エピローグ①
金曜日の仕事上がり。私は今、高柳さんが運転する車の助手席に乗っている。
行先は聞いていない。『今日は外で食事をしよう』と言われ、それに肯いただけだ。
正直どこで何を食べるかなんて気にする余裕は今の私にはない。
なぜなら、今日は二月十四日――八年ぶりのバレンタインだからだ。
まどかにバレンタインの相談をしたら、彼女は本人よりも俄然やる気を出した。
勝手にアレコレと計画を練り、私に様々なお節介をくれた。【初めてさんの手作りバレンタイン】という本を持たされた私は、彼女が教えてくれたレシピとその本で何度か練習をしてから本番に挑んだ。
私が人生初手作りしたのは“トリュフ”だ。
お酒が好きな高柳さんに合わせてウィスキーを入れ、あまり甘いものが得意ではなさそうだったので、ビターチョコレートにコーヒーを入れて作った。
一応たぶん成功したと思われるそれをラッピングし、今は鞄の中に忍ばせている。
これから自分がやろうとしていることを思い浮かべただけで、心臓が一気に早くなる。右側ばかりを意識してしまうのに、そちらを見ることが出来なくて、横の窓から外を眺めてばかりいる。けれど景色はただ流れていくだけで、全然見てなどいない。
膝に置いた鞄の持ち手を両手でぎゅっと握っていると、隣から声を掛けられた。
「疲れているのか?」
「え?」
反射的に右に顔を向けると、ハンドルを握っている高柳さんがちらりと一瞬こちらに視線を向けた。再び前を向いた彼はそのまま口を開く。
「さっきから黙っているから。疲れているなら眠っていてもいいぞ?」
「大丈夫です。ちょっとぼんやりしてただけですから」
「そうか?」
「はい」
肯いた私に「でももし眠くなったら気にせず寝てていい」と言い、気を遣ってくれたのか高柳さんはそれからは黙ったまま運転していた。
決起会から一か月経ち、私の生活は以前とほぼ変わらない日々を送っていた。
仕事上においては、何かのいざこざがあったとは思えないほど平和に忙しい。
幾見君とは上司部下として問題のない範囲で接することが出来ている。
以前彼に、はっきりと『私は高柳さんが好き』と告げた時、彼は『最初から俺に勝ち目はありませんでしたね』と言った。
高柳さんと付き合っていることは言わなかったので、まさかそんなふうに言われると思わず言葉に詰まる私に、幾見君は続けて『前に言ったことは、聞かなかったことにしてください』と言った。
その時の彼のほろ苦い笑顔に、私は黙って頷くことしか出来なかった。
一番の懸念だった矢崎さんは、私が風邪から復帰すると企画チームから外れていて、代わりに本来チーム入りする予定だった人がそのポジションに戻されていた。
プライベートでは、高柳さんとの同居を解消したので自宅マンションから前のように通勤し、自分で自分の身の回りのことをしている。料理も少しはするようになった。とはいえ、高柳さんのようにはいかず、弁当も時々しか作れない。枝豆一択の食生活から一歩抜け出せたかな、というくらいのものだ。
助手席の窓から外を眺めながら、そんなことをぼんやりと考えているうちに、私はいつのまにか眠りに落ちていた。
「……か、ゆ…か、雪華」
「ん……」
「着いたぞ」
「えっ!」
隣から聞こえた声に、私は跳ね起きた。窓の外は薄暗い場所で多くの車が停められてある。地下駐車場か何かだと思った。
「大丈夫か?」
気遣うような声色に顔を向けると、心配げにこちらを見る高柳さんと目が合った。
「よく眠っていたから起こしたくはなかったのだが、いつまでもここにいるわけにもいかないから」
「ご、ごめんなさい…」
申し訳なさそうに言われたけれど、悪いのは私。
運転している彼の隣で眠りこけてしまうなんて自分が信じられない。いくら昨夜チョコ作りで夜更かしした上に、緊張でちゃんと眠れなかったのだとしても――。
「いや、眠っていいと言ったのは俺だ。それに週末で疲れているのに、俺がこんなところまで連れてきてしまったからな」
シートの上で小さくなっている私の頭を優しく撫でると、高柳さんは「目が覚めたらならそろそろ行こうか」と私を車の外へと連れ出した。




