分のことばかりを守ろうとしてしまうのは、年を取った分だけ傷つくのが怖いからだ。
「ありがとう」
柔らかな低音が降ってきたと思ったら、両手の先がふわりと軽くなった。ゆっくりと顔を上げると、小箱は彼の手の中に。
「そうか、今日はバレンタインだったな」
手の中の小箱をまじまじと見ながら「今気が付いた」と彼が呟く。
「他の人から貰わなかったんですか?」
思わず訊いてしまった。彼を狙っている女性たちには今日はまたとないチャンスの日だろう。きっと今日は一日色々な女性に捕まったのではないかと、内心ヤキモキしていたのだ。
「いや。……ああ、そういえば今日はやたら何かにつけて呼ばれるなとは思っていたが、絶対に定時で上がろうと思っていたから、必要最低限しかデスクから離れなかったんだ。仕事の用なら俺のデスクで聞けばいいだろう?」
「……」
「何人かはデスクの前で何かを出そうとしていたな…『仕事に関係ないものは不要だ』と言ったら、書類だけおいて去って行ったが」
私は今日はほとんど所定の位置にいなかったので、そんなことになっているとは思わなかった。
「だがもしバレンタインのことを覚えていたとしても断ったぞ?雪華からのチョコ以外貰うつもりはないからな」
甘く瞳を細めて微笑まれると、みるみる顔が熱くなっていく。本番はこの後なのに、これくらいで負けてはいられない。
「食べていいか?」と言われたので「はい」と返事をした。
ソファーに腰を下ろした高柳さんがシュルリとリボンを解き、包みの中の蓋を開ける。
少し間隔をあけて隣に腰を下ろした私は、じっとそれを見つめていた。
「いただきます」
トリュフを一つ摘まんだ彼は、そのままそれを口に入れた。
(ど…どうかしら……大丈夫?)
自分で味見をした時は「大丈夫」だと思ったけれど、高柳さんが美味しいと思ってくれるかは不安だ。
黙ったまま咀嚼していた彼は、指先についたココアパウダーをペロリと舐めながら私に視線を送ってきた。その仕草があまりに扇情的で、ただでさえ忙しい心臓が一段と大きく跳ねた。
「美味いな」
「っ、良かった!」
ホッと肩を撫でおろすと、「もしかして手作りなのか?」と聞かれたので頷く。
「コーヒーの苦みとウィスキーの香りがすごくいい。控えめの甘さで、これならいくらでも食べられそうだ」
言いながらもう一粒摘まんで口に入れる。甘いものがあまり好きではない彼が立て続けに食べてくれていることから、その台詞が嘘ではないのだと分かる。彼からの合格サインに緊張が少し緩んだ。
「チョコを作るのは初めてだったので、美味しくできたか不安で……でも、お口に合って良かった」
つい嬉しくて頬が緩んでしまうのを感じながらそう言うと、高柳さんがかすかに目を見張った。
「初めてなのか?手作りチョコ……」
「はい。それに男性にバレンタインのチョコを渡すのは八年ぶりで……」
「八年ぶり……あ」
それを思い当たった彼に頷く。
「あの時以来……です」
「そうか……」
感慨深げに呟かれて、なんだか恥ずかしくなってしまう。今でもあれは私にとっては恥ずかしい思い出に変わりはないのだ。
「初めての手作りチョコか。嬉しいものだな。本当に美味かった。ありがとう」
高柳さんは、顔をくしゃっとさせた満面の笑みを浮かべた。
一番大好きな笑顔に、きゅぅぅん、と胸の奥が甘く鳴く。
「あ、あのっ…貰ってくださいっ!!」
両手を皿のようにして高柳さんの前に差し出し、頭を下げた。




