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第十一章 上書きと熱①


私を抱きかかえてミーティングルームから連れ出した高柳さんは、そのまま私を車に乗せマンションへと帰宅した。


帰宅後すぐにお風呂へ直行した私は、長い時間をかけて丹念に体を洗った。

矢崎さんに付けられた何もかもを洗い流したくて仕方なかった。


汗と涙を含む不快なベタベタはすぐにシャワーで一掃出来たけれど、いくら洗っても触られた感覚は肌に張り付いたままで、湯船に浸かって涙と嗚咽をお湯に沈めた。


風呂から上がり部屋に戻ると、灯りも点けず、ベッドの縁に座ってしばらくぼうっとしていた。

嗚咽を堪えた喉がヒリヒリと痛む。長湯をしたのにもかかわらず、背中がうすら寒い。


いつもの倍くらいの時間浴室に籠っていたはずなのに、高柳さんはそのことには何も触れずに私と入れ替わるように風呂に行った。


(高柳さん、きっと怒っているわよね……)


彼は帰りの車からずっとほとんど口を閉ざしたままだ。喋るのは必要な時だけ。


矢崎さんはすっかり諦めたのだと私は油断していた。高柳さんも幾見君も、あんなに心配して気を回してくれていたというのに。


強引にとはいえ、密室に二人きりになるような状況を作った自分にも責任はある。腕を掴まれたすぐにもっと抵抗するなり大声を出すなりすれば、あんなことにならなかったはず。

自分の迂闊さが悔やまれた。


体に張り付いた嫌な感覚と後悔の気持ち、そしてあの時の恐怖が一気に胸に押し寄せて、両目が再び熱を持ち始める。


(だめ。泣かない。大丈夫、これくらいなんでもない。大事には至らなかったのだし……)


ひとり胸の内で自分を宥める。

すぅっと息を大きく吸いこんでゆっくりと吐き出すと、瞼の熱が静まりかける。


(そうよ、雪華。あなたは強い。だから大丈夫……)


高柳さんとの約束の期間は終わり、この週末には自分のマンションに戻る。もとの生活に戻るのだ。


ずっと分かっていたことだけど、そのことを考えた途端、さっきとは違う場所が締め付けられるように痛んだ。


瞼に滲んだ涙が薄らいだ頃、コンコン、と部屋のドアがノックされた。


「はい」


驚いて反射的に返事をすると、「開けていいか?」とドアの向こうから聞かれ、もう一度「はい」と答えるとドアが開けられた。

薄暗い部屋に明かりが差し込む。


「何か食べられそうか?」


高柳さんが、半分ほど開いたドアの隙間から上半身を部屋の中に入れた状態でそう訊いてきた。

私は無言で首を左右に振る。


正直今日は昼休憩もそこそこに決起会の準備に追われ、昼食もほとんど食べていない。決起会にはケータリングの食事も出ていたけれど、裏方の対応や挨拶回りで、料理どころか飲み物にすら手を付ける余裕はなかった。


けれど今、まったく空腹を感じていない。むしろ今何か食べたら吐いてしまうかもしれない。それくらい全身が気持ち悪くて仕方ない。そう思ったらぶるりと体が大きく震えた。


「寒いのか?」


高柳さんの視線が壁の上のエアコンに持ちあがる。

エアコンがきちんと動いているのを確認した高柳さんは、「ちょっと待ってろ」と言って出て行った。


しばらくすると再びドアがノックされ、高柳さんが入って来た。手には湯気の立つマグカップを持っている。


「飲めるだけでいい。温まるから」


差し出されたマグカップを両手で受け取る。温められたカップに触れた指先がじんと痺れて、いつのまにか冷えきっていたことを知る。


ゆっくりとカップに口を付けると、中身を少し口に含んだ。ホットミルクだった。


「おいしい……」


沸騰直前まで温められたミルクは熱々で、そしてはちみつの香りと味がしっかりとある。きっとたっぷり入れてくれたのだろう。


ふうふうと冷ましながらひとくち、ふたくちと飲み進めて行く。お腹の中がぼわっと温かくなって、体の中心に熱が戻ってくる感じがした。


どんなに長い間湯船に浸かっていても温めることの出来なった場所が、一杯のホットミルクで温まっていく。

カップの中が空になる頃には、さっきまでの強い嫌悪感が少しだけ薄らいでいた。


空になったカップを私の手から持ち上げた高柳さんは、それをベッドのサイドボードに置くと、私を布団の中に入るように促した。


「体が冷めないうちに眠ったほうがいい」


そう言って私に布団を掛けてくれ、壊れ物に触れるかのようにそっと優しく、大きな手が頭を撫でる。その心地良さに自然と瞼が下りた。

けれど――


『今のお前となら楽しめそうだ』


耳の奥に、ねっとりとした声が響いた。


「いやっ!」


まとわりつく残像を払おうと手が動く。

自分が振り払ったそれが、高柳さんの手だと気付いた時には遅かった。


「あっ、や……ちがっ……ご、ごめんなさい………」


「謝らなくていい。不用意に触れた俺が悪かった」


高柳さんの優しい台詞に、ひどく胸が痛んだ。

振り払いたいのは矢崎さんで、高柳さんではないのに。


「俺はリビングにいるから何かあったら遠慮せずに呼ぶといい。じゃあ」


ベッドに背を向け立ち去ろうとした高柳さんに、思わず手を伸ばした。


とっさに掴んだのは彼の着ているトップスの裾。スェット素材のそれが、掴んだところから引き伸ばされた。


「どうかしたのか?」


足を止め振り向いた高柳さんがそう訊かれたが、何と答えていいのか分からない。自分でも彼を引き止めた理由が分からないのだ。


「あの……」


言葉を探すけれど何も出て来ない。それなのにスェットの裾を握った手を開くことも出来ず、余計にギュッと握りしめてしまう。


「えっと……その……」


『やっぱり何でもないんです』と言って裾を離そうとした時、高柳さんの硬い声が降ってきた。


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