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第八章 鉄壁上司の独占欲③

「雪華さん」


幾見君の硬い声に我に返った。


「手を離してください、矢崎さん」


声が震えないようにお腹に力を入れると、自然と体の他の場所もシャンとしてくる。

掴まれている手に力を込めて払うように引き寄せると、矢崎さんの手が離れた。その反動で後ろによろめいた私を、背中ごと幾見君の体が受け止めた。


「大丈夫ですか?」


「うん。ありがとう、幾見君」


背中を支えてくれる幾見君から離れ、上体を立て直そうとした時、それまで黙ってこちらを睨んでいた矢崎さんが口を開いた。


「そういうわけか」


その声色には明らかな侮蔑が滲み出ている。


「お前もずいぶんご立派になったな」


「何を失礼なことを――」


抗議の声を上げようとした幾見君を遮って、矢崎さんはひと際声を張り上げるように言った。


「年下の男を転がせるようになったとは。俺と付き合っていた時はキスすらさせなかったお堅い女が」


「なっ!」


羞恥で顔がカッと熱くなる。


「あの時は見かけ倒しのハリボテ女だったが、今は違うんだろ?――ああ、今はお堅いフリをしてかかったやつを食いまく――」


「失礼なことを言わないでください!」


言われていることのあまりの恥ずかしさで固まっている私の隣で、幾見君が耐え切れないと声を上げた。


「これ以上失礼なことを言う様なら、ハラスメントとして上に報告しますよ!」


幾見君がきつい口調でそう言うと、矢崎さんは口を噤んだ。その目はきつく私を睨んだまま離さない。

幾見君は私の前に一歩出て、庇うように私を背中に隠した。


私は小刻みに震える体を支えるのに精いっぱいだ。


「何をやっている」


後ろから聞こえた声。振り向かなくてもそれが誰のものか分かる。

じわりと胸の底が熱くなった。


「高柳統括!」


「こんな往来で何をやっている、幾見」


驚いた声を上げた幾見君に返事をする高柳さん。こちらに向いた彼の視線を感じるが、私は俯いたまま顔を上げられない。


「それと第三の矢崎さん」


そう言った声は、いつにも増して低く硬い。


「こんな会社の近くの往来で大きな声を出す、それがどういうことか、あなたもお分かりですよね?」


「……チッ」


短く舌打ちをした矢崎さんは踵を返し、あっという間に人の波に消えて行った。


「すみません…高柳統括」


高柳さんに向かって頭を下げた幾見君に驚いて、私は彼を振り仰いだ。


「幾見君が謝ることないっ。あなたは私を庇ってくれただけだもの………申し訳ありませんでした」


後半の言葉は高柳さんに向けて言った。

勢いで顔を上げた先にいるその人と瞳がぶつかる。


さっき彼の声を聞いた時に沸いたのは羞恥心。こんなみっともないところ、彼には見られたくなかった。


けれどそれと同時に、彼の存在に大きな安堵感を覚えたのも嘘ではない。それは私の瞳を潤ませるのに十分だった。


目が合ったら泣いてしまうかも思ったが、今彼の顔を見た瞬間、滲んでいた涙が引っ込んだ。こちらを見る高柳さんが凍るような瞳をしていたからだ。


高柳さんの厳しい雰囲気を感じ取ったのか、幾見君ももう一度「お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」と謝罪してから、私に向き直り「送って行きます」と言ってくれた。


「大丈夫、一人で帰れるわ。ありがとう幾見君」


「でも、またあいつが駅で待ち伏せしていたらどうするんですか」


幾見君は矢崎さんのことを相当警戒しているようで、頑として送って行くと言い張る。彼の帰宅する路線は私とは全然違うのに。

万一ここで幾見君に送ってもらっても、高柳さんと同じ駅で降りて同じマンションに帰るところを見られたら困る。


なんと言って幾見君を納得させようかと考える私。そして忠犬のように頑として動かない幾見君。

そんな私たちの間に、高柳さんの声が割って入った。


「青水なら俺が送って行く」


「「えっ」」


二人同時に高柳さんを見た。


「青水とは帰る路線が同じだから、ついでだ」


路線もなにも……同じ場所(いえ)に帰る。


そんなことは口にできるはずもなく、私は黙っていた。

幾見君は少し返事を渋ったが、じっとこちらを見た後、「ではお願します、高柳統括」と言う。

私がもう一度幾見君に「さっきは本当にありがとう」と伝えると、彼は自分の帰る方へ去って行った。


高柳さんと二人になる。

何か言われると思ったが、彼は「行くぞ」と言ったきり何も言わず、沈黙の中二人で駅へ向かい、帰宅の途に就いた。




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