第八章 鉄壁上司の独占欲①
――電話機が鳴っている。
――プリンターが動いている。
――誰かが早口で喋っている。
オフィスのあちらこちらから出る音。それらすべてがどこか遠くにあって、隣の席の大澤さんがパソコンのキーボードを早打ちする音だけが、やけに大きく耳に届く。
私は自席のパソコンモニターを前に、動きを止めていた。
声を漏らさないようにグッと奥歯を噛みしめる。
開かれたままの社内メーラーの差出人の欄には、【Yazaki】とあり、その下の件名には【企画問い合わせ】とある。
本文自体はごく短い物で、
【以前もお伺いした件、早急にご回答よろしくお願いします。】
とあるだけだ。
(矢崎さん……)
彼はここ一か月ほどの間に、度々社内メールを送って来ていた。
そしてこれとほぼ同じ内容のメールはすでに八件目だ。前と違うのは【早急に】とついているところ。
彼が言う【以前もお伺いした件】とは、私の新しい携帯の番号のこと。
企画全体会議の時に矢崎さんと再会した私は、あれからすぐに携帯を別の会社のものに乗り換えてついでに番号やメールアドレスも変えた。SNSは元から知られていない。
最初は五輪企画のことに関しての質問のついで、といった感じだった。
【個人携帯に連絡が取れませんが、どうしたのでしょうか】
私はその返信に、プライベートなことには一切触れずに仕事のことだけを返したが、それ以来、何かにつけ【新しい携帯の連絡先を】と最後に付け加えてメールを送ってくるようになり、ここ最近は今回のような端的な文章で、完全に私用のみ。
何かぞわりと寒気がして、思わず二の腕をさすった。
「寒いんですか? 雪華さん」
通りがかった幾見君が、数冊のファイルを抱えたまま足を止めた。
「空調効いていませんか?」
十二月に入って日中の気温もグッと下がり、オフィスの空調は既に暖房だ。
普段は忙しくしていると暑く感じるくらいなのに、いつの間にか手足が冷たくなっている。
「風邪じゃないですか? 顔色が悪いですよ?」
指先を両手で温めながら「大丈夫」と答えると、幾見君の向こう側にいる高柳さんとなぜか目が合った。
何か言いたげにじっとこちらを見ている。
なんだろう、と首を傾げたところに、突然視界の斜め上から幾見君の腕が横断してきた。
「なっ、何?」
「これ、企画への問い合わせですか?」
幾見君が指差したのはモニターに映し出されたメール。
「え……ええ」
それは一見しただけでは、おかしいことなどないはずのメール。
けれど幾見君は首を傾げながら不思議そうに言う。
「おかしいな。企画の件は俺の方に連絡が来るようになっているはずなんですが……」
企画チーム本部への問い合わせの窓口は幾見君だ。最初の全体会議で配った資料や、事あるごとに回したメールにもそう載せてある。
「えっと、この人は前の職場の先輩で……だから、私の方へメールが来たのかも……」
「そうですか」
「これには私が返しておくわ。次回からは問い合わせメールは幾見君の方に送るように確認しておくわね」
「はい」
私の説明に納得したのか幾見君は立ち去った。
ふと視線を感じてそちらを向くと、高柳さんと目が合う。
(何か? 問題案件でも起こったとか……?)
物言いたげな瞳にそんなことを想像して、さっきとは違う意味でぞっとした。
職場で彼に怒られるより恐ろしいことなんか無い。ここでの彼は、真に鬼上司だ。
ピタリと合わさった瞳は、数秒後逸らされた。
(特に何も無かった?)
高柳さんは既にデスクに瞳を伏せ手元の作業に集中しているようで、もうこちらに向けられることはなさそうだった。
私はメール画面を閉じ、作りかけだった資料のファイルを開いた。
十一月前半の企画拡大作業に追われた後は、割と通常運行でここまでやってきた。
周年企画【TohmaBeer-Hopping】は、新年早々に行われる決起会を皮切りに本格始動する。
今は決起会の準備をしつつ、始動後の進行の確認やそのための根回しなどをする、言わば段取り期間なのだ。特に問題は起きていない。
矢崎さんのことは誰かに相談するつもりはない。
ここは会社で、この問題は私のプライベートで、職場にそれを持ち込むなんて出来ない。
仕事にプライベートを持ち込むことが嫌いな鉄壁上司には、余計に言えるわけなかった。




