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第七章 夫の役目⑫

「第三支店の矢崎」


前触れもなく出された名前に、ピクリと肩が小さく跳ねる。


ほんのかすかな反応だったけれど、吐く息の音が聞こえるほど近くにいる高柳さんには伝わったかもしれない。


(なんで今――)


この場と無関係のその名前が出るのかと、疑問に思った次の瞬間、耳に入った台詞に私は息をのんだ。


「それと今日のやつ。――他に付き合っていた男は、あとどれくらいいるんだ」


(なっ!)


勢いよく彼の方を振り仰ぐと、射抜くような瞳とぶつかった。


その強い視線から目を逸らすことが出来ない。

心臓が早鐘のように鳴り、背中からは冷たいのか熱いのか分からない汗が滲み出てくる。


お互い口を開くことなく見つめ合う。それはまるで、時が止まったかのようだった。


(やだ……負けたくない…)


沸々と胸の奥から湧き出て来たのは、そんな想い。


(どんな時でも、言うべきことは言う)


自分の人生を自分の足だけで生きていくと心した時に、私はそう決めたのだ。


高柳さんがなぜ不機嫌なのかは分からないが、誤解していることだけは正さないと。

自分のポリシーに反することは、自分に負けたことと同じだ。


目の前の瞳を見つめたまま、そっと息を吸い込んだ。


「ちがいます」


震えることなくはっきりと告げる。


「矢崎さんとは、入社してすぐの頃少しだけお付き合いしていました」


真っ直ぐに彼の目を見て言う。すると、彼の瞳がピクリと動いた。


こんな私の過去なんて、彼にとってはどうでも良い情報だろうと思うが、どうせ知られてしまっているなら、はっきりと自分の口で告げた方がいい。


「が、すぐに振られてしまいました。私は“ハリボテ女”らしいので」


私がそう言うと、高柳さんは細めていた瞳を軽く見開いた。


「それと堂本君はただの後輩です。付き合っていません」


一旦息を短く吐くと、私は残りの言葉を一気に口にした。


「大学の時に初恋の人に振られて以降、入社後に矢崎さんと付き合うまで誰ともお付き合いしたことがありませんでした。そんな私は矢崎さんにとって期待外れだったのでしょう。外見はそれなりに社会人として恥ずかしくない程度に整えましたが、この年で大人の付き合いも出来ない私は『見かけ倒しのハリボテ女』というわけです」


高柳さんから目を逸らさず一気に喋りきって、ふぅっと息をつく。

言ってしまった後からじわじわと羞恥がせり上がって来て、俯いて膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。


「――そうか」


振って来た声をただ黙って聞く。

彼の声色から険が取れたような気がしたけれど、その表情を確かめるために顔を上げることは出来そうにない。


(今更……幻滅されるほど興味を持たれていたわけではないし……)


そう思うのに、どうしても高柳さんの反応が気になってしまう。


(顔の赤さ、早く治まって!)


そう心の中で叫んだ時、頭に何か温かなものが触れた。

大きな掌とは違う、湿り気のある小さな温もり。

それに該当するものが思い浮かんだ瞬間、一瞬で爆発したみたいに体全部が熱くなった。


「ばかだな」


下を向いて固まっていると、その言葉は降って来た。


(ああ、やっぱり……)


じわじわと瞼が熱く湿ってくる。


「いい大人なのに……馬鹿みたいですよね、私」


キュッと唇を噛みしめると、私の頭の後ろ側を大きな手がゆっくりと撫でた。


「馬鹿なのは矢崎だ」


ゆっくりと顔を上げる。

そっと優しく髪を往復する手。それと同じくらい優しい瞳をした高柳さんが私を見つめていた。


「青水は見かけ倒しでもハリボテ女でもない。そのままで十分魅力的だ」


「……っ!」


「会社で凛としている時もいいが、家での抜けたところは――面白い」


「おもっ⁉」


初めて言われた言葉にびっくりした。

『面白い』というのは褒め言葉なのかどうか微妙だけれど、そう言った本人が柔らかく瞳を細めているので、前向きに捉えることにする。


「『この年で大人の付き合いも出来ない』と青水は言ったが、何も問題はない」


一旦言葉を切った高柳さんは、私の目を見てきっぱりとそう言い切った。そして一ミリも表情を変えることなく口だけを開く。


「妻に一からすべてを教えてやるのは、夫の役目だろ?」


「やくっ、……ええっ⁉」


緩く微笑む高柳さんから見たことのない色香が漂っている。


「あ、あの……それはちょっと……」


じりっと体を後ろに引くも、椅子の背もたれと彼の腕によって阻まれる。

そんな焦る私とは反対に、高柳さんは相変わらずの鉄壁。


「そんなに怯えるな。青水の嫌がることはしない。俺のことが信用できないか?」


一瞬垣間見えた色香をスッとしまい、いつもの表情に戻った高柳さんが私に訊ねた。


高柳さんのことは信用している。それは一か月以上一緒に暮らしていれば分かることだ。表情には出ないけれど彼は優しいし、私のことをいつも気遣ってくれる。


私は左右に首を振った。


「そうか」


目元を少し緩めた高柳さんが、嬉しそうなのが分かる。


「じゃあこれからも頼んだぞ、奥さん」


そう言って高柳さんは、人差し指で私の目元を軽く拭ってから離れて行った。






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