第十章 決起会②
新年初出社から数日経った木曜日。
私は明日に控えた決起会の準備に追われていた。
新年早々やらないといけない仕事は山のように有り、休み明けのぼんやりとした脳を無理やりにでも動かさない訳にはいかない。
高柳さんの政略結婚の話を耳にしてからというもの、職場でも家でも高柳さんの顔を見る度に胸の奥がズキズキとひどく痛み、それを顔に出さないようにするだけで精一杯だったので、忙しい毎日が正直ありがたいくらいだった。
高柳さんの噂は、休暇明けの話題ナンバーワンで、女子トイレや更衣室などで耳にしない日がないほどだ。
噂を口にする女性達は皆こぞって残念がったり悔しがったりした。けれど最後には必ず「ホールディングスの常務の娘なら勝ち目がない」と口にするのだ。
私は自分がすべき仕事だけに集中することで、胸の奥から湧き上がってくるものに蓋をした。
「ケータリングは明日十五時に搬入です」
「じゃあそれまでに会場のセッティングを完全に終わらせましょう。総務からまた助っ人をお願いしてあるわよね?」
「総務からのヘルプは五名です」
「分かった。明日は頼んだわね、幾見君」
「はい」
幾見君と最終確認をして、今日はこれで退社予定。とはいえ、すでに定時を一時間半も過ぎていた。
大澤さんは明日に備えてすでに退社している。
前日準備はやれるだけやった。すべて本部チームで打ち合せは済んだし、上司である高柳さんからの承認も貰っている。
その高柳さんは、今はここにはいない。
明日の決起会にはホールディングスからも上役が出席するので、その打ち合わせに行ったまま、きょうはマーケティング本部には戻ってこないようだ。
「そろそろ帰りましょう」
「はい」
幾見君とオフィスを出てエレベーターに乗り込む。
彼はあれ以来何も言ってこない。
エレベーターには他に誰も乗っておらず、小さな箱の中に何となく気まずい空気が流れる。
それを消したいのに、何を言っていいのか分からない。
そうしているうちにエレベーターは一階へと辿り着いた。
エレベーターから降り、エントランスホールを通り出入口に近付く。センサーが反応して自動ドアが開き、一気に冷たい風が入ってきた。
「明日はよろしくね。お疲れ様」
そう言って自動ドアをくぐろうとした時、幾見君が足を止めた。
「駅まで送ります」
矢崎さんの待ち伏せ騒動があって以来、私は一人で帰宅してはいなかった。
高柳さんがいない時は駅まで幾見君が送ってくれていて、年が明けから昨日までは高柳さんと一緒だった。
幾見君はきっと気付いている。私が高柳さんの車で帰っていることを。
彼が何も言ってこないことを良いことに、私は彼に甘えていた。
「ううん、もう大丈夫。心配してくれてありがとうね」
「いえ、でも」
幾見君が何か言葉を続けようとしたその時、背後でエレベーターの到着を知らせる音が聞こえた。
エレベーターから降りて来た人の話し声が耳に届く。鈴を転がすような声に、何気なく振り返った。
目に映ったのはスラリと背の高いその姿。
その隣に、小柄で可愛らしい女性が並んで歩いている。
彼女の手が隣に立つ彼の腕に回されていて、寄りかかるようにぴったりとくっついているが、彼の方は嫌がるそぶりもなく、むしろそうすることが当たり前なのだと言うほど、二人の間からは親密な雰囲気が漂ってきた。
キラキラとした瞳で隣を見上げる彼女は、“女性”というよりも“女の子”と言った方が似合うほど若々しく可愛い。
そして、その彼女を見下ろしている瞳。
それはここが会社であることを忘れるほど柔らかく、そして楽しげだった。
「高柳統括も、あんな顔出来るんですね……」
隣から聞こえてきた言葉に相槌を打つことすら忘れ、私はただ息を詰めていた。
ドクンドクンと血管が脈打つ。
胸が軋んで痛くて痛くて、これ以上ここにいたら何かが壊れてしまいそう。
「帰る」
「え…雪華さん⁉」
踵を返して走り出した私は、高柳さんがこちらを見たことに気付かなかった。
帰宅してからスマホにメッセージが入っていることに気付いた。高柳さんからだ。
【今日は遅くなる。夕飯は要らない】
それに【分かりました】と返信してからすぐにお風呂に入り、夕飯も食べずにベッドにもぐりこんだ。
(今頃さっきのひとと食事をしているのかも……)
(常務のお嬢さんと結婚……)
(次の休みにはここを出ないと……)
頭の中を色々な考えが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
全然眠気は訪れない。
無理矢理にでも寝てしまおうと瞼を閉じると、さっきの光景が瞼の裏に映し出される。
あまりの眠れなさに、思い切って方針転換することにした。
高柳さんが帰ってくるのを待っていよう。高柳さんが帰宅したら潔く聞いてみようと思う。
不確かなことに悶々とするくらいなら、ちゃんと確かめた方がすっきりするだろう。
(大丈夫。初めから分かっていたことよ……)
三か月前に戻るだけなのだ。何の不都合もない。
(大丈夫………私は一人で……大丈夫)
その日、高柳さんは帰って来なかった。




