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第九章 遠雷⑦


目が覚めるとカーテンの隙間から光が差し込んでいて、朝が来たことに気付く。

隣には高柳さんの姿はない。


昨日外出した服のまま眠ってしまったから、部屋着に着替え眼鏡を掛けようとサイドテーブルを見たがない。


(洗面台に置いたままだったわ……)


コンタクトを入れるときに外してそのままにしてしまっていたことに気が付いて、仕方なく予備の眼鏡を掛ける。

高校と大学の間使っていたこの黒縁眼鏡は、今ではほとんど出番はない。コンタクトかファッション性のあるウェリントン眼鏡を掛けるからだ。


昨日泣いたせいで多少目が腫れぼったいが、コンタクトが入らない程ではない。急いで洗面台まで直行すれば、この黒縁眼鏡姿を高柳さんに見られることはないだろう、と私は部屋を出ることにした。


ドアを開けると寝室に面しているLDKに出るが、そこに高柳さんの姿はない。


(自分の部屋に帰ったのかしら……)


そう考えつつも、「今のうちだ」とパウダールームに向かって足早にリビングを抜けようとした。


けれど――


ガラガラガラと、ベランダの窓ガラスが開く音がした後、「起きたのか」と声を掛けられた。

振り向くと高柳さんがベランダから部屋に入ってくるところで、私の顔を見て「ちょうど良かった」という。

そしてこちらに向かって手招きをするので、呼ばれるままに寄って行くと――


「見てみろ」


「わぁ~~っ」


ベランダの向こうは、一面銀世界だった。


「すごい雪っ!」


滅多に見ることのない銀世界に興奮して寒さも忘れてベランダに出ると、高柳さんも私の隣に並んだ。


「夜のうちに積もったようだな」


「すごいっ! 綺麗ですね……」


ベランダの向こう側の公園が真っ白になっていて、朝早いせいか足跡もない。


「やっぱり正解だったな」


外を眺めながら高柳さんがそう呟くので、「何がですか?」と訊いてみる。


「昨日のうちに戻ってきたこと。もしかしたら積雪があるかもしれない、とニュースで言っていたからな。この様子じゃ交通機関はマヒしているだろう」


確かにこの雪では電車もすぐには動かないし、雪に慣れない車で道路も事故や渋滞で機能しにくいだろう。

でも、別に――


「明日も休みですし、そのままご実家にもう一泊されたら良かったんじゃないですか?」


幸い会社はまだ冬休み期間中だから、慌てて帰って来なくても問題ないのにな、と思った私は、首を傾げながらそう訊いた。


高柳さんは隣にいる私のことをじっと見下ろすと、突然わしゃわしゃと私の頭を乱暴に撫でた。


「わっ!……もうっ、何するんですか!?」


抗議の声を上げた私に高柳さんは「くくっ」と楽しげに肩を震わせて笑う。


「いいデコだな」


「なっ!」


かき混ぜられた髪が乱れ、下ろしていた前髪が左右に上がっていた。

社会人になってからおでこを人前に晒したことがない。

地味に恥ずかしくて、慌てて髪を戻そうと当てた右手を高柳さんに掴まれた。


「隠すのか?」


「は、離してください」


早く前髪を下ろしたくて、手を頭に持って行こうとするが、逆に高柳さんの方へ引き寄せられる。


「そのままにしておいても可愛いぞ」


「かわっ⁉」


「大事な妻をこんな日に放っておけるわけないだろう?」


真っ赤になって絶句している私の耳元で彼は囁いた。


「一人にしない。――雪でもカミナリでも」


ふわり。額に温かく湿ったものが触れた。


空からはらりはらりと降ってくる氷の結晶が、私の熱い顔に当たってすぐに溶ける。

頬の上をすべり落ちる氷の冷たさを感じながら、まるで“あの日”の再現のように感じて――


「風邪引く前に中に入ろう」


そう言われたけれど私はすぐにその場から動くことが出来なかった。



(期間限定の、模擬結婚生活……なんですよね?)


心の中でそう尋ねるが、答えをくれることの出来る人はもう隣にはいない。


初告白の時にされて以来、二度目となる額への口づけ。

頭から蒸気が出そうなほど熱くのぼせてしまって、その熱が冷めるまで部屋の中に入れなかった。



模擬結婚生活開始から、もうすぐ三か月。


約束の期限はもう目の前に迫っていた。







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