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第十一章 上書きと熱⑤

「どこで何を聞いたのか知らないが、俺は雪華以外とお見合いはしていないし、他に婚約者もいない」


「でも、常務のお嬢さんと」


義妹(いもうと)だ」


「え?」


「常務の娘は俺の義妹。この前会社で一緒にいたのはその義妹だ。母は俺が十一の時に離婚して二十歳(はたち)の時に再婚したんだ。その相手が常務。常務には亡くなった前の奥さんとの間に娘がいて、俺には一回り年下の義妹が出来た」


思いも寄らない事実に驚くことしか出来ない。


「で、でも名字が……」


常務取締役は長嶺という名字だったはずだ。

その疑問の答えを、高柳さんはあっさりと口にした。


「高柳は母の旧姓で、二人が再婚したのは俺が成人した後だったから、俺は長嶺の籍には入らなかった。再婚するまでの数年間、家族同士での交流もあったおかげで、桃花は……義妹は俺のことを本当の兄のように慕ってくれているし、俺も血の繋がった兄妹と変わらないと思っている」


「雪華が言う“お泊り”は、実家だ。義父への用事で会社に来ていた桃花を実家まで送って行ったら、アレコレと用を頼まれてそのまま泊まらざるを得なくなったんだ」


私はじっと彼の腕の中でその言葉に耳を傾けていた。


「今の俺があるのは義父のおかげだ。だから少しでも彼の役に立つことが出来るなら、と今の会社に転職した」


その言葉に、以前高柳さんがホールディングスに入社したきっかけを聞いたことを思い出す。

『知り合いに声を掛けられて』と言っていたが、その“知り合い”とは長嶺常務のことだったのだ。


高柳さんに婚約者がいるという噂が嘘だと分かって、ずっと鉛を飲み込んだみたいに重苦しかった胸の奥が、すうっと軽くなった。


ここ最近ずっと胸を覆っていた靄が晴れていくのを感じ、熱のせいで重たい頭と体も軽くなった気がしてきた。

少しだけ思考がクリアになり、今の自分の状況に意識が向く。


(私、高柳さんに抱きしめられたままっ!)


反射的に目の前の胸を両手で押し返す。密着したままだったことを再認識して、顔が熱くなる。下がるかもと思った熱がまた上がったみたいだ。


抱きしめられていた腕が緩んだすきに距離を取ろうと身じろぎをする。けれど、聞こえた低い声に私は動きを止めた。


「『付き合っている相手としかしない』」


ハッと顔を上げると、じっと私を見る瞳とぶつかった。

ドクン、と心臓が波打つ。


「俺はいつ、お前にそう言った?」


深く探るようなまなざしに射抜かれる。

彼の問いかけに答えることが出来ない私は、黙ることしか出来ない。


「俺は今の会社に転職してから、声をかけてくれた義父の期待に応えるために仕事だけに専念してきた。けれど俺に声をかけてくる女性は多くて、仕事に私情を持ち込むのが嫌だったこともあって、その人たちには冷たく対応してきた。『あなたに割く時間(プライベート)はない』と断ることがほとんどだ。だから雪華が言った『付き合っている相手としかしない』という言葉を職場で言った記憶はない」


坦々と説明する高柳さんの声を聞きながら、私はなんて言って誤魔化そうと、焦って言葉を探していた。


『付き合っている相手としかしない』


八年近くの間、私の中に残っている高柳さんのセリフ。

昨夜の記憶はあやふやで、でも、感情にまかせて何かを口走ったような覚えはある。


何か言わなければ、と口を開きかけた私より、高柳さんの声が一瞬早かった。


「ただ、ずいぶん昔にそれを口にしたことは憶えている」


心臓がどんどん加速していく。

再会してからずっと黙ったままの“あの告白”を、彼が憶えていたとは思わなかった。

でも、その相手が私だとは気付かれていないだろう、そう思った瞬間――


「“おうみ ゆか”」


「っ!」


「大学院を卒業する前に俺に告白してくれた女の子の名前だ」


静かにそう言った彼は、私をまっすぐに見つめ、次の言葉を放った。


「でもそれは勘違いだった。彼女はいつも“おーみちゃん”と呼ばれていた。本当は――」


ドクン、心臓が大きく跳ねた。


「“あおみ ゆきか”――雪華、お前だった」



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