第九章 遠雷②
何となくこのまま一人部屋にいるのを持て余して、初詣に行くことにした。
マンションを出て歩道をのんびりと歩く。この辺りはやけに静かだ。住宅やマンションの多く、正月の独特のまったりとした空気が流れている。
しばらく歩いていると、神社ののぼりが見えた。入口にある神社の成り立ちを読むと、意外と由緒正しいところだったらしい。鳥居の向こう側は露店もあり、多くの参拝客で賑わっていた。
多くは家族連れや恋人同士。複数の友人で来ている人もいる。可愛らしい稚児帯を締めた晴れ着姿の子どもや、華やかな振袖を着た女性達もいて、私みたいに普段着のまま一人で来ている人は目に着かなかった。
(そうだった。この雰囲気が嫌で、初詣には行かなかったんだった……)
毎年三が日を外して参拝していた理由を思い出し、すっかり失念していたことを悔いる。
今日はやめておこうかと踵を返そうとしたが、後ろからやってきた人の波に押されるようにして境内に入ってしまった。
(せっかくここまで来たんだし……)
来てしまった以上さっさと参拝して帰ろうと腹をくくり、手水舎で両手を清めてから参道を進んだ。
時刻は夕刻。どんよりとした空からは今にも氷の粒が落ちてきそうなほど風が冷たいけれど、参道には人がごった返していて少しずつしか進まない。私は着ていたダウンコートのファスナーをきちんと上まで閉じて、人の流れに従って一歩ずつ足を進めていた。
あと少しで自分の番、というその時。人の群れのその向こう側に、背の高い後ろ姿が目に入った。
(高柳さん⁉)
実家に帰った彼がこんな所にいるはずもない。
あれほど長身の人は周りにおらず、人ごみの向こうに飛び出た頭は彼とそっくりだ。
その人はちょうど授与所の前でお守りか何かを見ている。
大声で呼べば届くかもしれない距離。
拝殿はすぐ目の前だというのに、私は列からスルリと抜け出した。
長身の後姿に向かって小走りで近付く。
あと十歩、と言う時、その人が横を向いた。
(高柳さんだ!)
それは間違いなく高柳さんで。
分かった途端、あんなに寒々としていた心の中が嘘のように温かくなっていく。
私は彼を呼ぼうと口を開いた。が、出かかった声を飲み込んだ。
彼がすぐ隣の着物の女性に笑顔を向けていたからだ。
滅多に見ることの出来ない大きな笑顔。
普段は表情に乏しい彼にあんな素敵な笑顔を向けられて、陥落しない女性がいたら見てみたい。
それほどまでに今の彼の笑顔は蕩けてしまいそうなほど輝いていて、しかもその瞳は柔らかく温かい。
二人の間にある親密な空気が伝わって来て、隣の女性が彼にとって大事な人なのだと、離れていても分かる。
急に胃の中が鉛を入れられたように重くなった。
もう何も見たくないと踵を返そうとしたら、足元の玉砂利が派手に音を立てた。
背中から人の壁越しに名前を呼ばれたような気がしたけれど、人の間を無心で走り抜けたからよく分からない。
参拝客の流れに逆らいながら神社から飛び出して、そのまましばらく走っていた。
神社の賑わいが届かない場所まで来て足を止めた時、私の息は随分上がっていた。
「はぁはぁっ」
膝に手をついて息を整える。こんなに走ったのなんていつぶりだろう。
見たこともない笑顔で女性に笑いかける彼を初めて見た。
肩で息をしながら足元を見つめる。
(あんな顔も出来るのね……)
酸欠の頭で呆然とそんなことを考えた。
(もしかしたら実家じゃなくて、今日は彼女と過ごしていたのかも……)
そう考えたら何もかもがしっくりと来た。
(なんだ、そういうことか。だから私はただの“同居人”なんだ)
好きな人がいるならその人と結婚すればいいのに、と思う。そしたら“お見合い”なんてする必要もない。
(何か事情があるのかもしれないわね……大丈夫。ちゃんと分かってる)
見なかったことにすればいい。
(私にだって“大人のお付き合い”が出来るんだから)
そう頭の中で思った瞬間、目頭が熱くなり両目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「や、やだ……なんで……」
拭っても拭っても次々と溢れ出る涙。止めようと思うのに止まらなくて、私は両手で顔を覆った。
(いやよ!)
声に出さずに目一杯叫ぶ。心の中で嵐が吹き荒れていた。
ダメと言われて駄々をこねる幼いこどものような自分。涙は止まるどころかどんどん激しく溢れ出して、溜まった雫が指の隙間から手首に伝っていく。
耐えていた嗚咽が漏れそうになった時、耳に“あの音”が聞こえた。
遠雷だ。




