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第九章 遠雷①



時間の流れは恐ろしいほどに早く、年を越して新年になった。私達にとっての勝負の年だ。


二日の昼下がり。外はどんよりと曇っている。

昨日まではお正月らしい気持ちの良い快晴だったのにな、と思いながら、私は一人ぼんやりと外を眺めていた。


先月、突然現れた矢崎さんはあれ以来姿を見せない。私用メールも来なくなったので最近やっと少しホッとしている。


あの日、帰宅した玄関で高柳さんに抱きしめられてキスされそうになったところから逃げだした私は、部屋に籠っていつのまにかそのまま眠ってしまっていた。


早朝に目が覚めて、様子を伺いながら部屋から出ると、家の中はシンと静まり返っている。ダイニングテーブルにはラップのかかった朝食とお弁当の包み。


高柳さんの部屋の扉に視線を向けてみるが、開く気配はない。私以外の人の気配がしなかった。


ふとテーブルに視線を落とすと、お弁当の隣にある小さなメモがある。


【出張なので先に出る。明後日には帰ってくるから留守を頼んだ】


(そういえば、そうだったわ……)


職場で聞いていたのに、すっかり忘れていた。


シャワーを浴びた後作って貰った朝食を食べ、いつものように高柳さんの作った弁当を持って出勤した。

職場に着くとすぐに幾見君が寄ってきて『あれから大丈夫でしたか?』と心配してくれたので、『大丈夫』と『ありがとう』を彼に伝えた。


その日からなぜか幾見君が帰りは必ず駅まで私を送ってくれるようになった。

何度も『大丈夫』と断ったが、彼にとっては遠回りのはずなのに『せめて最寄駅まで』と送ってくれる。


三日間幾見君に甘えてしまったけれどちょうど週末だからもう来週からは断ろうと思っていたら、高柳さんが帰ってきた。

そして翌週からは、高柳さんの車で行き帰りするようになった。


それこそ周りに見られたらどんな目に合うか恐ろしくて、断固として辞退しようとしたけれど、鬼の鉄壁統括の方が恐ろしく、私は言われるがまま彼の車で通勤するようになった。彼が仕事で一緒に帰れない時は何故か幾見君が駅まで送ってくれて、一体どんな連携プレーなのかと不思議に思っている間に冬季休業に入ったというところだ。


高柳さんはというと、出張に行く以前、いや、あの日より前に戻ったような態度だ。

玄関の出来事などなかったかのような平然としていて、あれから一度もただの同居人の距離を崩さない鉄壁の平常運行中。

私一人、彼と顔を合わせるのをドキドキして緊張していたのが馬鹿みたいだ。


(『なかったことに』ってことね⁉)


そういうことか、と思った。これが“大人の付き合い”。


(“大人の付き合い”というほどのことなんて、何もなかったじゃない……)


なぜか不貞腐れたような気持ちになりながら、


(それなら私だってちゃんとしなくちゃね)


と、平然とした態度で日常を送ってきた。


本当にドキドキした私が馬鹿みたいだ。



《夕方から夜にかけて寒気が流れ込み、発達した雪雲が発生し平野部でも積雪の恐れがあります》


つけっぱなしにしていたテレビの向こう側でアナウンサーが喋っている。正月特有のバラエティ番組の合間を縫ったニュースだ。


(明日もし雪が積もったら高柳さんは帰って来れないかもしれないわね)


彼は今、実家に帰っている。年始のご挨拶だ。


『同じ都内だから日帰りにしようか』と呟いていた彼に、『それだとご家族が寂しがりますよ』と言うと、じっとこちらを見つめた後、無言で頭を撫でられた。そして明日には戻ってくると言って今朝早く出掛けて行った。


ガランとしたリビングに一人。ソファーを独り占めできるし変な緊張もしなくていいから楽なはずなのに、なぜか落ち着かない。


「伊達巻、美味しかったな」


元旦に一緒に食べたおせちを思い出す。

高柳さんの作った伊達巻は出汁が利いた甘さ控えめの味で、昨日はうっかり一人で一本まるごと食べてしまいそうになった。見かねた高柳さんが新たに追加分を焼いてくれて、それもさっきの昼食で食べきった。


料理とお酒の感想を言い合うのはもうすっかり二人の間で定着していて、たまに意見が真反対でぶつかり合った時、高柳さんはなんだかんだと言いながらも結局は私に合わせてくれるのだ。


テレビの画面はいつの間にか切り替わり、華やかな衣装を着たタレントが楽しそうに喋っている。ぼんやりとそれを眺めていると、ふと、母の写真が目に入った。


「お母さん……」


思えば誰かと年越しを一緒に過ごしたのは、母が亡くなったその年以来だ。


母を亡くして初めての年越しは、心配した佐知子さんに半ば強制的に家に招かれ遠山家にお世話になった。

けれど私が居たのでは佐知子さん夫婦が自分たちの実家に帰省できない。そのため、翌年からは何度勧められても断り続けた。まどかも同じように言ってくれたが、それも断った。


優しい彼女たちは心配そうに私を見ていたけれど、


『私はひとりでも平気』


いつもそう口にした。


そうやって自分自身に暗示を掛けているうちに、本当に平気になった。


―――そう思っていた。





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