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第九章 遠雷③

スーッと血の気が引いて足が震えだす。


(早く……早く帰らないとっ)


頬を濡らした涙を拭うことなく、慌てて家を目指そうと顔を上げる。するとどこからか誰かに呼ばれたような気がした。


駆け寄ってくる足音。今度ははっきりと聞こえた。


「雪華さん!」


私が振り向くのと、幾見君が足を止めるのは同時だった。


「雪華さん……」


幾見君が目を見開いた。


「どうしたんですか⁉ あの男と何かあったんですか⁉」


幾見君は私の両肩に手を置き、前屈みになりながら私の濡れた顔を凝視する。


喰いつくように私を見る幾見君は必死の形相。青い顔をして涙に濡れている私を見て驚いたのだろう。

私はずずっと鼻をすすって頬を拭ったが、『あの男』という言葉からさっきの高柳さんの笑顔が甦って、一度止まったはずのまた涙がまた溜まり始める。


「矢崎はどこです! 何をされたんですかっ⁉」


すごい剣幕でそう言って、キョロキョロと辺りを見回す幾見君を、私はキョトンと見た。


「やざき……さん?」


「はい。あいつがまた雪華さんになにか――」


「ち、ちがうわ、矢崎さんとは会ってない」


涙を湛えたままの瞳で幾見君を見上げていると、彼はホッと息をついた。


「そうですか……良かったです。でもじゃあどうして……」


私が泣いている原因が矢崎さんではないと知って少し落ち着いた様子の幾見君は、首を傾げて私の顔を覗き込みながらそう言った。


「えっと……これは…その……なんでも、ないわ」


「なんでもないわけないでしょう。雪華さんが泣くなんて、何かあったとしか思えない」


涙の理由を説明できない私は、彼から目を逸らし俯く。反動で、目の縁に溜まっていた涙が一筋流れ落ちた。

それを拭おうと手を頬に当てた時、幾見君は力強く私を抱きしめた。


「い……くみ、く」


「俺じゃダメですか?」


身じろぎしたのと同時に耳に聞こえたのは、いつも明るい彼のものとは思えない程小さく掠れた声。

腕に込められた力が強くて痛い。


「は、離して、幾見君」


腕の中から頼んでみるが、その力は緩まない。


「俺……俺はあなたのことを……」


切羽詰った声の彼が耳元で何かを囁こうとした時、私の体が後ろから大きな力で幾見君から引き離された。


トン、と背中が何か堅いものにぶつかり、ふわりと甘くスパイシーな香りが私を包む。


もうすっかり馴染んだこの香りは――


「高柳統括!」


幾見君が驚いた声を上げた。


「何をしている」


地を這うような低い声が上から降ってくる。

まるで百獣の王が呻っているようなそれに、思わず背筋がぞくりとする。

顔を見なくても分かる。鋼鉄の表情に刺すような瞳。


「とっ、統括こそ、何をするんですか!」


高柳さんの迫力に押されたのか、幾見君が少し動揺した顔をしたが、それでも彼は引かなかった。


「俺は雪華さんと話しているんです。統括は割り込んで来ないでください」


幾見君も負けじと高柳さんを睨みつける。


ピリピリとした空気を出す二人に挟まれて、何か言わなければと思ったその時


ゴロゴロゴロ――


ピクリ――体が跳ねる。カミナリだ。

さっき聞こえたのは間違いなくカミナリだったのだ。しかも近づいている。


内側から冷えていくような感覚。それと同時に体が小さく震え始めた。

部下である幾見君には見られたくないのに、足がすくんで動けない。

そんな私の様子に目の前の彼は気付かないのだろう。


「雪華さん、行きましょう」


私の方へ手を伸ばした。

幾見君の手が私に触れる寸前――


パシッ――

私の後ろから伸びた大きな手によってそれは振り払われた。


「青水に触れるな」


反対の腕は私の肩に回され、彼の体へ引き寄せられる。


「なっ!」


「割り込んでいるのはお前だ、幾見」


私と幾見君は同時に目を見開いた。


目を見開いたまま高柳さんを見上げると、彼はまっすぐ幾見君の方を向いたままこう言葉を続けた。


「彼女は俺のものだ。悪いが幾見にはやれない」


ピカッ――


高柳さんの横顔が閃光に照らされる。


さっきからずっと止まらない震えは、私を抱き寄せている高柳さんには隠しきれない。

彼はまるで「大丈夫だ」というように自分の厚い胸板と腕で私を囲いこんだ。


「行くぞ」


高柳さんは私の肩を抱いたまま歩き出す。立っているのがやっとの私は、促された方へ動くだけ。


ゴロゴロゴロ――


「ちょっ、待って…雪華さん!!」


後ろで幾見君が何か言ったような気がしたけれど、迫りくる雷鳴にかき消され、私の耳には届かなかった。





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