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第九章 遠雷④


幾見君と別れてからマンションまでの十数分、高柳さんは無言で私の肩を抱き帰路を進んだ。

そうしている間にも、雷鳴が近付いてくる。空が紙に浸み込む墨汁みたいにじわじわと暗くなり、同時に頭の中が恐怖に染められていく。


思うように進まない自分の足がもどかしい。


何度目かの雷鳴が轟いた時、私はとうとう耳を塞いでその場にしゃがみ込んでしまった。


「もう少しだから、頑張るんだ」


高柳さんの声が降ってくるが、稲妻が怖くて顔を上げられない。


「青水」


「もう放っておいてっ」


悲鳴のような声が勝手に飛び出た。


高柳さんが私のことを心配してくれているのは分かっている。でも――


「わ、私は平気なので…放っておいてください……」


瞳に溜まる涙が、カミナリへの恐怖心のせいなのか何なのか分からなくなる。

下ろしたままの髪が強い風にあおられ、露わになった首元がスゥっと冷気にさらされる。


ピカッと走った閃光に反射的にギュッと目をつむった。


次の瞬間――ふわり。体が宙に浮いた。


「きゃあっ」


何ごとかと両目を見開くと、すぐ近くに高柳さんの顔。

私は彼に抱え上げられていた。


「落とされたくなかったらちゃんと掴まっていろ」


「っ!」


私に視線を向けることなく真っ直ぐ前だけを向いたまま、高柳さんは人ひとりを抱えているとは思えない程の平然とした顔でどんどん進んで行く。

そうしてマンションに帰り着くと同時に、空からは白いものが降り始めた。



私を両腕に抱えたまま高柳さんはどうやったのか鍵を開け部屋の中に入り、そのままリビングを抜け私の部屋へと一直線に向かう。

徐々に近づく雷鳴に体の震えは増すばかりで、抱えられて運ばれている間も羞恥よりも恐怖が勝ち、彼の首に腕を回してしがみついていた。


「開けるぞ」


彼は短く断りを入れ、寝室のドアを開けた。


そっとベッドの縁へ私を下ろすと、足早に窓に近付いて遮光カーテンを引く。

そしてすぐにこちらに戻ってきた高柳さんは私の目の前に跪くと、私の足先を手で掴む。

左右片方ずつ丁寧に脱がされていく靴を見ながら、自分が靴を履いたままだったことにやっと気付いた。


着ているコートを脱ごうとボタンに手を掛けるが、指先が大きく震えて上手くいかない。

それに気付いた高柳さんが、ボタンを外して私の腕からコートを引き抜く。


コートが無くなると急に寒気を感じて、ぶるりと肩を震わせた私に、「被っているといい」と毛布を頭から掛け、私の靴を片手に持った高柳さんが立ち上がりかけた。


その時、これまでにないほどの轟音が鳴り響いた。


「きゃあああっ!」


頭が真っ白になった。


『お母さん……早く帰って来ないかな……』


『青水裕子さんが事故に遭われて、病院に搬送されました』


『残念ですがお母さまは……』


『うそ……そんなの』


閉じた瞼の向こうに、あの日の光景がコマ送りのように映し出される。


「いやよ、やだっ……置いていかないでっ、お母さんっ!」


「青水っ!」


体に軽い衝撃を感じて、両目を開く。

頭から被っていた毛布ごと、高柳さんが私を抱きしめていた。


抱きしめる腕の力は痛いくらい強くて、でもその痛みが私を“今”へと引き戻す。


「俺がいる……ちゃんとここにいるから。だからもう泣くな」


毛布越しにくぐもった声が聞こえ、背中を大きな手がゆっくりと撫でていく。


雷鳴が空気を震わせその度に啼泣する私を、高柳さんは何も言わずにずっと抱きしめていてくれた。






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